3-12.獲物と得物
アザラシの間合いの中、迫られた決断は死ぬか、パラドックスを渡すかの二択だった。ヒマリの命と信念を天秤にかけるような選択だ。そう簡単には答えを出せない。
だが、混乱する店内が示すように、アザラシの行動は素早い。ミレニアムを殺害したように、時間がかかり過ぎだという理由で、ジッパかシトを殺害する可能性がある。
いや、そもそも、ヒマリを斬ることもできるはずだ。それをしないのは、ヒマリを殺害した時にカプセルがどうなるか分からないから、安全策を取っているというところだろう。
パラドックスを捕らえる瞬間は知っていたようだが、ヒマリの力の詳細まで把握しているわけではないらしい。そこは救いかもしれない。
ヒマリはゆっくりと息を吐き出す。現状からの打開策を求めて、視線を周囲に向けながら、ヒマリは分かり切っていることを再度、確認する。
「もう一度、確認したい。あの子を手に入れて、あんたは何をするって?」
「うん? 確認が必要かい? お前には関係のないことだと思うが?」
「簡単に手に入ったものじゃないんだ。もう一度、改めて確認するくらい、いいだろう? 聞いてはいけない話なら、最初からこんな場所で話さないだろうし」
ヒマリの質問にアザラシはまっすぐな視線をただ向けてきた。ヒマリの考えを探ろうという視線だが、今のヒマリの頭にこれといった考えはない。ただの時間稼ぎで、そのことが伝わっても、アザラシの行動には変化がないだろう。
事実、アザラシはそれ以上、ヒマリの言葉を断る素振りは見せなかった。
「まあ、問題はない。言っただろう? その超人は、超人に対する人質、もしくは見せしめにする」
「それは、この少女を殺害するということか?」
「まあ、そうなるだろうな」
「抵抗はないのか?」
「正直なところはある。ただ、それは俺個人の話で、組織の話じゃない。ヴァイスベーゼは超人を利用する。そのために殺害する。そこに年齢は関係ない。そう言ってしまえば、それで終わり。俺はただ殺せと言われて殺すだけだ」
「お前は犬か? 死ねと命令されたら死ぬつもりか?」
「もちろん。それは当然のことだ」
あっけらかんと言い切るアザラシを前にして、ヒマリは一つ、はっきりと理解できたことがあった。
アザラシ相手に交渉は意味がない。下手な言葉はアザラシに刀を握らせる理由となり、死期を早めるだけだろう。
ここから無傷で逃れるには、アザラシの言葉を全面的に信用して、パラドックスの入ったカプセルを渡すか、この場から逃走するかだ。逃走は純粋に斬られる可能性が高く、渡した場合も用済みと判断され、殺害される可能性がないとは言えない。
少なくとも、ジッパとシトは殺害対象だろう。今はヒマリの抵抗を考え、生かしているが、普通に考えてアザラシに二人を生かす理由はない。口封じのために殺害することはあっても、見逃す可能性は万に一つもないだろう。
パラドックスの命も含めて、アザラシの刀から助かるためには、ここから無傷で逃走するしかない。そう考えてみるが、既にアザラシの間合いの中にいて、その刀が届かないところまで逃げることは難しく思える。普通は無理だ。
ジッパとシトの視線がヒマリに絡まりつく。二人の命は奇しくもヒマリが握ってしまった。そのヒマリの命はアザラシに握られている。最悪の状況だ。
混乱が広がり、悲鳴の鳴り止まない店内で、ヒマリの周囲だけがノイズキャンセリングのかかったように、静けさに包まれていた。自身の心臓の音が耳の奥で鳴っている。
アザラシから微かに視線を逸らし、再びアザラシに戻す。心情の迷いが視線に現れてしまっているが、それすらも考慮する余裕がない。
そう思ってから、ふとヒマリは気がついた。起きた変化と起きない変化の存在から、ヒマリは唯一とも思える、目の前のアザラシの対応法を考えつく。
問題はジッパとシトに意思を伝えることで、そこが難しいと思いながら、ヒマリは二人に目を向ける。二人共、こちらを見ている。その事実を確認したヒマリが、ゆっくりとリュックサックに手を動かす。テーブルの影に隠れ、アザラシからは見えていない。
「分かった。カプセルをお前に渡す」
「おお、そうか。良く決断した。さあ、早く」
アザラシがヒマリの一言に笑みを浮かべながら、手を差し出してくる。その手をまっすぐ見ながら、ヒマリは仕舞っていたカプセルを取り出し、その手の前に持ち上げた。アザラシがその中身を確認するように、僅かにこちらに身を乗り出してくる。
その瞬間、ヒマリはカプセルを指で摘み、アザラシの前で跳ね上げた。
「ただし、このカプセルだ」
ヒマリがそう口にした直後、カプセルが割れて、その中からミレニアムの作り上げた糸の壁が飛び出した。一本道を封じていた物で、ヒマリが逃走の際にカプセルの中に仕舞っていた。
その壁がヒマリ達とアザラシの間で膨らんで、アザラシの視界を覆っていく。
「おい、何だ、これは!?」
アザラシの声が糸の壁越しに聞こえてくる。ミレニアムの糸が作り上げた物は、ミレニアムが死亡しても消えない。それを証明するように、店の入口や窓を覆った壁はそのままで、店内は未だに混乱に包まれていた。
