3-29.思わぬ伏兵
崩落した二階の床が瓦礫となって、一階に積み重なった。パラパラと小さな欠片が降り注ぐ中、崩れた瓦礫の一部がゆっくりと動き始める。
やがて、その下から姿を見せたのは、アザラシだった。
「痛たたぁ……」
どこかに打ちつけたのか、頭を押さえつけながら立ち上がり、アザラシはゆっくりと積み重なった瓦礫に目を向ける。瓦礫から落ちた一階の部屋に視線は移り、やがて、天井へと向けられる。崩落した床の様子を眺めて、そこに不自然な焦げ跡をいくつか発見する。
「何があった?」
そう呟くアザラシの背後で足音が聞こえ、アザラシは反射的に振り返った。そこには、さっきヒマリが逃がしたナツメと一緒にいた女性が立っている。
「何だ、お前か……」
その姿にアザラシは安堵したように呟き、女性は眉を顰めた。
「何だとは何だ? 助けてやったんだ、その態度はないだろう?」
そう言いながら、女性の声は少しずつ低く響くものに変わっていた。やがて、完全な男の声に変化していく中、女性は懐から仮面を取り出し、顔につけていく。それはピエロの仮面だった。
「ああ、確かに。すまない、ジョーカー。面倒をかけた」
アザラシが謝罪の言葉を口にすると、一旦は納得したのか、ジョーカーはそれ以上の追及をしなかった。アザラシは再び天井に目を向けて、不思議そうな顔をする。
「しかし、何をしたんだ? お前の力はてっきり姿や声を変える、変装の力だと思ってたんだが、こんなこともできたのか?」
問いかけるアザラシの前で、ジョーカーは懐から一つの小瓶を取り出した。中には紐が垂らされ、その紐に小さな炎が点されている。
「こいつを使った」
その説明にアザラシは納得したように手を叩き、声を上げた。
「ああ、ボスの炎か」
「限りがあるものだ。できれば、ここで消費したくはなかったんだが、お前が不甲斐ないから仕方なく、な」
「それはまあ……すまないことをしたな」
アザラシが再び素直に謝罪の言葉を口にすると、再びジョーカーは納得したのか、それ以上の言葉を告げることなく、取り出した炎の収めた小瓶を懐に仕舞っていた。
「次の失敗は許されない。それだけは肝に銘じておけ」
「ああ、分かってる。もう失敗はしないさ」
そう答えながら、アザラシはジョーカーの背後に目を向け、そこに何もないことを確認する。
「ところで人質はどうした?」
「既に解放した。仕込みは済んだし、その方が効果的だろう?」
「ああ、まあ、そいつもそうか。なら……」
アザラシの視線がジョーカーの背後から、一階に積み重なる瓦礫へと移る。その下には、未だ動く様子のないヒマリとパラドックスが転がっているはずだ。
「さっさと、こいつらに止めを刺しますか」
「いや、その時間はない」
アザラシが刀を握り締め、積み重なった瓦礫を退かそうとした瞬間、ジョーカーが行動を制止するように呟いた。
「奴らが到着した。この状況での相手は不可能だ」
「いやいや、待てよ。さっさと始末すればいいだけだし、面倒な奴じゃないなら行けるだろう?」
「そのための道具がボスの炎だった。それを一つ消費した今、準備は不十分だ。それにそいつらが抵抗してきたら、状況は更に悪化する。最低限の仕事は済んだ。これ以上、この場に長居する理由がない」
ジョーカーの説明にアザラシは納得できない様子だったが、その説明の正当性自体は理解しているようだった。本人の気持ちとは裏腹に、これ以上長居するリスクも理解しているようで、アザラシは子供のように唇を尖らせている。
「……なら、まあ、仕方ないか……」
「理解したなら、さっさと行くぞ。奴らが来る前に離脱する」
「ちょっと待て」
自らに背を向けて、立ち去ろうとするジョーカーを前にして、アザラシが咄嗟に呼び止める。
「上に置いてきた酒鬼組の連中はどうする?」
「奴らは事情を何も知らない末端だ。元々、何かあった時には切り捨てる予定だった。置いていけ」
「ああ、そうなのね。まあ、向こうさんとの関係が悪くならないなら、別にいいや」
アザラシは飄々とした態度で納得し、ジョーカーの背中を追う形で部屋から出ていく。アザラシとジョーカーの声は次第に遠くなり、数秒後には部屋まで届かなくなっていた。
僅かに残っていた天井の破片も落ち切ったのか、地面にパラパラと降り注ぐ音も止み、瓦礫の積み重なった一階は静寂に包まれる。
その中で僅かに瓦礫が動き、微かな物音を立てた。
直後、積み重なった瓦礫の一部が、天井に叩きつけられるほどの勢いで、大きく弾け飛んだ。瓦礫の一部が消え、生まれた隙間から手が伸び、そこから、むくりと人の頭が出てくる。
それはヒマリとパラドックスだった。パラドックスは光り輝く腕で、周囲の瓦礫を弾き飛ばしながら、瓦礫の隙間から身を乗り出し、ゆっくり立ち上がる。ヒマリもそのパラドックスに手を引かれ、ゆっくりと身を起こしていく。
「良く潰れなかったな」
「一応、触れ方を変えて、完全に落ちてこないように調整した。けど、慣れないことだから、完璧には無理だった」
そう言いながら、パラドックスがヒマリの身体に目を向ける。ヒマリは落下の寸前、パラドックスを庇うように身を動かし、身体にいくつかの切り傷や擦り傷を作っていた。
「いや、十分だ。これくらいの怪我で済んで良かった」
パラドックスがいなければ、今頃は瓦礫の下で潰れていたことだろう。そうならなかっただけ、ありがたいというものだ。
「それよりも、さっきの二人を追いかける必要があるな」
「うん。逃がさない」
アザラシとジョーカーの会話は断片的だが聞こえていた。女性の声がジョーカーに変化する様子も聞こえ、近しいところにいた敵の存在に気づけなかった不甲斐なさも感じた。
ただヴァイスベーゼの有していた秘密の一端を聞けたことは十分な収穫だ。断片的だった上に抽象的な話も含まれ、何を言っているか分からない部分もあったが、隠し玉の存在を知れたことは良かった。ボスの炎と言っていた物がどういう物かは分からないが、次に相対した時は警戒しておくべきだろう。
「行こう」
パラドックスが道を開けるように瓦礫を退けて、ヒマリを誘導してくれた。その案内に従って、ヒマリは部屋から出るために歩き出そうとする。
そこで、アザラシとジョーカーが出ていった部屋の入口に人影が現れた。
「あれ? これは一体、どういう状況ですか?」
そのねっとりとした声には、ヒマリも聞き覚えがあった。ヒマリとパラドックスの身体は自然と強張り、視線は入口の方に向けられる。
「こんなところに二人で、一体、何をされているのですか?」
そこには、シガレットとグッドラックが立っていた。




