ばかとはさみは
「男って、信念とか理念とかに生きるのがかっこいいと思ってるよね」
「それってほんとそう!」
そんな会話がきっかけで、えみるは瑞廉となかよくなった。
大学主催の新入生歓迎会でのことだ。えみると瑞廉はたまたま席が近く、間に居た男子学生の興二も一緒に、お菓子やジュースを楽しみながら談笑していた。
なんの話だったのかはえみるはもう覚えていない。ただ、楽しかった。だが、瑞廉はなにかが気に触ったのか、不意に顔をしかめてあんなことを云ったのだ。
興二は黙ったけれど、えみるは即座に同意した。心当たりは山程あった。
えみるの父は、天胎両義浩浩教という新興宗教の、説師をしていた。説師というのは天胎教内部の階級で、信者に教えを説く立場だ。
父がその宗教にはまったのは、えみるが小学生に上がった頃で、父は仕事そっちのけで伝道にいそしんだ。えみるの妹のるかが、生まれつき病気を抱えていたこともあって、そこにつけ込まれたのだ。
父は伝道をこなし、教会への献金も欠かさず行い、協会内部での地位をどんどん上げていった。えみるが中学に上がる頃には説師みならいに、中学を卒業する頃には説師になっていた。
なのに、宗教団体のいう「しあわせ」は、えみるの家庭には訪れなかった。るかの病気はだいぶよくなったが、それは医療のおかげだ。父は出世コースを外れ、家計は苦しくなり、えみるは塾に通えず、第一志望の大学は落ちた。
今えみるが心配しているのは、るかの学費だ。父はこのところ、ますます宗教にのめりこみ、母が家計を支えている。
だから、瑞廉の言葉に、えみるは力強く頷いて同意を示した。瑞廉はちょっと意外そうにえみるを見たが、微笑んでくれた。
瑞廉は不思議な雰囲気の女性だった。それに実際、本当に現代社会に生きているのか疑わしいような、かわったことを云うことがあった。
「ね、美容室って、どれくらいお金かかるの?」
「え?」
お午を学食ですませていると、瑞廉がやってきて、不意にそんなことを訊いてきた。えみるは小首を傾げる。
「どういう意味?」
「そのまま。わたし、美容院って行ったことなくて」
「は? まじで?」
「まじで」
瑞廉はくすくすっと笑う。彼女はパーマをかけたみたいな、ふんわりくるくるした長い髪で、えみるは彼女が頻繁に美容院で髪をケアしているのだと思っていた。
「天然?」
「そう。ナチュラル」
瑞廉はえみるの隣へ腰掛ける。「うち、余裕ないから」
瑞廉の声は沈んでいて、えみるは口をぱくつかせた。
「……す、すーちゃんのお父さんって、なにしてるひと?」
「さあ? よくわからない。あんまり帰ってこないの」
「そっか……」
瑞廉はひょいと席を立った。
「えみるの行ってる美容院って、どこ? そこに行ってみる。バイト代はいったから……そんな、何万円もかからないよね?」
「勿論。あ、えっと、ちょっと待って。地図で説明する」
「ありがと」
瑞廉はにこっとして、長い髪を肩から払いのけた。
瑞廉は髪をそんなに切りはしなかったが、量は少しかわっていた。
並んで歩いていると、瑞廉は嬉しそうに髪をぱっと払う。
「すいてもらったらまとめやすくなったよ」
「よかったじゃん」
「うん。そんなにお金もかからなかったし」
瑞廉はふいと、えみるを見る。「ね、えみる、ハンバーガーっておいしい?」
「え?」
「食べたことないんだよね。コーラも飲んだことないし、ファミレスも行ったことない」
えみるは立ち停まり、まじまじと友人を見た。現代日本に生きていて、そんなことがありうるのか?
瑞廉は微笑んでいる。少し哀しげだ。
「変だよね」
「え? えーっと」
「ああ、いいから。大丈夫。おいしいお店知らない? 行ってみたいんだ」
かすかな拒絶を感じた。
えみるは瑞廉の手をとり、ひっぱって歩く。
「えみる?」
「つれてってあげる。どうせだから、ちょっと高いところ行こう。すっごくおいしいハンバーガー、食べよう」
「……うん」
瑞廉は低声で云った。「ありがとう、えみる。いつか、お礼するから」
瑞廉はハンバーガーを食べて、おいしいと喜んだし、コーラの味にも驚いていた。
三日後、ふたりは校内の芝生に座りこんで、ルーズリーフにそれぞれの好きなものや、興味はあるけれどやったこと・食べたことのないものを書き出していた。瑞廉は嘘みたいに多くのことに経験がなく、父親が宗教活動にいそしんでいるせいでまともな旅行に行ったことがなかった(団体の集会になら行かされた)えみるは、その程度のことですねていた自分を羞じた。
傍では、先輩達がプラカードを持って、チラシを配っている。先程、えみる達ももらったものだ。「偽装勧誘・詐欺勧誘に注意」と、でかでかと書いてある。スポーツやゲームのサークルに見せかけて、新興宗教に勧誘する、ということがあるらしい。わたしは大丈夫だよね、とえみるは思う。天胎両義浩浩教の説師の娘を勧誘するだろうか?
