再び難波長柄豊碕宮へ
少しスピードアップしました。
小正月(1月15日)が過ぎて忌部の方々が讃岐へとやってきました。
宮がありますので皆さんそちらにお泊まりですが、舞子グループは練習の都合で我が家にお泊まりです。
チューン!(左) チューン!(右)
チューン!(左) チューン!(右)
チューン!(左) チューン!(右)
チューン!(左) チューン!(右)
チューン!(左) チューン!(右)
チューン!(左) チューン!(右)
チューン!(右) チューン!(左)
チューン!(左) チューン!(右)
チューン!(左) チューン!(右)
その夜、正体不明の光が我が家の客間を照らしました。
そして巫女さん達の私に対する扱いが天女様から女神様に格上げしました。
不思議なことがあるものですね。
皆さんの話によると私が舞を披露するという催しは、かなり大規模なものになるそうです。
聞いてないよぉ~。
なので万が一の間違いもないようにと、今から現地入りして入念な打ち合わせをするそうです。
私は舞をひとつ披露すればお終いですが、忌部氏の皆さんは神事の式辞一切を取り仕切るのですから総力戦となります。
氏上様は小正月の催しを佐賀斯様に任せて、既に現地に入っているそうです。
旅の支度が出来た翌々日、私達は讃岐を出発しました。
お爺さんお婆さんは今回もお留守番です。
催しに招待されていないと言うのが理由ですが、冠位を賜ったとはいえまだまだ下っ端扱いで、部課長さんの参加する会議に一人だけ係長さんが押し掛けても肩身が狭い事でしょう。
多治比様は監視役として私達に同行します。
帝に列なる一族であり、丹比の有力者の多治比氏は成人すると共に宮中に仕える冠位を与えられるので、身分はお爺さんよりも遙かに上です。
お父上の彦武様と共に来月の催しにも出席するそうです。
同じ理由でミウシ君も催しに出席するのでは無いかと、多治比様は仰ってました。
成人していない麻呂クンと真人クンはお留守番です。
お土産は面白い恋人があれば買って帰るね。
出発の時にはお爺さんお婆さんと家人さん達、そして留守を預かる秋田様夫妻がお見送りしてくれました。
寂しげに見送られる中、秋田様だけが驚いた顔で大きく目を見開いていました。
流石はセクハラ魔神。
着ぶくれした衣の上からでもお胸の変化に気が付いたみたいです。
その様子を見て巫女さん達もキャッキャッ言ってました。
荷運びにはウチからも護衛と人足と荷車を提出しました。
残念な事に護衛さんが活躍する場がありましたが、こちら側には被害はありませんでした。
こちら側は……ですが。
さて、山を越えて前回は丹比で一泊しましたが、今回は丹治の手前側にある佐備郷に宿を取りました。
忌部氏と同じく天太玉命を氏神とする佐味氏がお住まいになっているのだそうです。
お刺身は出ませんでしたが、とても暖かい歓待を受けました。
翌日、難波長柄豊碕宮までほぼ平坦な道を往き、日のあるうちに到着しました。
多治比様だけが皇子様の宮へと行き、私は忌部氏の皆さんと行動を共にするよう言われました。
忌部の屋敷に着くと、氏上様が出迎えて久しぶりの再会を喜んでくれました。
一昨年の水害被害のお見舞いに来て以来ですから、3年ぶりでしょうか?
「おお、かぐや殿よ。
すっかり大人びて美しくなりましたな。
此度は皇子様の舎人となったと聞き驚きましたぞ。
だが姫が望むようにするがよいでしょう」
「ご挨拶が遅れて申し訳ございませんでした。
皇子様より舎人となってもこれまでと同じことを成せとのお心遣いを頂き、恙無く過ごせております。
此度は舞を披露するとのことを命ぜられ赴いた次第です。
過去にも大変な催しの度に忌部氏のお力添えを頂き感謝にたえません」
「本当に姫は変わらずに謙虚ですな」
「いえ、その様な……」
「かぐや様、お久しぶりで御座います!」
「衣通ちゃん!
