1-8.家庭訪問
部屋の扉がノックされたのは、恐怖さんが立ち去ってから、すぐのことだった。
ミトが声をかける前に扉は開かれ、サラさんが部屋の中に入ってくる。
「失礼します。旦那様からの命令で入口までご案内いたします。準備ができましたら、お声掛けください」
「あっ……はい……」
頭を下げながら説明してくれるサラさんを前にして、ミトは戸惑いながら、ベッドからゆっくりと抜け出た。
準備も何も屋敷を訪れた時は意識がなく、部屋の中にミトの持ってきた物はない。恐怖さんの忘れたコーヒーカップがあるくらいだ。
「あの……もう大丈夫なので、お願いします」
「畏まりました。では、私についてきてください」
本当に帰ってもいいのか、と僅かな疑問を懐くところはあったが、それでも、あの恐怖さんの様子を見ていたら、ここにずっといることも不安に思えてくる。
恐怖さんの気持ちが変わらない内に帰ろう。
そう決心し、ミトはサラさんと共に部屋を出た。
その直後、そこで声をかけられた。
「もう帰っちゃうの……?」
その声に足を止め、ゆっくりと振り返った先に、ミトがこの屋敷で目を覚ましてから、最初に逢った少女が立っていた。
あの時と同じ黄色いパーカーのフードを被り、その下から覗くようにミトを見ている。
「う、うん……」
そのまっすぐと、どこか心の内側を覗き込んでくるような視線に後ろめたさを覚え、ミトは僅かに顔を逸らした。
「また来る……?」
帰る友達を引き止めるように、どこか名残惜しそうに聞いてくる少女を前にして、ミトは返答に困りながら、僅かにかぶりを振った。
「もう来ないよ……君も早くここから……」
そう言いかけて、ミトは自身の腕から飛び出したわん太郎がハヤセを食べた光景を思い出した。
この屋敷にいるのなら、目の前の少女とハヤセは当然のように知り合いだろう。
その知り合いを殺した相手から何を言われ、少女は何を思えばいいのかと考え、ミトは言いかけた言葉を噛み殺す。
「どうしたの……?」
「何でも、ない……!」
やや苦しげにそう返答し、ミトは少女に背を向けた。
「行きましょう」
サラさんにそう伝え、ミトは屋敷を歩き出す。
この時になって、ミトは重い十字架を背負ってしまったことをようやく実感した。
◇ ◆ ◇ ◆
屋敷の外まで想定以上の順路を辿り、ミトは外の世界に放り出された。
「この道をまっすぐ進んだ先に駅があります。そこから最寄りの駅までお帰りください」
そう言い残し、屋敷の中に消えていくサラさんを見送ってから、ミトは駅があると言われた道を一人で歩き出した。
屋敷で起きた様々な出来事を思い返し、ミトは言いようのない気持ちに襲われる。
怪人になったという事実は実感が湧くことなく、人を殺したという罪悪感は強く胸の中に残っている。
本当に帰ってもいいのかという疑問も未だに湧いているが、それを必死に無視しながら、ミトは駅までの道をひたすらに歩いた。
何があったとしても、あの屋敷にいることが良いことのようにはどうしても思えない。
その思いから家に帰ろうと決意し、到着した駅で電車に乗ろうとして気づいた。
ミトはお金を持っていなかった。
「ああ!?」
帰れないことに気づいたミトが慌ててポケットに手を突っ込み、何もないのに何かないかと確認し始める。
知らない間に屋敷に連れ込まれていたくらいだ。
財布もなければスマホもない。小銭すら持っているはずがない。
電車には乗れない。気づいた事実に絶望しながら、ミトは屋敷のある方角を見る。
戻って頼んでみることも考えたが、それを最初から狙っている可能性もある。
次にあの屋敷を訪れたら、一度、帰したのだから、帰す義理はないと言って、屋敷に閉じ込められるかもしれない。
何としてでも他の手段を考えなければいけないと思い、ミトは駅の路線図を眺め始めた。
幸いにも、この駅からミトの家のある場所まで、全く歩けない距離ではない。
ここは時間がかかっても、徒歩で帰ることにしよう。
そう決意し、ミトは線路沿いを歩き始めた。
くるくると頭の中で何度も同じことを考えながら、ミトはひたすらに足を動かしていく。
どこかで怪人になったことを否定したい自分もいて、ここまでの全てが夢ではないかと思おうとしたが、歩くことに疲れ、痛み始めた足がその考えを否定してきた。
そういえば、このまま家に帰っても大丈夫なのだろうかと疑問に思った時には、もう既にミトの家が近くなっていた。
背負った十字架がミトを苦しめる結果に繋がらないだろうかと考え、今更ながらに不安な気持ちを懐くが、ミトの自宅がもう見えてきてしまう。
ここまで来たのなら、一度、家に帰ってから考えることにしよう。
そう思ったミトが家の前に近づいたところで、そこに立つ人影を発見した。
(誰かいる?お客さんかな?)