「じゃあ、遊園地も行ったことないの」
「うん。ああでも、今度行こうよって話になってる。興二くんと」
「え?」
瑞廉はえみるを見る。「あれ、えみる、聴いてないの? 興二くん、みんなには断られたって云ってたけど」
「聴いてないよ」
「あれ、じゃあわたしの勘違いかも」
瑞廉はきょとんとして、ケータイをとりだし、ぎこちなく操作した。興二に電話しようとしているらしい。瑞廉はそういったものの操作に慣れておらず、ショートメッセージのやりとりがへただった。
興二はえみると同じアパートに住んでいて、しかもお隣さんだ。よく顔を合わせるし、友人達と一緒に出掛けることもあった。
……もしかして……。
「あー、ごめんすーちゃん」
「え?」
えみるは慌てて、瑞廉の手からケータイを奪った。きっと、興二は瑞廉をデートに誘ったのだ。えみるやほかの友人達からは断られたと云って。
えみるは笑おうとした。
「勘違いしてた。そう、断ったの。バイトがあるから」
「……そうなの?」
「そう。ふたりで楽しんできて。お土産宜しく」
興二がそのつもりなら、邪魔する気はえみるにはない。賢くて大人っぽい、成績優秀な興二と、浮世離れしたところのある瑞廉なら、ぴったりのカップルだと思った。
瑞廉は小首を傾げたが、すぐにふふっと笑った。
「そうだ、遊園地はじめてだから、友達にお土産買うのもはじめて! えみる、期待しててね」
「興二、こら」
「いて」
アパートの最寄り駅で興二を見付けたえみるは、彼の頭を持っていた鞄で軽く叩いた。
「なにすんだよ」
「こっちのせりふ。慌てるからちゃんと根回ししとけ、ばか」
「は?」
「すーちゃん」
興二の顔が強張った。「え、なに?」
「なにじゃないでしょ。デートに誘うとしてもさ、ほかのやつ誘ったけど断られたなんていいわけ、だっさいわ。でもフォローはしてあげたからね」
「デート?」
「とぼけんな。すーちゃんと遊園地行くんでしょ」
「あ……」
興二は顔をしかめ、項垂れた。「まあ……それは……」
「いいわけにつかわれたのは腹がたつけど、応援してやるから、すーちゃんのことちゃんと見てるんだよ。あの子、世間知らずだし」
「別にデートとかじゃないよ」
「は?」
「えみるは気にしなくていい」
興二はえみるに背を向け、とぼとぼと歩いていく。えみるはそれを追おうとしたが、興二と親しくしている男子学生が数人出てきて、彼を囲んだので、結局その場に立ち尽くした。
バイトを終えてアパートへ戻ると、興二の部屋から数人分の、低くくぐもった話し声が聴こえてきた。大体、毎週水曜日は、興二の部屋にその友人達が集まっていて、えみるは彼らの話し声を聴きながら食事し、寝る。
なにを話しているのかわからないが、声は途切れない。まるで呪文かなにかのようだ。もしかしたら儀式でもしていたりして、と考え、頭を振る。
「お父さんじゃないんだから」
父は毎週日曜日に、自分が管理している教区の信者達を集め、説教会をしていた。
最後に全員でお祈りの言葉を唱えるのだが、一軒家の二階のクローゼットに閉じこもって毛布をかぶり、耳を塞いでいてもそれはえみるにも聴こえていた。その状態で近所に隠すことは難しい。えみるは小中と、「宗教してる家の子」として、学校や習い事でわかりやすくはぶられていた。
実家からかなりはなれた高校へ行ったのは、奨学金をもらえるのもあったけれど、自分の家を知らない友人がほしかったからだ。
興二の家から聴こえてくる話し声は、多分フランス語だ。興二はフランス文学を専攻しているし、友人達と勉強しているのだ。それ以外にありえない。
興二達の声を聴きながら、えみるは眠った。
瑞廉と興二が遊園地に行く日は知っていたから、その翌日、えみるはわくわくして大学へ行った。興二は瑞廉に告白したのか、それともしていないのか、気になる。瑞廉は興二を悪くは思っていないだろうし、うまく行けばいい……。
瑞廉のふわふわした髪を見付けて、えみるはそちらへ走っていく。「おはよ、すーちゃん!」
「……ああ、おはよう、えみる」