じゃなくて、衣通様。
こちらにいらしたのね」
「ええ、かぐや様がまた帝の御前で舞をご披露すると聞いて、いてもたってもいられなくなり、父上様にお願いしたの」
「はっはっはっはっ、衣通よ。
まだ話の途中であったが我慢がならなかったのか?」
「そうは申しましても、父上様のお話が何時までも続きそうでしたから」
「かぐや殿に会えるのを楽しみにしておったからの。
積もる話もあろう。
先ずは旅の疲れを癒すと良い」
「はい、お世話になります」
こうして2回目の難波京滞在が始まりました。
舞の稽古に明け暮れて、気付けば二月。
大きな催し物とは『改元の儀』であると知らされたのは、儀の5日前でした。
大きな段取りとして、改元のキッカケとなった白い雉を目でて、官僚の皆さんが順繰りに挨拶をした後、高らかに改元の宣誓をするそうです。
宣誓が終わると神事が続きます。
その後、内外のご来客を集めての饗宴の儀となり、私達の出番です。
パレードとかは無いみたいです。
大化が日本史上始めての元号でしたので、その改元も初めての事です。
昔からの慣わしも何もありません。
私も平成から令和への改元時の事を覚えていますが、あの時は天皇陛下の即位も御座いましたから、だいぶ趣が違うみたいです。
というか、帝が変わらないのだから大化をもっと続けて欲しかったと思うのは私だけ?
◇◇◇◇◇
旧暦で2月中旬は太陽暦で3月中旬です。
4年前の極寒の最中の宴に比べれば寒さは我慢出来る範疇です。
前回と同様に厳しいセキュリティチェックを受け、日の出前から宮の広い中庭へと入り、片隅でずっと待機して儀が始まるのを待ちます。
イベント関係者は他にもいるらしく、色とりどりの衣装を着てスタンバイしています。
そして、これでもか!?というくらいの数の警備兵が目を光らせています。
日が出てしばらくする頃、人の気配が活発になり中庭に通じる門の外が騒がしくなってきました。
官僚達が集まりだした模様です。
中庭の正面の宮の中央には御簾が下げられていて、そこに帝と、帝の姉にあたる前帝の皇祖母尊様の席が用意されています。
周りには親王様や皇后様のお席も用意されており、大海人皇子の姿も見えますが、皇太子である中大兄皇子の姿だけは見当たりません。
ほぼ全ての出席者が出揃って、御簾の向こうに人影が見えた頃、ようやく中大兄皇子がやって来てお席へと向かいました。
しかし中大兄皇子の顔には険があり、不機嫌なご様子です。
どうしたのでしょう?
どーん! どーん!
太鼓が響き渡ると門が開き、真っ先に見えたのは四人の正装した男性が担いだ輿です。
中には小さいモノが動いています。
もしかしてあれが白い雉?
輿の後ろには見慣れない衣装を着た方々が続きます。
そして大臣っぽい先頭の二人のすぐ後にいる中臣様は少しお疲れのご様子です。
その後を四列縦隊がゾロゾロゾロゾロと続きます。
現代人の感覚ではもう少しキビキビと歩いた方がいいんじゃ無いの?と言いたくなる足取りですが……。
あ、ミウシ君だ。
横には比羅夫様もいらっしゃいます。
多治比様親子もいます。
知り合いがいるだけでも、面白みのない行列も楽しく思えてくるのは不思議ですね。
輿が帝の前まで進むと、厳かに降ろされました。
すると御簾の向こうの帝が宮の階段を降りて、中大兄皇子の方へ手招きしました。
皇子様は帝の横へと進み、共に白い雉をご覧になりました。
何だ、結構仲良さげじゃないですか。
皇子様は一礼すると元居た席へとお向かいになり、帝は御簾の向こうへとお戻りになりました。
その後も、雉との対面式や大臣の宣誓など延々と式事が続くのでした。
(次話につづく)
◇◇◇◇◇
少し長い解説.
『日本書紀』によりますと、孝徳帝は大化6年、造営中だった難波長柄豊碕宮で執り行われた賀正の礼に参列された後、小郡宮(さほど離れていない場所にある帝の離宮?)へと戻り、2月9日に長門(今の山口県)から白い雉が献上されたのを、これを吉兆ととして喜び年号を大化から白雉へと改め、2月15日に改元の儀を行った……とあります。改元の儀では皇太子の中大兄皇子や大臣達はもちろん多くの官人や百済の要人の他、高句麗や新羅の学者らが参列したそうです。
しかしたったの6日間で大規模な儀式の準備をするのは考え難く、そもそも改元の儀は孝徳帝が中大兄皇子よりも上の立場であることを示すため内外にデモンストレーションするのを目的としていたのではないかと思っています。そういった意味で儀式は入念に準備された上で、完成間近の難波長柄豊碕宮で改元の儀を執り行ったのだと考え、作中のような段取りになりました。
そして、この企みの結果は今後の展開へと繋がっていきます。
解説の言い訳。
乙巳の変の後、帝になった孝德天皇について現在再考が進められており、乙巳の変の黒幕は実は孝德天皇、当時の軽皇子ではないかという説が有力視されています。
実際の孝德帝は本作とはかけ離れた、高尚で志の高い方であった可能性も大いにあり得ます。
本作はあくまで異世界であり、架空のお話である事を重ね重ね念押ししておきます。