アザラシとの間に壁が生まれた直後、ヒマリが即座に立ち上がると、そのタイミングに合わせてシトも立ち上がっていた。ヒマリが何かを言う必要もなく、シトは糸の壁の前で足を上げて、二人は揃って壁に蹴りを噛ます。
二人分の蹴りで糸の壁は押し出され、アザラシの上に伸しかかるように倒れ込んだ。アザラシの行動が止まった間に、ヒマリはリュックサックを持って、そこでようやくシトとジッパに声をかける。
「窓の壁を取り払う! そこから出るぞ!」
そう言いながら、ヒマリは財布からお金を取り出し、飲食代をテーブルの上に置いてから、窓を塞ぐ糸の壁に向かってカプセルを放った。カプセルは糸の壁にぶつかって、その壁を中に取り込んでいく。
そのカプセルを拾いながら、ヒマリ達三人は一斉に窓から飛び出した。ヒマリとシトが急いで走る中、少し遅れてついてくるジッパが驚いた顔で、さっきまで自分達がいたファミレスを見ている。
「良くさっきのタイミングで合わせられましたね!?」
ヒマリとシトが糸の壁を斬ったことを言っているのだろう。ジッパの驚く声を聞きながら、ヒマリはリュックサックの中を漁っていた。その中にあるカプセルを順番に確認する。
「ずっと俺のことを見ていたからな。お前はともかく、そっちは力を使って、こっちの行動を読んでいるのだろうと思った。だから、できるだけ分かりやすく動くことにした」
「いや、助かったよ。お陰で、はっきり確率が出た」
「それは良かった」
そう言いながら、ヒマリはリュックサックの中からカプセルを二つ取り出した。中にはパラドックスにも投げつけた車が入っている。
「それは?」
「うちの事務所にあった車だ。本当は三台あったんだが、一台はさっき使った」
「ああ、それで車が」
「本来は移動用だ。これで逃げる」
ヒマリがカプセルの一つを割って、中身の車を取り出そうとするが、そこでジッパが止めるように呟いた。
「いや、それは難しそうですよ……!?」
その声に振り返ってみたら、ファミレスの窓を切り払って出てきたアザラシが、こちらの存在に気づいて、一気に駆けてくるところだった。今から車を取り出し、エンジンをかけて、逃走できるほどにスピードが乗るまで時間がかかる。
「チッ!? 走るぞ!」
ヒマリの声に合わせて、三人は再び走り出す。その後ろを追いかけてくるアザラシが袖口に手を伸ばし、そこからナイフを取り出していた。
「あっ、やばい!」
ジッパが気づいた直後、アザラシが一気にナイフを投げつけてくる。幸いなことに距離は遠く、あくまで人力で投げていることから、ヒマリ達に当たることはなかったが、当たったら危ないことは間違いなかった。
「なあ、あいつの動きを見れないのか!? 何か逃げるために時間を稼げないか!?」
「ええっと……まあ、その辺にある物を投げつけてみたら、それなりに遅くはなりそう!」
「何だよ、それ!?」
投げやりな情報が飛び出し、怒りながらもヒマリは言われるまま、放置されている自転車を倒すことにした。ジッパは脇からゴミ箱を道の方に投げ出し、シトは落ちていた缶コーヒーの缶を放っている。
しかし、それらは本当に少しアザラシを遅くした程度の効果しか発揮しなかった。投げ出したゴミ箱は邪魔する前に斬られ、投げつけた缶コーヒーの缶は脇に弾かれ、倒れ込む自転車は軽々と越えられる。
「おい!? 全然じゃねぇーか!?」
「いや、それなりには遅くなった!」
「個人の感想か!?」
必死に逃げるヒマリ達を前にして、再びアザラシが袖口からナイフを取り出す。障害物で邪魔はできたが、それで追いつかれなかっただけで、距離自体は少しずつ詰まっている。何より、障害物を用意する時間がタイムロスを生んだように思える。
アザラシが手に持ったナイフを投げつけてくる。今度はさっきよりも近く、ナイフはヒマリ達の身体に触れる距離で襲ってくる。ヒマリ達は左右に移動し、飛んでくるナイフを躱してみるが、全てを完璧に躱すことは難しかった。
ナイフの一部がヒマリ達の身体を掠めて、服の一部を切り、手足や背中に切り傷を作った。それ自体は良かった。ナイフに毒でも塗られていたらアウトだが、今回はそれもなかったので、痛みを伴うようになっただけだ。
問題はヒマリの身体に向かった一本のナイフだった。そのナイフがヒマリの身体に当たることはなかったが、ヒマリの背負うリュックサックに突き刺さった。
「ヒマリさん!?」
思わずジッパが叫んだ声と、背中に入った衝撃で気づき、ヒマリが振り返ろうとする。
その時、ナイフの刺さった場所から何かが零れ、ヒマリ達の足元に落ちた。
それはカプセルだった。
瞬間、カプセルが割れて、ボンという音と共に何かが膨らみ出す。ヒマリはそれを見ながら、リュックサックに入っている、中身の入ったカプセルを思い出そうとする。車や糸の壁もそうだが、それ以上に一つ、割れたら問題となるカプセルがある。
そう思っているヒマリの前で、カプセルの中身が膨らみ切って、その場に転がった。
「……ん……? んん……?」
そこでそう声を発しながら、パラドックスが起き上がろうとしていた。