瑞廉は疲れたような顔で微笑み、それからすぐに顔をしかめた。えみるは小首を傾げる。
「どしたの?」
「あ、ごめんね。えっと、お土産、ないの」
「ああ、そんなのどうでもいいよ。どうだった? 楽しかった?」
瑞廉は頭を振る。
「え? あ、もしかしてあいつ、おばけ屋敷とか行ったの? すーちゃん、そういうの苦手なのに」
「そうじゃないの」瑞廉はぼそりと云った。「遊園地、行かなかったの」
どういうこと、と訊く前に、興二が走ってくる。興二はえみるを見て、びくりと震え、足を停める。
瑞廉とえみるも停まった。
「あの……」
「興二くん、悪いけど、わたしのことはもう誘わないでもらえるかな」
瑞廉が静かに、やわらかい声で云う。「わたし、興味ないの。ごめんね。興二くんのことは友達だと思ってるけど。興二くんもそう思ってくれてたら、嬉しい」
興二は項垂れ、そのまま瑞廉へ頭を下げて、踵を返した。瑞廉は溜め息を吐いて、歩いていく。
えみるはどちらを追うか迷う。興二のばか、遊園地に行く前にコクったんだ!
迷っているうちに、ふたりの姿は見えなくなる。えみるはまだしばらく、立ち尽くしていた。
それからも、えみるは瑞廉とも興二とも、友人付き合いを続けた。ふたりともなにがあったのかを話さないから、えみるも訊ねない。
複数人で遊びに行くと、興二と瑞廉がふたりにされることもあるが、ふたりはぎこちないものの会話もしているし、以前と同じとはいかないが、喧嘩をしたり仲違いしたふうでもなかった。
水曜日には相変わらず、あの声が聴こえる。
「映画?」
「うん」
興二は神経質にうなじを触りながら、えみるから目を逸らして云う。「チケットもらったから、一緒に行かない?」
「いいけど……」
「そっか、ありがとう」
興二はやけにほっとした顔になって頷き、走っていなくなった。
えみるは興二から渡されたチケットを見て、眉を寄せる。
「おはよう、えみる」
「あ、おはよ、すーちゃん……」
瑞廉はえみるが握りしめているチケットを見て、意外そうにえみるを見詰めた。「これ、見に行くの?」
「あー……興二に誘われた」
瑞廉も眉をひそめた。ふたりは黙って、少しの間見詰めあっていた。
「ねえ、えみる」
「大丈夫、すーちゃん」
えみるは瑞廉を遮り、頭を振った。「わかってる。大丈夫だから」
まったく自信はないが、そう云った。
約束当日の木曜日、えみるは部屋の扉に背をつけるようにして立っていた。隣の部屋から興二が出てきて、びくっとする。
「あ、お、おはよ」
「おはよう」
えみるは興二を見て、鼻を鳴らした。「女の子と映画を見に行く格好じゃないよね」
「は?」
「ていうか、女の子を誘う映画でもない。これ、タイトルは恋愛ものっぽいけど、宗教系の映画だよね。宇宙生命彩雲教の」
えみるはチケットをひらひらさせる。えみるは父親が新興宗教にはまっているせいで、その手のものにくわしかった。だまされないように、だ。自分は父の二の舞にはならない。
興二の唇は色を失い、ぷるぷると震えていた。額に汗がういている。
「もしかして、瑞廉のことも、遊園地に行くって云って教会施設へつれてった?」
「は? なにいってんの?」
「いやこっちのせりふなんだけど。あんた、なにしてんの? 成績もよくて賢くて、別に苦労もしてないくせに、どうして訳のわかんない教義を信じるかな。それにわざわざこんなばかみたいな映画見につれてくってことは、その後わたし勧誘されるんだよね?」
「ばかみたいって、なんだよ……」
興二が弱々しく反論してきて、えみるは鼻を鳴らした。
「ばかみたいでしょ。医療とか進化論とか全否定。なんなら地球がまるいことも認めてない。おたくの教祖さん、水平線とか見たことない訳?」
えみるは心の底から腹をたてていた。興二がやっているらしい新興宗教と、父がはまっているものとは、そんなに遠くもない教義なのだ。父に対しては幾ら云っても無駄だったことを、今度は友人に繰り返さないといけない、そのむなしさややるせなさに、いらいらする。
