限界状態のかぐや
前話に引き続き額田様視点のお話です。
語り口が主人公そっくりなのは気のせいです。
難波津を出航した舟は、難波堀江を抜けて海へと出ました。
(※この頃の大阪市一帯には河内湖が広がっていて、大和川や淀川が流れ込んでいました。大阪湾と河内湖は5世紀頃造営された難波堀江によって繋がっていました。)
ゆるゆると陸が遠くなっていく様を見て、船の上でははしゃぐ者もおります。
船の上の浮かれた雰囲気の中、帝はポツンと歌を溢しました。
『愛しき吾が若き子を置きてか行かむ』
(訳:私はかわいい幼子を残して行くのです)
心の奥底から出てきた歌なのでしょう。
飾り気のない歌だからこそ、帝の辛いお気持ちが痛いほど伝わってきます。
船の中で、帝は建皇子を心配するあまりずっと横になられていました。
やはり無理にでも飛鳥に残るべきだったと後悔しても始まりません。
船は陸を左側に臨みながら、坤(※南西)の方向へと向かいます。
そして一旦、淡路国で寄港します。
そのまま行けば……と思ったのですが、この辺りの潮の流れはとても早く、潮の流れに逆らって進むのが難しいのだそうです。
その間は船を島陰に待避させ、潮の流れが変わり流れに乗って一気に駆け抜けるのだそうです。
私も船に乗るのは初めてではありませんが、この辺りの潮の流れは独特なのだそうです。
そう、帝が教えて下さいました。
◇◇◇◇◇
難波津を出航した翌々日、白浜の港へと到着しました。
船を降りたのに、未だに地面がゆらゆらと揺れています。
それでも輿に乗った帝について、小高い丘にある行宮へと向かいました。
行宮からは早速、無事の到着を知らせる馬便が出ました。
これからほぼ毎日、馬が白浜と飛鳥を行き来します。
その馬便に建皇子の快復を知らせる便りが届く事を期待せずにはいられません。
……しかし、現実はかくも厳しくあるものなのです。
かぐやさんの字ではなく、別の方が書かれた便りが届きました。
『建皇子様が病床に付かれて七日が過ぎました。
未だ回復の兆しは見えておりません。
熱は下がらず、食事もほとんど喉を通っておりません。
かぐや様は、最初のうちは皆の目に触れぬ様に隠されていた呪術を、今では憚る事なく使い、その度にお倒れになっております。
呪術の効力がある僅かな間に雑司女達が水と重湯を皇子様のお口に含ませております。
かぐや様からは、ご自分が倒れられたらすぐに起こす様指示されております。
しかし誰もその様な事はできず、せめて建皇子様の症状が治っている間だけでもと休ませております。
尚書の千代様はじめ、皆がかぐや様の代わりにできる仕事を引き受け、後宮に残る者全員で建皇子様の快癒を信じて、介護にあたっております』
何て事なの?!
子供が七日間もずっと熱を出しているなんて信じられません。
おそらくはかぐやさんの献身的な看病が長い闘病生活を可能にしているのでしょう。
かぐやさんが居なければおそらく今頃はもう………。
その木簡をご覧になって帝は大粒の涙を溢されました。
「かぐやよ。
辛い思いをさせてすまぬ。
それでも其方に縋るしか、他に道は無いのじゃ。
白浜の地で祈る事しかワシにできる事は無いのじゃ。
すまぬ、かぐやよ……すまぬ。
ううううう……」
私もかぐやさんが倒れるところを見た事があります。
あの時の驚きは今でも忘れません。
もしかしたらあの時、かぐやさんは呪術を使ったのかも知れません。
その二月後、私の懐妊が判明したのだから。
やはりかぐやさんは地に遣わされた天女様なのでしょう。
しかしその天女の呪術を以てしても快癒しない建皇子のご病気とは一体何なのでしょう?
嫌な予感が頭の中を駆け巡ります。
もしかしたら建皇子様はもう駄目なのかも知れません。
せめてそうなる前に……。
居ても立っても居られない私は、再び皇太子様に帝のご帰還を直訴しました。
「お願いです。
帝がご帰還されるご準備をお願いします」
ここは皇太子様のお部屋。
皇太子様の傍にはいつもの様に中臣殿が座っております。
「そう簡単に言うのではない。
帝一人が帰還されるのとは違うのだ。
ここへ来る旅程の準備だけでひと月以上掛かったのだ。
帰還するのにも同じくらい掛かる。
何も計画もせず出航したところで、潮に流されて座礁するのがオチだ」
「ならば陸路でも構いません」
「恐れながら。
陸路は更に準備に手間取ります」
傍にいる中臣殿が私の意見を遮りました。
「ご高齢の帝の負担を軽くし、警護の上で最も安全な旅程が海路なのです。
それと同じ事を陸路で行うとなると、周辺の治安回復から始めねばなりません。
大人数の馬で駆け抜けていくのが一番ですが、帝のその様な事は出来ますまい」
「それなら船の準備をお願いするわ」
「額田よ。
前にも申したが建は我が息子だ。
私とて心配しないはずがなかろう。
しかし此度の湯治は紀国との交友も目的の一つだ。
まさか数日で引き返して、相手に不安や不満をもたらす訳にはいかぬ。
私とて辛い事を知ってくれ」
この様な時の皇太子様の言葉はとても軽いと感じます。
その場を切り抜けるためのその場限りの約束、理屈、言い訳。
まるで何もかも、人の命ですら軽くお考えになっている様に思えます。
それだけではありません。
何かを企んでいるのではないのでしょうか?