そう考えたのも束の間、ミトはそこに立つ人物を確認して、休まずに動かし続けた足を自然と止めてしまう。
そこに立っている人物は二人いた。
一人は笑顔の爽やかな青年だ。スーツを身にまとう姿はセールスマンにも見える。
もう一人はリクルートスーツを着た少女だった。就活中の大学生と言われても不思議ではないが、それにしては少し若過ぎる印象だ。
その二人を目にして、ミトは咄嗟に近くの物陰に身を潜めた。
その二人はどちらもミトがこれまでに逢ったことのない人物だが、どちらの顔も見たことはあった。
ノーライフキング。ウェイトレス。頭に浮かんだ単語を並べ、ミトは息を呑む。
それはどちらもテレビで見た超人の名前だった。
ノーライフキングは恐らく、超人で最も有名な名前だ。最初の怪人事件から現在に至るまで活躍している。
超人がメディアなどの矢面に立つ際、基本的にこのノーライフキングが担当していて、自然とテレビで見る機会も多かった。
もう一人のウェイトレスは最近、聞き始めた名前だが、見た目が可愛く、人当たりの良い振る舞いから、ノーライフキングと一緒にメディアで見ることが多かった。
その二人がミトの母親と何かを話している最中だった。会話は聞こえないが、そこにミトが絡んでいないとは考えづらい。
もしも、このまま帰ったら、ミトは即座に発見されるだろう。二人がいなくなってから帰っても、母親が超人に連絡するかもしれない。
そこに悪気がなくても、ミトは現在、怪人となってしまった状態だ。
超人と怪人の常識を考えれば、そこからどうなるかは目に見えている。
いっそのこと、二人の前に飛び出して、自身の身に起きたことを全て打ち明けようかとミトは思った。
怪人となるつもりはなかったと伝え、必死に頼み込めば超人に迎え入れてくれるかもしれない。
(そうだ……!僕は別に望んで逃げ出したわけじゃないから、お願いすれば……)
そう思うミトの頭の中で、ハヤセを食らうわん太郎の映像がフラッシュバックした。
あれは怪人同士だが、一切の遠慮も躊躇いもなく、一方が一方を処した光景だ。
もしも、超人である二人が怪人であることを理由に、ミトの説明を一切聞く気がなければ、あの時のハヤセのように、ミトは一方的に殺害されるかもしれない。
超人と怪人の常識を考えれば、それがあり得ない話ではないと分かる。
超人が怪人を倒すことを当たり前とするなら、その怪人の話を超人が聞く必要はないことも当たり前で、ミトの行動はただの自殺に成り下がる。
それでも、説明するべきかと悩み、ミトは目の前でノーライフキングとウェイトレスが母親に頭を下げる光景を見ていた。
どうやら、帰るための挨拶をしているようだ。
立ち去ってしまう。飛び出すなら、今しかない。
そう考えながら、ミトは立ち去るノーライフキングとウェイトレスをゆっくりと見送る。
怖い。死ぬのが怖い。殺されるのが怖い。
その感情がミトの身体を支配し、二人が立ち去った後、ミトは逃げるようにその場から離れていた。
◇ ◆ ◇ ◆
家には帰れない。そう分かってしまえば、ミトに行き場はなかった。
親友と呼べる学校の友人の顔も思い浮かんだが、そちらも家族と同じように超人が接触している可能性が高い。
家族や友人などは誰しもが最初に考える場所だ。
その辺りがもうダメだとしたら、行ける場所はどこにもない。
そう思ったのも束の間、ミトはボランティアに向かっていた動物の保護施設のことを思い出した。
あそこにも超人が行っている可能性は高いが、保護施設なら家とは違って、一時的に身を隠せる場所もある。
場合によっては家や友人宅よりも優先順位が低く、超人がまだ訪れていない可能性も考えられる。
コシバなどは先に事情さえ説明できれば、ミトを一方的に突き出す人ではない。
あそこなら身を隠せる可能性が高い。
そう考えたミトの足は自宅から保護施設に目的地を変え、再び動き始めた。
その途中で超人に見つかる可能性もあったので、できるだけ慎重に歩き続け、ミトは保護施設の裏口に到着する。
そこから、こっそりと入口の方を窺ってみるが、まだ超人の出入りは確認できない。
来ていないのか、帰った後なのか分からないが、中の様子を窺って判断しようと思い、ミトはこっそりと施設の中に入っていく。
誰にも見つからないように、ミトは施設の中を歩こうとして、不意に何かを蹴飛ばしてしまった。
一瞬、音を立ててしまうと焦ったが、蹴飛ばしたものが柔らかかったのか、音が立つことはなく、ほっとしたのも束の間、ミトはそこで疑問に思う。
(あれ……?何か、凄く静かだ……)
いつもなら、動物の鳴き声が少しは聞こえるはずだが、今はミトが物音を立てることさえ怯えるほどに静かだった。
人の声もしないどころか、人のいる気配すら、施設の中にはない。
(どうしたんだろう……?誰もいないのかな……?)
そう思ったミトが更に奥に進んでみようと考え、蹴飛ばした何かを踏まないように足元を見た瞬間、ミトは固まった。
「えっ……?」
思わず声が漏れ、ミトは確認するように、ゆっくりと身を屈めて、そこにあるものに触れてみる。
その感触は間違いなく、本物の犬の感触だった。