斉明帝の嘆き
久々額田様の登場。
お師匠の斉明天皇は歌人としても歌を残しております。
※今回の紀国行きで斉明帝に同行することになった額田王視点によるお話です。
私がまだ後宮に居た頃、私は帝について行ってあちらこちらで歌を披露しました。
しかし心が幼く技術も未熟だった私は、思い出したくない程の酷い歌をたくさん残してしまいました。
そのたびに帝から歌の良し悪しを丁寧に教えられる程に上達していき、いつしか歌人として名を馳せるほどになりました。
私にとって歌の師匠、それは斉明帝、当時の皇極帝なのです。
歌人として、人として、女性として、私にとってこの上のない敬愛を捧げる唯一の御方なのです。
そして帝のお陰で私は最愛に人と呼べる方と出会いました。
年下の高潔なのに少し頼りな下げな皇子様。
その方との間に子が生まれたとき、帝はとても喜んで下さったことを昨日のように覚えております。
帝の子ども好きはとても深く、母親が誰であろうとも全ての孫の事を慈しんでおられます。
とりわけ皇太子様の子、建皇子を可愛がっていることは有名です。
滅多に声を発することのない皇子を帝は全身全霊を掛けてお守りしてきた、その様な表現が適切でしょう。
更に嬉しいことに、力強い味方が現れました。
かぐやさんです。
彼女は歌の才能こそ(ゴニョゴニョ)……ですが、その知識量は常人のそれを凌駕しております。
私が娘の十市を生むことが出来たのも、彼女無くしてあり得ませんでした。
かぐやさんは建皇子様の世話役として後宮に入り、人伝の噂では私の心配など吹き飛ばすほどの活躍を見せていて、特に悪い方へ……、その噂を耳にするたびに頭が痛くなったものでした。
お願い、かぐやさん。
もう少し自重して!
将来、皇子様の味方として手助けを約束している彼女は、私にとって手の掛かる妹であり、皇子様を支える力強い同士であり、そして心優しい友なのです。
そんなある日、帝から紀国へのお誘いを受けました。
建皇子の療養を兼ねて、湯治に行くのだそうです。
建皇子がご一緒なら、当然かぐやさんも一緒でしょう。
どうしようか迷いました。
意外にもそれを後押しする方がいました。
皇太子です。
「額田よ、母上と共に紀国へ行ってくれ。
おそらく半年以上滞在する事になるだろう。
向こうでは施術所とやらを用意した。
我が后と共に母を支えてくれ」
訂正します。
後押しでなく否応無しでした。
ひょっとして私を飛鳥に残すと大海人皇子と密会するのではと警戒しているのかしら?
その通りですけど。
最も、密かにではなく堂々と会いにいきますけどね。
その様な経緯を経て、いよいよ紀国へ向かうことになりました。
かぐやさんは皇太子の物になった施術所に近寄らなくなったので、最近はほとんど会えません。
再会を楽しみにしていたのですが、なかなか現れません。
帝も参りません。
何かあったのでしょうか?
陽が高くなった頃、ようやく帝が参りましたが浮かないご様子です。
目下に当たる私が根掘り葉掘り聞く事は礼儀に反しております。
帝がお話しされるまでそっとして差し上げましょう。
ゆるりと進み始めた輿を横目に、私達は城下評(※今の奈良県磯城郡田原本町)へと向かいました。
そこには大和川へと繋がる飛鳥川の船着場があります。
ご高齢の帝を案じて、難波津までは出来るだけ船でお運びする段取りになっています。
さほど遠くない場所ですのですぐに着きました。
船には帝のご希望で私も同乗することになりました。
小さくて狭い船の上です。
くっついてしまいそうなくらいの近さです。
「お加減は如何でしょうか?」
差し出がましいと思いつつも、心配で聞かずにはいられません。
「建が……、建が熱を出しての。
此度は一緒に行く事は出来なかったのじゃ」
「それは心配です」
「ああ、ワシが居たところで何か出来るわけではない。
汗を拭う事くらいしか出来ぬ。
何より、頼りになる者を残してきた。
案ずる事は無いとは思うのじゃが……」
頼りになる者……、誰と言わずともそれがかぐやさんだと分かります。
しかし周囲に人が居りますし、供の者達は川辺を寄り添う様に歩いております。
「ならば、きっと快方に向かいますでしょう」
「そうじゃな……」
そう仰って、帝は心の内を歌に認めました。
『飛鳥川 水漲ひつつ 行く水の間も無くも 思ほゆるかも』
(訳:飛鳥川が絶え間なく水を漲らせて流れて行くよぅに、私はいつも建皇子のことを思っているよ)
やはり帝の歌は別格です。
風景を詠いながら心の奥底にある感情を上手に乗せて歌を練り上げます。
その悲しみの深さが窺い知れます。
帝のお人柄も余すところなく現れております。
そして舟が大和川へと入り、飛鳥がほとんど見えなくなる頃、更にもう一首歌われました。
『伊磨紀なる小丘が上に雲だにも著くし立たば何か嘆かむ』
(訳:あの今城の山の上に(あの子の吉兆を知らせる)慶雲がはっきり立つのなら、嘆くことはないのだが……)
心配で堪らない心情と、安心したいという心情が入り乱れた様を表しております。
側に居ながら、歌を返す事も出来ません。
やはり私は未熟なのでしょうか?
舟は亀の瀬の手前で一旦降ります。
亀の瀬は大変な急流で舟で降るのにはあまりにも危険です。
出発が遅かったので、麓も当麻様のお屋敷で一泊しました。
その夜……
寝所からは時々帝が啜り泣く声が聞こえました。
かぐやさん、頑張って!
◇◇◇◇◇
翌朝、輿に乗られて山を越え、再び大和川で船に乗ります。
ここからは大きな舟なので全員が分乗し、難波津へ向かいました。
難波津でちょうど良い風を待つ間、飛鳥からの便りを待つのは私も辛い気持ちになります。
『建皇子様は無事、快方に向かいました』というかぐやさんの綺麗な字が書かれた木簡を待ちます。
しかし現実は思う様には参りません。
『建皇子様の熱が下がらず、一生懸命に熱を冷ましております。
油断が出来ぬ状況が続いておりますが、一同奮闘して看病して参ります』
もう丸三日になります。
幼い子が熱を出すのは珍しくありません。
しかし三日間ずっと熱が引かないというのは、娘の十市でもありませんでした。
本当にこのまま引き返した方が良いのかもしれません。
私は意を決して、皇太子に訴えました。
「中大兄皇子様、帝は建皇子の事がご心配のあまり、食事もほとんど喉を通っていない模様です。
一旦引き返してみては如何でしょう?」
「建一人にために皆が引き返すのはならぬ。
母上が戻ったとしよう。
それで治ると言うのか?」
「いえ……」
「言っておくが建は私の息子だ。
私とて心配なのだ。
しかし政の前には目を瞑らねばならない事もある」
政と言っても湯治ではないの?
頑なになってしまった皇太子様に何を言って無駄なのは過去の経験からも明らかです。
私は仕方がなく引っ込みました。
そして三日後。
北からの風が吹き、船を出せる準備が整いました。
この船が出てしまえば簡単には引き戻せなくなります。
帝は心残りを歌に認め、こう詠いました。
『水門の潮のくだり海くだり 後ろも暗くれに置きて行かむ』
(訳:潮が押し寄せ、海水が押し寄せ、水門へと流れてくる。暗い気持ちとあの子をここに置いて、船出しよう。)
ああ、何て高潔な御方なのでしょう。
かぐやさん、お願い。
帝に訃報を届けたりしない様、頑張って!
お願い!!




