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【幕間】孝徳帝の独白・・・(1)

何度も申しておりますが、本作品は異世界(フィクション)であり、登場するのは全て架空の人物であり、実在する個人及び団体とは一切関係ありません事を重ねて申し上げます。


今回は台詞がなく、孝徳帝(架空の人物かも知れない方)サイドから見た歴史の流れの説明になります。

 孝徳帝の視点のお話です。


 頭が澱む……。

 昨年の遷都の建白以来、余の周りから人が去り、身の回りを世話する妃らと僅かの臣下だけしか難波に残っていない。

 もはや生きていく気力も湧かず、山城国の山崎(※)に宮を造らせて隠居するつもりだ。

(※ 今の京都府乙訓郡大山崎町、ウィスキーで有名な所)

 立つのも辛く、霞掛かった思考の中、身体を横たえる。

 意識が身体を離れ、時を遡り、若かった(いにしえ)と誘われていく……。


 ◇◇◇◇◇


 帝になれなかった父・茅渟王(ちぬのおおきみ)を見て育った余は、帝位と無縁であると思っていた。

 強大な勢力を持つ蘇我氏に対立する事なく、事を荒立てず、外界がどんなに荒れようと仏教を学びながら平穏に過ごす……、それが余の望みだった。

 短命だった祖父、押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ)はおそらく蘇我の手の者によって亡き者とされたのだ。

 出過ぎた真似などせず、継承権なぞ放棄して臣籍降下すればよかったのかも知れぬ。

 だが運命の悪戯というか、叔父(舒明)と姉(皇極)が相次いで帝位に就き、余の継承順位が繰り上がってしまった。

 それでも蘇我との関わりの薄い余が帝になるはずは無いと信じていた。

 だが、葛城皇子が中臣と手を組み、武力で蘇我を撃ち倒してしまったのを切っ掛けとして、甘い目算は脆くも崩れてしまったのだ。


 中臣は以前より我々の周りを調べ、余にも接触してきた。

 蘇我を排除すべきと唆してきたのだ。

 何て恐ろしい事を言う男だと、出来るだけ距離を取った。

 巻き込まれては堪らぬ。

 そんな余を身限り、中臣は若き葛城へと近づいていった。

 絶対に上手くいかぬと思っていた。

 用心深い入鹿が隙を見せるはずなどない。

 怪しい動きを見せたら逆にやられる。


 だが、まさか、三韓(百済、新羅、高句麗)からの来賓の前で剣を抜き、首を刎ねるなどの暴挙を誰が想像しようか。

 余だけではない。

 入鹿も同じであっただろう。

 帝だった姉は入鹿の命乞いを無視し、暴挙を見過ごし、その場を立ち去ったと聞く。


 余の苦難はこの時から始まった。

 (よわい)五十を過ぎた余に帝位が回ってきたのだ。

 姉・皇極帝が退位し、新たな帝へ譲位すると言うのだ。

 前例のない出来事だった。

 本来であれば舒明帝の息子、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が帝に為ればよかった。

 しかし蘇我を母に持つ古人を帝に据えるためにこれまでの蘇我の暴挙があり、そして葛城の命を狙っていた後ろめたさから、古人は出家して逃げた。

 いや、正確には追い落とされたのだ。

 そして余に帝位に就けと再三迫ってきた。


 葛城が帝になれば何も苦労する事がなかったのだが葛城はまだ十九、若過ぎたのだ。

 やむなく余は孝徳の名を戴き、帝となった。

 妃はいたが皇后は皇女でなければならぬ為来(しきた)りがあるため、当時十七だった姪の間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后に迎えた。

 葛城の妹に当たる娘だ。

 要するに、余の周りは葛城の親しい者達で固められ、(はな)から葛城や中臣の傀儡となる事を望まれていたのだ。


 連中は帝を中心とした新しき国を造ると言う。

 他を圧倒する力を持った大和を中心とした世の中を造るのだと。

 強大な帝の地位を築くため、余に力無き傀儡の帝になれとは、一体何の冗談だ?


