Sweet candy
父の命でマティアス・アデールに婚約者があてがわれたのは十二歳の時だった。
挨拶に来ながら、どう見ても着古しているとしか思えないドレスを身につけ、人のよさそうな父親と共に現れた相手は、リディアーヌ・ヴィレーと言った。
リディアーヌは同い年で、赤毛の髪を三つ編みにしていた。茶色の瞳は平凡で、顔立ちも普通。不細工とは言わないが、特に魅力的でもなかった。少々痩せ気味で香水の匂いもせず、宝飾品も一切身につけていない。ヴィレー子爵家など聞いたこともないと思ったら予想通り落ちぶれた家で、アデール家の援助を当てにした縁組だった。
父は何らかのメリットがあって援助をしているのだろうが、そのしわ寄せが自分に来るのは何となく納得がいかなかった。しかし自分は体があまり丈夫ではなく、年に数回風邪をひいては寝込んでしまい、親にも兄にも迷惑をかけている存在だ。家の役に立つのならば承知しなければいけない。
普通が一番、とはよく母が言う言葉だった。しかし貴族の女性たちは皆華やかなドレスをまとい、自分たちに似合うよう工夫しながら頭の先からつま先まで隙なく身なりを整え、バラ色に頬を染め、気品高く振る舞っている。その中の一人が自分の隣に座るのだろうと思っていたのだが、マティアスの期待とは違う結果が目の前にあった。思わず溜め息が漏れた。それが耳に入ったのか、少し俯きながらもリディアーヌの表情はあまり変わらなかった。
庭でも散歩するよう勧められ、一緒に歩いたが何も話すことはない。お互い相手に興味はなく、聞きたいことも特になく、庭を一周して戻っただけだった。
その後、出されたお茶とお菓子を口にし、顔合わせは終わった。
父母もヴィレー子爵も、大人たちは上機嫌だった。
貴族の結婚など大人の都合でするものだ。わかっていたことだったが、現実を目の前にして、まだ実感がわかないというのが本音だった。
ヴィレー親子が帰った後、父親であるアデール伯爵がマティアスに告げた。
「この婚約には期限を設けてある。婚約は最長十年間。結婚することになっても、結婚に至らなくてもだ」
それが援助の期限なのはマティアスも何となく察した。
「できれば、おまえがリディアーヌ嬢と仲良くなり、将来を見据えてくれることを願っている」
マティアスは父にうなずきで答えた。
その夜、疲れたのか熱を出した。苦い薬と一緒に小さな飴をもらった。少し酸味のある上品な甘さが口の中に広がり、そのまま眠りに誘われた。
翌日には熱も引き、昨日の顔合わせの憂鬱さも忘れていた。
隔月でアデール家とヴィレー家に場所を変えながら、互いの家族となじむためのお茶会が行われた。
ヴィレー家の屋敷は古かったが行く度に修繕が進んできれいになっていった。
リディアーヌの弟ノエルもマティアスを見知って時々お茶会に参加することもあった。リディアーヌより三歳年下のノエルはヴィレー家の跡取りになるため、今は家庭教師について学んでいる。着ている物は仕立てはいいがやはり新品ではなく、それでもアイロンは丁寧にかけられ、ほつれているところもない。
リディアーヌの方は所々修繕された服を着ていて、気になって聞けば、
「服はこれで充分です。それよりも弟の学用品が欲しいので…」
と答えた。アデール家の援助を受けてもリディアーヌには節約することが自然なようで、貧乏貴族のみみっちい習慣にマティアスは不快感を覚えたが、口にすることはなかった。
時々プレゼントを持参したが、装飾品は贈ってもつけることはなかった。布地や糸、裁縫道具や文具など、実用品ほど渡したときの反応は良く、やがてそうしたものを贈るのが定番になっていった。
ヴィレー家でのお茶会には手作りの菓子の他、領で作っている飴がよく置かれていた。特に変わった味がする訳ではなかったが、甘酸っぱさが口に合い、気に入ってつまんでいると缶に入った飴がお土産として渡された。