興二がなにか云う前に、彼の部屋から数人の男子学生が出てきた。いつも興二とつるんでいる連中だ。たしか、テニスサークルの……。
「ああ」えみるは頷く。「成程ね。これが噂の偽装勧誘か」
数人ぎくりとしたのは、まだ良心があると云える。つまり、興二は偽装勧誘で宗教にはいってしまい、今ではあたらしい信者獲得に走りまわっている、ということらしい。
「ほんとにばかじゃないの。あんた達みんな」
「えみる、先輩達に失礼だろ」
「うっさい。あのさ、そんなことしててもなんにもならないよ。まともに計算してみな。あんたがくだらない研究だとか研鑽だとか、得がどうこうとか云ってる時間をバイトに費やしたとしたらどれだけ稼げる? 勉強に充てたら、資格でもなんでも取れるでしょ」
先輩男子学生があざ笑った。
「僕らはそういう物質的なものを求めていないんだ。魂のレベルを上げることで、楽園に行ける」
「あたしは楽園に行かなくてもいい」
「えみる、そんなことを云わないでよ」
「興二、あんた悪いと思ってるんでしょ? だからいままでわたしのこと誘わなかったんだよね?」
興二はもごもごと云う。「でも、俺は君や、瑞廉のことを考えたら、やっぱり……」
「わたしのことなら気にしないで」
全員が声のほうを見た。瑞廉が歩いてくるところだった。
「すーちゃん?」
「心配だったから、来ちゃった」
瑞廉はにこっとして、えみるの手をとる。彼女は興二の手もとった。それから、興二の部屋から出てきた男子学生達を見る。
「悪いんですけど、えみるを返してもらえませんか?」
「は?」
先程えみるをあざ笑った男子学生が口を開いたが、瑞廉がその耳許に口を寄せ、何事かささやいた。
と、男子学生は顔色をかえ、後退る。
低声で相談したと思ったら、男子学生達はそそくさと逃げていった。興二が目を瞠っている。
瑞廉が興二の手をはなす。
「あのひと達と一緒に行きたいなら、どうぞ」
「……俺……」
「わたしは、別に、宗教自体は否定しないよ。でも、わたしは興味ないの。宗教だけじゃなくて、思想信条全部、興味を持てない。そういうことに振りまわされて、今まで迷惑してきたから」
瑞廉の言葉に、えみるは不意に泣きそうになる。学校行事や子ども会への参加を、父親に阻止されたこと、クリスマスやハロウィンをできなかったこと、ゲームのキャラクターが宗教的だという理由でゲーム機を破壊されたこと。そんな諸々が頭をよぎったのだ。
瑞廉はやわらかく云う。
「興二くんがあのひと達と一緒に、なにかを信じても、いいよ。それは自由だから。でもね、わたしやえみるがなにかを信じないのも自由でしょ。わたしは、興二くんがなにかを信じていても友達で居続けたいけど、わたしがそれを一緒に信じることはないと思う」
「……正しいことでも?」
「わたしには正しいとは思えないから、信じないよ。それに、遊園地だとか映画だとかにつれていってあげるっていわれて、そうじゃないところに行ったら、印象よくない。誰だって騙されるのはいやでしょ」
「嘘も方便って云うだろ」
「そうかもね。方便って、興二くんが信じている宗教が真っ向から否定している仏教の用語だけど」
興二はしばらく黙っていて、ふっと項垂れた。
「変だなと思うところはあるけど、いいところもあるんだ。だから、俺は、信じる」
「うん。興二くん自身が信じるのは、どうぞ。わたしも信じたくなったらそうするかもしれない。可能性は低いけど」
「……嘘ついたの、ごめん」
「うん」
瑞廉はにこっとして、左右のふたりを見る。「ね、ほんとに映画、見に行こう。ふたりとも授業ないんでしょ?」
「ないけど、瑞廉はあるんじゃないの」
「いいの。サボタージュする。物質社会を楽しもうよ。映画見て、ブランドショップとか行って、大企業のお菓子やジュースをたっぷり摂取して、資本主義を満喫するの」
瑞廉はふたりをひっぱって歩き出した。ふたりはそれについていく。瑞廉は楽しそうだ。
「瑞廉?」
「ばかとはさみはつかいようって、ほんと。お父さんには迷惑ばっかりかけられてるけど、宗教関係のひとと暴力団には強いんだよね」