 だからと言って贖う事も出来ぬ。

 蘇我を打倒した連中の意見を集約し、余の政の方針を決めた。

 それが改新の詔だ。

 理想に満ちた夢物語を詰め込んだ絵空事の様な内容だ。

 これを次の新春の儀に発布する事にした。

 いくら傀儡でも余の方針が全く無いのであれば、尊厳に関わる。

 そこで余は一つだけ余の言い分を通した。

 遷都すべきと。

 政を一新するのなら場所も一新すべきだと。

 おそらく今までの飛鳥の地に岡本宮、板葺宮の隣に新たな宮を建てると軽く考えていたのだろう。

 その油断につけ込み、難波の(みなと)を臨む難波の地に新たな(みやこ)を建設すると発布したのだ。

 余は前々から飛鳥の古臭いく混雑した見窄らしい(みやこ)に嫌気がさしていたのだ。

 遣唐使船を迎える場所に相応しき(みやこ)をと。

 発布してしまった以上中止はできぬ。

 難波、摂津、河内の労役を集め、(みやこ)造りが始まった。

 新たな(みやこ)は唐の長安を模した四角く広大な(みやこ)だ。


 そんな最中、古人大兄皇の訃報が入った。

 新しい政でも、葛城の政敵を粛清する方針は変わらぬらしい。

 つまり余は生かされるとしても息子達の命の保証はないと言うことだ。

 有馬と真人。

 有馬は世に存在を知られてしまったから今更隠せぬ。

 だが真人は後宮から出た事がない筈だ。

 そこで余は真人の母、車持氏の与志古を鎌子に下賜した。

 押し付ける形になるが、鎌子の懐にいれば葛城とて手を出すまい。

 気付いた所で臣籍降下をした真人を脅威とは思われぬ筈だ。

 与志古を報奨の様に扱うのは車持氏からすれば面白くないだろう。

 しかし真人の命が助かるのならば、それも安いものだ。


 こうして与志古は中臣の元へと行き、真人は『中臣真人』となった。

 真人はまだよちよち歩きをしたばかりの三つだ。(※数えで三つは1〜2歳)

 余が実の父であるなど覚えておらぬであろう。

 出来ることなら余の望んだ人生を其方が代わりに歩んで欲しい。


 古人大兄皇は特に理由が無く謀反を企てたかも知れぬと言い掛かりを付けられただけだった。

 このままでは余の命も、有馬の命もいつまでなのか分かったものではない。

 余とて素直に殺られるわけにもいかぬ。

 そこで蘇我流れを汲む落ちぶれた者達を(そそのか)したり、無頼共に皇子宮を(けしか)けさせたりもした。


 余と葛城との争いは周辺にも波及し、蘇我入鹿を撃つのに協力した倉山田が犠牲となった。

 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)は入鹿の従兄弟に当たる。

 それを中臣が懐柔し、仲間へと引き入れたと聞く。

 だが、葛城は倉山田に謀反の企てをしたという諫言(かんげん)を受け入れ、飛鳥の地に逃げ延びた倉山田を取り囲み、死に至らしめたのだ。


 後でその諫言に騙されたと言って葛城は涙したと聞くが、あまりに白々しい。

 吐き気がする!

 仲間割れをした挙句、邪魔だと始末しただけだろうに。

 葛城はあまりに危険なのだ。

 余の企ては(ことごと)く失敗し、警戒した葛城は再起を期すため、飛鳥の外れの川原(かわはら)の地に見た事のない宮を建てたのだ。

 斑鳩寺と同じ高き塔を建て、宮の壁は真っ白なのだそうだ。

 塀は高く、攻め落とすのも難しいだろうと報告を受けた。

 いよいよ葛城は余と戦うつもりなのか?


 せめて表向きだけでも余と皇太子である葛城が融和している事を内外に見せるため、策を講じた。

 改元だ。

 四年前、改新の詔に携わった阿部内麻呂も倉山田石川麻呂も既に黄泉の国の住人となった。

 大化の元号を改めて、新たな体制で再出発するのだ。

 多くの参内者の前で余と葛城が並び、和やかに話をする姿を見せようでは無いか。

 同じ頃、長門国で白い雉が見つかったという報告があった。

 これは吉兆に違いない。

 白い雉、新たな元号を『白雉』と名付け改元の儀を計画した。

 百人を超える宮人(くにん)、三韓からの来賓、姉の皇祖母、皇后の間人、そして大海人皇子らの皆が揃っている前で余は葛城を手招きし、雉を眺める姿を演出したのだ。


 そう言えばその時、面白い余興が見られたな。

 大海人皇子の舎人が舞を披露した時、雉が逃げ出しそうになった。

 しかし雉は舞子の(いらつめ)の肩に留まりスヤスヤと眠ってしまったのだ。


 あの時の娘、かぐやが余にとって大きな障害となる存在だとは……。


 (幕間つづく)

軽く終わらせるつもりでしたが、積もりに積もった裏設定が爆発してしまいました。

申し訳ありません。

お見逃し下さい。

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