アデール家の支援を受け、リディアーヌは同じ学校の女子部に通うようになった。男子部と女子部は壁で仕切られており、校舎も別でほとんど会うことはなかった。学校の行き返りに偶然すれ違った時も艶のない赤い髪を一つにまとめ、着ているものが制服に変わっただけで代わり映えはせず、一緒にいた友人に婚約者だと紹介することもなかった。
貴族の子女が多い中でもそれなりにうまくやっているようで、そうしないうちに友人も出来、成績もかなりよかった。
「学校に行かせていただき、本当にありがとうございます」
何度もそう口にして感謝を示しながら、常に弟の進学への援助を気にかけていた。
その約束は果たされ、弟のノエルもまた同じ学校に通うことができた。
マティアスとリディアーヌが十七歳の時、戦争が起こった。
当主・嫡男ではない貴族は優先して出兵することが求められ、次男だったマティアスも戦地に赴くことになった。この頃にはマティアスも随分丈夫になり、滅多に風邪をひくこともなくなっていた。
リディアーヌは四葉の刺繍の入ったハンカチを渡し、
「ご無事のお帰りをお待ちしております」
と言って深く礼をした。しかしその顔は無表情に近く、表面だけでも「行かないで」などと引き留める気もないようだ。マティアスはそれを残念に思いながらも、引き留められたところで行かなければいけないのだ。礼を言ってハンカチを受け取り、出兵した。
戦争が終わるのに二年を要した。
マティアスは後方の部隊にいて、時々交代で前線に近いところに行くこともあったが、ほとんど戦うことはなかった。
二ヶ月に一度、家やリディアーヌから手紙が届いた。差し入れに小さな飴の入った缶が入っていることもあった。戦地では甘い物は手に入りにくく、他の者に悟られないよう隠しながら、時々口にした。
気がつけばリディアーヌからもらったハンカチを落としていた。後で見つかったものの多くの者に踏みつけられ、泥がついて破れていた。刺繍も変色していて、持っているのがみっともなく思え、拾うのをやめた。
間もなく終戦となるだろうと噂され、誰もが故郷に戻ることを楽しみにしていた頃、マティアスのいた部隊が敵の襲撃に遭い、部隊の者の半数が命を落とした。援軍のおかげで全滅とはならなかったが、マティアスもまた顔の右側と右太腿に刀傷を受け、一時は生死の境をさまよった。持ち直してからは傷の治りも早く、自分よりも軽傷だった者より早く国に帰ることができた。目を痛めながらも視力を失うこともなく、足の傷も歩行に支障のないほど回復していた。
国に戻ってきた兵達を拍手と歓声で迎えた。夫や婚約者がいる女性は道端で大きく手を振って迎え、その無事を確認して大泣きする者も多かった。しかしリディアーヌは街頭におらず、代わりに自分の兄ジュールとリディアーヌの弟ノエルが出迎えた。ノエルはいつの間にかマティアスの背丈を越えていた。
「すみません、姉は体調を崩していて…」
ノエルは済まなそうに言った。マティアスは、自分が大怪我を負いながらも戻ってきたというのに、出迎えにも来ないリディアーヌに落胆したが、
「そうか、仕方がないな」
と言って笑みを見せ、本心をごまかした。
その後もリディアーヌがマティアスの元に訪ねてくる気配はなく、二週間ほど経ってから、マティアスがリディアーヌの元を訪れた。
応接室に座っていたリディアーヌは、戦地に出向く前とほとんど変わっていなかった。相変わらず化粧気がなく、着飾ることもなく、髪は一つにまとめただけだ。確かに病み上がりのようで青白い顔をしていながらも背筋をピンと伸ばし、つらさを顔に出すことはなかった。
「ご無事のご帰還、何よりです。先日はお出迎えに行くこともできず、申し訳ありませんでした。今日も体調がすぐれず、座ったままのご挨拶になり申し訳ありません」
「無理をさせてすまないな」
花束を渡すと少し笑みを見せた。ノエルも同席し、しきりにリディアーヌを気遣っている。
「ノエルはいくつになったんだ?」
「十六になりました。マティアス様達のご活躍がなければ、僕も今年は戦地に行かねばならないところでした」
そう言ってノエルは出兵したマティアスに敬意を示し、微笑んだ。