それを邪魔されたくない気持ちが、皇太子様の威圧する様な態度となって現れています。
そしてもう一つ。
皇太子様は建皇子の事を心配する素振りも無く、むしろ亡くなることを望むかの様な様子すら見えます。
そんなに建皇子が邪魔なの?
『私とて辛い』
この言葉を何度か聞きましたが、この言葉を口にする時、建前と本音がかけ離れている事を強く感じます。
いずれにせよ、飛鳥に戻る事はままなりませんでした。
辛いけどかぐやさんだけが頼りなのです。
だけどもう無理をしないで欲しいという気持ちもあります。
かぐやさんならばどうするのか?
一緒に過ごした私は誰よりも知っています。
彼女はきっと自らの命を削って、呪術を施しているのに違いありません。
◇◇◇◇◇
(飛鳥の後宮、かぐや視点)
……天井。
ああ、また倒れたんだ。
これで何度目か?
もう数える事はしません。
倒れた後、私の身体は満足に動かなくなります。
ネバネバした液体の中にいるかの様な感じです。
しかし建クンはもっと辛い思いをしているはず。
それを思えばへっちゃらです。
力が入らないので、人を呼びます。
最近は千代様や書司の女嬬さん達が雑司女さんを連れて手伝ってくれます。
建クンに床ずれが起きない様柔らかい布をマットレスの様に幾重にも重ねてくれたり、私が倒れた後のケアもやってくれます。
おかげで私は倒れるのを前提で光の玉を心置きなくチュンチュンと建クンにぶつけています。
最初のうちはこそこそと隠れていましたが、手間が増えるので隠すのは止めました。
建クンが無事に快復すればあとはどうなってもいいから。
雑司女さんが重湯を持ってきてくれました。
私は重湯を啜りながら、建クンの様子を聞きます。
「かぐや様の治療の後、しばらくは熱が下がり呼吸が楽になった様子が見られました。
その間に水と重湯を口に含ませて胃に入れる事が出来ました。
しかしつい先ほど、また熱が上がり始めて、重湯の一部を戻されてしまいました」
「ありがとう。
僅かでも建皇子が楽な刻を過ごせたのなら、私もやり甲斐があります。
それをずっと続ければ良いのですから」
「しかしそうなる前にかぐや様が参られてしまいます」
「いいのよ。
建皇子が回復するまでの辛抱ですから。
それまで私の体力が持てばそれで十分です。
後の事は後になってから考えましょう。
それでは私を皇子様のところに連れて行って」
「は……はい」
歩く力も尽きてしまっているので、二人の雑司女さんに肩を貸して貰ってヨタヨタと歩いて行きます。
今の建クンは、満足に食事が喉を通らず、身体の中の体力はほとんど熱となって出ていってしまいました。
可愛らしいぷよぷよなほっぺたはげっそりとやつれてしまっています。
今は治療するよりも、体力の回復を第一に考えて鎮痛解熱剤の光の玉を中心に使っています。
それがなかったら、遠に建クンの体力は限界を迎えていたでしょう。
しかしまた熱が上がり始めています。
待ってて、建クン。
私は建クンの傍に座って光の玉を浮かべます。
医薬品部類第一類の鎮痛解熱剤をイメージします。
寄生虫の可能性を考えて虫下しのお薬のイメージ。
ウィルスバイ菌を死滅させるアマビヱのイメージ。
内臓疾患だったら週に一度は服用していた漢方胃腸薬のイメージ。
アレルギーかも知れないから現代でもお世話になった抗ヒスタミン剤のイメージ。
恋煩いだったら精神安定剤のイメージ。
とにかく思いつく限りの光の玉を浮かべます。
一斉に光の玉をぶつけます。
えいっ!
バタン!
あー、やっぱりまた倒れてしまったんだ。
遠くなる意識の中でそんな事を考えていました。
……ぐや
かぐや……………かぐやよ。
何か声がします。
……男の人?
ここは後宮、男子禁制のはず。
誰?
(つづきます)




