【幕間】鎌足の苦悩・・・(7)
鎌足様、露離疑惑?
(※悩める中年管理職・鎌足様視点による時代の移り変わりをご覧頂いております。そのうち、「オーマイガッ!」と言い出すかもしれません)
無事であるか、無事でないか、と問われれば無事に即位の儀は終了した。
あれが無事であるというのならな。
かぐやの舞の後の狂乱状態は、かなり危うさを覚えた。
あの狂喜乱舞が新斉明帝にも向かう事が、良い事なのか悪い事なのかは判断が付かぬ。
ただ、最近の宮での話題があればかりなのは勘弁して欲しい。
ここでもあそこでもどこででも、だ。
まるで盛りのついた犬じゃないか!
終いには私がかぐやの後見人扱いまでする輩が現れる始末だ。
そう聞かれる度に「かぐやは後宮の者だ」と答えている。
私はあの娘など知らぬ!
私が知っているかぐやはもっと小さくて可愛げが……あったっけか?
まあ何れにせよ私はかぐやに見限られたのだ。
おそらく額田殿の件を利用して大海人皇子を追い落とそうとした事もバレているのだ。
脳裏にはかぐやが私に向けた残念そうな顔が浮かぶ。
……これではまるで失恋した小童みたいだ。
言っておくが私は女子には不自由しておらぬ。
葛城皇子をはじめとして周りから娘を差し出すのが多く、私にはあちこちに女と子供がいるのだ。
残念ながら皆女子ばかりで、男は一人も生まれていないのが目下の悩みだ。
(※作者注:藤原不比等が生まれるのはこの五年後です)
悔しい事にこの様な事すら相談相手として真っ先に浮かぶのがかぐやなのだ。
もういい加減にして欲しい。
◇◇◇◇◇
寒空の下、宮中の熱気がやや冷めてきた頃にその報せが来た。
忌部氏の氏上、忌部首子麻呂殿が亡くなられた。
子麻呂殿との思い出は多い。
中臣氏と同じく祭祀を営む氏であり、顔を合わせる事も必然と多かった。
私が若かった時には何かと世話になった。
だが神を至高とする考えの子麻呂殿と現実主義者の私との溝は深く、仲違えこそはしなかったが子麻呂殿が政へ口を出す事を最後までさせなかった。
多分言いたい事は山ほどあったであろうが、良くも悪くも子麻呂殿は善人だ。
もし彼が政の中枢にあったなら、真っ先に私が都合の良い駒として利用するだろう。
その一方で、私利私欲の少なさがかぐやに好かれたのだと思う。
私はその対極にあるという訳だ。
その様な意味では私にとって羨ましい方なのだ。
訃報を聞き、忌部氏の氏神を祀る天太玉命神社へ行く事を思い立った。
仕事?
どうせ忙しいのだ。
一日空けたところで忙しい事に変わりはない。
側近に出掛ける旨を伝え、馬を出した。
特に馬を走らせる事なく、かっぽかっぽと進んでいくと妙な一団が前を歩いていた。
身なりの整った官人らしき集団がニ列になって歩いていく。
そして一番後ろに母子(?)らしき親子連れが付いて歩いている。
後ろの親子連れもそれなりの身分らしく付き人が付き、護衛を伴っているが、前を行く官人らが気を遣っている様子はない。
まるで雑司女の様な扱いにも見える。
だが……近寄って見ると、見覚えがある後ろ姿。
いや、正直に言おう。
最初からかぐやではないかと思っていたら、その通りかぐやだったのだ。
別に会いたかった訳ではない。
言い訳するつもりもないし、謝罪なぞするはずも無い。
だが、話しかければかぐやの事だ。
通り一遍の返答はするだろう。
後ろからゆっくり近づき、声を掛けた。
「かぐやよ、久しぶりだな」
突然の声掛けだったが、さして驚いた様子も見せずこちらを振り返ると、かぐやは相変わらずであった。
「お久しゅうございます。
この様な格好のため、礼が出来ず申し訳ありません」
かぐやは子供を布でしっかりと固定して、自分に縛り付けていた。
女子とは思えぬ膂力だ。
「その子が葛城皇子の子か?」
「はい、建皇子様です。
本日は帝の御許可を頂き、子麻呂様の葬儀に同行する事を許されました」
つくづくかぐやは子供とは縁が深いと思う。
自らが産婆として多くの赤子を取り上げ、私と与志古との間に生まれた美々母与児も死産の危機から救ってくれた。
幼い真人もかぐやに懐いていた。
初めて会った時はまだ八つの幼子であったのにな。
「初めて見た時の其方はまだ幼かったが、もう子供を抱えても違和感がないな。
子供の成長とは早いものだ」
感慨に耽っていると、思わず頭に浮かんだ事が口から出てしまった。