戦地では後方にいたとはいえ、敵の襲撃におびえ、警戒しながら暮らした二年間は決して心穏やかではなかった。人を切り、仲間の死を目の当たりにした生活。あの怪我を思えば、生きて帰れたのが奇蹟だったかもしれない。
「ハンカチは…」
リディアーヌの問いは、戦地に持って行ったあのハンカチのことだとわかった。
無事の帰還を願い祈りを込めたハンカチは、無事に戻った時には一輪の花を添えて本人の手で戻すのが定番だった。しかしそんなやりとりがあることを知らなかったマティアスは、リディアーヌのハンカチを落としたまま置き去りにしてきた。母からもらったものは持ち帰っていたので、慌てて無事の報告とともに戻したのだが。
マティアスは後ろめたさもあり、自分の無事よりもハンカチの無事を待たれていたような気がして、少し嫌な気分になった。
「すまない、戦地でなくしてしまった」
「ハンカチよりも、マティアス様がご無事であれば」
リディアーヌが返してくれたのは自分をいたわる言葉だったのに、ひねくれた自分の心を読まれたかのようで、素直にその言葉を受け取ることができなかった。
戦地から戻ってからリディアーヌがアデール家に足を向けることはなく、ヴィレー家でのお茶会だけが行われ、顔合わせは二カ月に一度になっていた。リディアーヌはいつも座ったままで、いつまで経っても元気になる様子はなく、他に病気を抱えているのではないかと思われるほどに弱っていた。観劇に誘っても街に出掛けることさえできず、兄からもらったチケットを持て余して友人に譲ったところ、その友人も当日になって急用で行けなくなり、「代わりに行ってくれないか」とチケットに同行者が付いて戻ってきた。
同行の相手はマノン・バロー伯爵令嬢だった。
マノンはマティアスが想像する貴族の令嬢そのもので、仕立ての良い華やかな柄のドレスをまとい、広く開いた胸元は豊かに膨らみ、粒の大きな赤い宝石が光っていた。金色の髪はきれいに結い上げられ、一掴みの髪が緩やかにウェーブしながら耳元から垂れていた。ピンク色の小さな唇はつややかで、じっと目を見ながら微笑みかけられて戸惑いを覚えた。
「お忙しいのに、ありがとうございます。ご一緒いただけて嬉しいわ。ずっと行きたかった演目でしたの」
婚約者がいながら他の女性と観劇に出かける。当初は少し背徳感があったが、マノンを前にしてそんな思いは吹き飛んだ。
ボックスシートで同じ長椅子に座り、時々微笑みながらストーリーを語る姿に頷きながら酒を飲み、そっともたれかかられても悪い気はしなかった。気が付けばお互い指を絡ませていて、周囲から見れば恋人以外の何物にも見えなかっただろう。
しかし、マティアスはそれ以上を求めることなく、マノンを紳士的に家まで送った。
「今日は本当に楽しかった。ぜひ、またお声をかけてください」
マノンは笑顔で礼を言うと、屋敷に入っていった。迎えに出ていたバロー家の家令は怪しむでもなく、冷やかすでもなく、丁寧に礼をしてマティアスを見送った。
大人な付き合いをする友人を得た、マティアスはそう思っていたが、それが恋に変わるのに時間はかからなかった。
二カ月に一回しか会うことはなく、常に体調の悪い婚約者、リディアーヌ。
それに対してマノンと会う回数は増えていき、やがて週に一回は会うようになっていた。人前で腕を組むのにも罪悪感はなくなり、腰を引き寄せ、楽しく買い物をする。装飾品の店に行くと目を大きくして喜び、自分の自由になる程度で買える、しかしその中では比較的高価なイヤリングをねだられた。喜んですぐに身につける姿を見て、買って良かったとマティアス自身もまた満足げな笑みを見せていた。自分は愛する者を喜ばせる力を持っているのだ。
帰りの馬車の中で口づけを交わし、目を潤ませて恥ずかしがりながらも何度も重ねた唇に、自分はマノンを愛していると、マノンから愛されていると実感した。
そして、マティアスはマノンのためにリディアーヌとの婚約を解消する決意をした。
婚約をして八年と半年。このままいても、どのみち十年で解消になる婚約だ。
父に話をする前に巡ってきたヴィレー家でのお茶会の席で、マティアスはリディアーヌに婚約を解消してほしいと告げた。
リディアーヌは覚悟ができていたのか、事情を聞くこともなくすんなりと
「わかりました」
と答えた。リディアーヌは冷静だった。むしろ同席していたノエルの方がショックだったようだが、ノエルもまた唇をかみしめながらも何も言わなかった。
立ち上がれないことを詫びながら、最後のお茶を飲み終えると、
「今までありがとうございました」
そう告げたリディアーヌはマティアスをまっすぐ見つめ、少し笑みを見せた。
家に戻り、父であるアデール伯爵にリディアーヌと婚約を解消することを告げると、普段は温厚な父が
「何とバカなことを!」
と声を荒げた。
しかし、マティアスはマノン・バロー伯爵令嬢を愛していること、そしてマノンもまた自分を愛していることを告げ、このままでは双方を裏切ってしまうことになる、リディアーヌも了承してくれていることを話した。
同席していた兄のジュールはきっと反対すると思っていたが、諦めたように溜息をついた後、
「マティアスがバロー伯爵令嬢に入れ込んでいるのは既に噂になっており、バロー家からもそう言う話をほのめかされています。…バロー家なら我が家と同格。二人が思い合っていて、ヴィレー家が許すなら、我が家が受け入れないことはないでしょう」
それを聞き、父もまた深く溜息をつきながら、
「…向こうが了承したなら、…仕方あるまい…。…何ということだ」
とうなるようにつぶやき、マティアスから目をそらし、頭を手で押さえた。
早くもその翌日にはマティアスとリディアーヌの婚約は解消された。マティアスは同席を許されなかった。
そしてその半年後、マティアスはマノン・バロー伯爵令嬢と婚約した。マティアスはこの婚約に満足し、リディアーヌのことを思い出すことはなかった。気に入っていた飴も新たな婚約を交わす前になくなっていた。あの飴は少し残念に思え、人づてに手に入れようとしたが、同じ飴を売っているところは見つからなかった。
それから一年後、結婚を翌月に控え、マティアスは準備に追われていた。仕事の忙がしさも重なり、疲れが溜まったのか体は常にだるかったが心は晴れやかだった。妻に迎えるマノンは愛らしく、いつも笑顔でそばにいてくれる。時に機嫌を損ね、拗ねてしまっても新しいドレスを約束すると笑顔で帳消しにしてくれる。贈ったものはいつも喜んで受け取り、感謝と共に見せる笑顔が心を揺さぶった。きっとマノンとなら幸せになれるだろう。ゆっくり休めば体調だってすぐに回復するはずだ。マティアスはマノンと共に落ち着いて暮らせる日が来るのを待ち望んでいた。
体調に不安を覚えながらもマノンにねだられて出席した王城の夜会で、一年半ぶりにリディアーヌを見た。
リディアーヌは見知らぬ男と共に夜会に参加し、シンプルながらも凝ったレースの美しいドレスを身にまとい、別れた時とは打って変わって血色もよかった。きちんと化粧を施し、艶を増した赤い髪は美しく結い上げられ、一つだけつけた細工の良い銀の髪飾りが品よく見えた。
自分が知っているリディアーヌではない。貴族らしい品格がある。この一年半で一体何があったのか。
「リディ、お久しぶり」
隣にいたマノンがリディアーヌに声をかけた。
「マノン、元気そうね」
リディアーヌが笑顔で返した。
二人は知り合いだったのか。マティアスは驚かずにはいられなかった。
ゆっくりとリディアーヌはマティアスに目を移した。
「マティアス様、お久しぶりです」
かつてよりずっと魅力的になったリディアーヌだったが、マティアスには相変わらず控えめな笑顔を向けた。
「リディはこの前結婚したのよね」
「ええ、あなたも来月ね。おめでとう」
大柄の男が三人の元に近寄って来て、リディアーヌの肩に手をやった。リディアーヌはその手にそっと自分の手を重ねた。
「私の夫、アラン・デュフォーです」
「デュフォーです。はじめまして、かな? …こちらは?」
「私の学生時代のお友達のマノン・バロー伯爵令嬢と、その婚約者の方です」