「ご自身では気がついてなさらないかも知れませんが、その分、中臣様もお年を召しているという事なのですよ」
ふふふふ、かぐやが子供らしくないのはこうゆう所なのだ。
同年代に言われれば納得するのだが、この様な事を経験しているはずのない年若きかぐやが平気で口にするのだ。
次は何を言うのかが分からず、会話が楽しい。
「ははは、そうか。
そうだな、あの時の自分はまだ若かったな。
では、私は先に行く。
久しぶりに話ができて嬉しかったぞ」
久しぶりの会話らしい会話ができたのが妙に楽しかったが、子供を抱えての歩行を邪魔する事はしたくない。
馬を走らせ、その場を後にした。
◇◇◇◇◇
天太玉命神社へ到着すると、佐賀斯が出迎えてくれた。
子麻呂殿は既に石棺へと移されていた。
私はその石棺へと相対し、在りし日の子麻呂殿を偲んだ。
……………
蘇我氏が専横を極めていた頃、私も子麻呂殿も先の世を憂いていた。
このままでは帝に代わり蘇我が大王を名乗る日が遠からず来るだろうと、誰もが予想した。
忌部氏は蘇我氏に近く、友好的手段による柔和策を探っていた。
物部氏はなまじ対抗しうる力を蓄えていたため、完膚なきほどまで叩きのめされた。
そして中臣氏は弱小な故、蘇我氏に全く相手にされていなかった。
子麻呂殿は神へ縋る道を模索していたが、私は現実見据えて打倒・蘇我氏へ動くべきと考え、行動に移した。
唐の書の教えに倣い、力が無いのなら力以外で対抗すべしと考えた。
そして祭祀を与る立場を利用し、各地の神宮、神社に間諜を配備した。
情報……、それは戦を左右する重要な要因だ。
諜報活動が軌道に乗り、葛城皇子と志を共にする事が出来た。
そして一枚岩でない蘇我氏の中から内通者を味方にした。
ようやく叛逆の手応えを感じ取れる様になった頃、忌部氏に潜ませた間諜から妙な知らせが入った。
『讃岐国造の娘が鎌子殿の企みを知っている。
天太玉命神社で怪しげな妖術を使い、高らかにそう言い放った』と。
焦った。
それまで積み上げてきたものがガラガラと音を立てて崩れ去る様な絶望感、喪失感、焦燥感、そして怒り。
私は讃岐国造で催される宴に行くという与志古の護衛として同行し、その真意を探った。
結果は知っての通りだったが(第40話『宴、最終日(2)・・・中臣鎌足』)、あの時以来忌部はかぐやとの距離を詰め、今では忌部の宮にかぐやが住むまでになった、
一方で私は私で離宮まで建てて接近を試みたが、与志古の友人、真人の想い人ではあるが、私自身は立場も手伝い距離が詰まった実感がまるで無い。
これもひとえに子麻呂殿や与志古、真人らが純粋にかぐやの事が好きなのだからであろう。
私の様に他人を利用する事しか考えぬ邪な男にかぐやは近づかぬのだ。
各地に伝わる天女伝説では皆、欲深き男らを捨てて天へと還っていく結末だ。
子麻呂殿はいつもかぐやを天女と言って崇め、嬉しそうに天女の話をしていたな。
子麻呂殿よ。
もうすぐ其方の天女がやってくる。
きっと喜んで葬送の舞を魅せてくれるであろう。
さらばだ、子麻呂殿よ。
私は葬儀が始まる前に天太玉命神社を後にした。
………後日。
政庁で
『今度は天太玉命神社で神降しの巫女が神々を降臨させたぞ』
という噂が広まっていた。
何やっているんだ、あいつは!
少しは自重しろっ!!!
(幕間、次話でおしまい……の予定)
本作品の裏設定の一つとして、聖徳太子不在説を採っています。
後世に残る聖徳太子の超人的な活躍は、後の日本書紀によって潤色されたものであるという説があり、その目的の一つに蘇我氏の政治的な成果を横取りするというものがあります。
例えば社会科で習った十七条の憲法や冠位十二階の制度などが蘇我氏による政治であったという説です。
それを隠すため、書記では厩戸皇子を聖徳太子として祭り上げ、推古天皇の摂政として辣腕を振るった事にした……という訳です。
何故そう考えるかと申しますと、
摂政という役職があるのなら、斉明帝が重祚する前の皇極帝だった時(642〜645年)に、当時蘇我氏に近い血統の古人大兄皇子を摂政に据えていたと考える方が自然に思うからです。
事実、その前の舒明帝の政ではガッチガチに蘇我氏に固められていました。
そうしていたら少なくとも入鹿は暗殺されていなかったはず。
何を言いたいかと申しますと、そこまで強大だった蘇我氏を中大兄皇子&中臣鎌足らはたった十年で根絶やしにしたという訳です。