リディアーヌの答えは、マティアスと過ごした八年の月日を消し去っていた。自分は確かにそれだけのことをリディアーヌにした。それを不快に思える立場ではないことはわかっていたにもかかわらず、しかめてしまう顔を抑えることができなかった。
しばらく経って、マティアスはリディアーヌが一人でいるところを見つけ、声をかけた。
「ずいぶん元気になったんだな」
「おかげさまで」
リディアーヌは一瞬睨むような顔を見せたが、すぐに笑顔で取り繕った。
「あなたもマノンと幸せそうで、お互い幸せになれて何よりね」
何度見ても目の前のリディアーヌがどうしても自分の知っているリディアーヌとは思えなかった。確かにリディアーヌなのに、顔も、髪の色も、目の色も同じなのに、別人としか思えない。それは新しい夫の愛を受け、病も癒えたからなのだろうか。
「…君は、すんなりと婚約を解消してくれたな」
「ええ」
「俺のことは、…好きではなかったのか?」
マティアスがそう尋ねると、リディアーヌは首をかしげ、怪訝な顔をした。
「好きだったなら、あなたの裏切りを恨んで、泣いて、婚約解消を受け入れられなかったでしょうね。あなたが婚約を解消してくれると言った時、本当に嬉しかった。おかげでこうして生きていられるのだもの」
「…生きて?」
急に「生きる」という言葉が出て来て、マティアスは戸惑った。リディアーヌの言っている意味がわからない。その様子を見てリディアーヌは少し呆れながらも納得した。
「本当に知らなかったのね。…私は、あなたの身代わりとして買われたのよ。人の病や傷の痛みを分かち合うことができる古の魔法があって、魔法の鑑定で私は依り代になることができるとわかったの。それを知ったアデール伯爵が十年契約で私を買い付けたのよ。あなたの病の苦しみや痛みを私に肩代わりさせるために。もし婚約をしている間に愛情が芽生え、正式に結婚が決まったら私は一生あなたの肩代わりをすることになっていた。そうなったら、きっとあと五年も生きていけなかったわ。あなたの病を引き受け、あなたの傷を引き受けるのは本当に辛かった。それでも弟が卒業するまではとずっと我慢してきたの」
思い出の中の苦しみに思わずしかめた顔を、リディアーヌはゆっくりと目を閉じて受け止めた。
「あなたの凱旋にお出迎えできなかったのは、あなたが戦場でいくつもの怪我を受けていたから。特に足の怪我、目の怪我は深かった。目に見える傷はなくても立ち上がることもできず、片目は見えず、頬はいつもひきつるように痛んだ。せっかく守りの力を糸に込め、刺繍したハンカチを渡したのに、なくす程度の人。あなたにとって私はその程度の存在だったとわかって、むしろすっきりしたわ」
言われた途端、古傷がうずくような痛みを感じた。ほとんど痛みの残らなかった傷が。足の力が抜け、見えているはずの右目がかすんできたようにさえ思える。
「マノンがあなたを好きになったと聞いて、あなたの好みを教え、あなたに好きになってもらえるよう協力したのよ。あなたの心を引きつけてくれて本当に嬉しかった」
嬉しかった、に添えられた笑顔。それは心からの喜びを示していた。
「…あなたが私のことなど知ろうともしなくて、本当によかった。私を好きにならないでくれてありがとう。婚約を解消してくれたことに心から感謝するわ。私は今、幸せよ。あなたもお幸せにね」
軽く礼をすると、リディアーヌはマティアスの横を通り抜け、その先で待つ夫の元へと歩みを進めた。わずかに引きずる右足。夫アランがすぐに気が付いて手を差し伸べた。二人は腕を組み、リディアーヌは愛情に満ちた笑みをアランに向けながらやがて会場の人ごみに紛れていった。
お互いに幸せに。
自分は思い人と間もなく結婚する。婚約者と穏便に別れ、別れた婚約者も幸せになっている。
こんな大団円はない。それなのに…。
忘れていた息苦しさと熱っぽさが蘇ってきた。
こんな時、あの飴を口にすると苦しみがなくなった。あの飴は、もう二度と手に入らない。
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