1-7.500000ペリカ
「コシバさん。ちょっとこの子達の散歩に行ってきますね」
「ああ、うん。気をつけてね」
「はーい」
コシバに声をかけ、ミトは施設を後にする。手にはリードが握られ、その先には三匹の動物が歩いている。
一匹はポメラニアンのチャッピー。もう一匹は白猫のブリジット。
そして、最後の一匹が柴犬のわん太郎だ。
チャッピーやブリジットが抱きかかえられるサイズであるのに対して、わん太郎は大きく成長し、今やミトの身長を超えるほどの大きさになっていた。
散歩をしている最中も、ミトはわん太郎に引き摺られることが多々あって、ミトとわん太郎のどちらがリードを握っているのか分からない瞬間が最近は多い。
「わん太郎、ゆっくりね。チャッピーとブリちゃんがついていけないから」
わん太郎に声をかけながら、ミトはリードを大きく引くために体重を後ろにかけた。
それでも、わん太郎はミトを引き摺って、どんどんと自分の進みたい方向に進んでしまう。
「~~~~」
そこでどこからか、窓を拭くような甲高い音が聞こえた。
わん太郎の向こう側から聞こえたようだと思い、巨大なわん太郎の影から覗いてみれば、わん太郎の進行方向に人が立っている姿を発見する。
「あっ!?危ないですよ!?」
このままだとわん太郎に踏み潰されてしまう。
そうミトが思った直後、わん太郎が唐突に威嚇するように吠えた。
「わん太郎!」
人に向かって急に吠えてはいけないとミトが注意しようと思ったのも束の間、わん太郎はミトの身体を引き摺るように走り出し、前方に立っていた人に飛びかかっていく。
「わん太郎!?」
ミトは慌ててわん太郎を押さえようと、手に持っていたリードを引っ張ったが、その時には遅く、わん太郎は先に立っていた人の上に飛びかかっていた。
そのまま、もぞもぞと動いたかと思えば、くるりとこっちを向いて、口の名からだらんと垂れた人の姿を自慢するように見せてくる。
「わん太郎!?」
その姿に驚愕し、ミトがわん太郎を止めようと手を伸ばした瞬間、ミトの身体は大きく跳ね起きた。
見れば、そこはベッドの上だった。
どうやら、夢を見ていたらしい。
「夢……?」
そう思ったミトが安堵しかけた瞬間、濁流のように記憶が蘇ってきて、ミトの目の前で巨大なわん太郎の頭に食われるハヤセの姿が思い浮かんだ。
「うっ……」
思わず込み上げた気持ち悪さを押さえながら、ミトはベッドの上で身体をくの字に曲げる。こうしていないと、いろいろな物が湧き出してきてしまう。
「ようやくお目覚めかね?」
そこでベッドの脇から声が聞こえ、ミトは驚きに目を大きく見開いた。
顔を上げれば、部屋に置かれたテーブルにつく恐怖さんの姿を発見した。
「良く眠っていたね。なかなかに気持ち良さそうだった。良い夢は見れたかい?」
そう言いながら、恐怖さんはテーブルの上に置いたコーヒーカップに角砂糖を入れていた。カップの中に何が入っているかは見えないが、ミトのいる位置から角砂糖が見えるほどに、カップの中には角砂糖が積まれている。
「ハヤセ……さんは……?あの人は……どこですか……?」
ミトが気持ち悪さに抗いながら聞くと、恐怖さんは角砂糖を掴む手をピタリと止めて、不思議そうな顔でミトを見てきた。
そうかと思えば、コーヒーカップの傍らに置かれたスプーンを掴み、今度はカップをゆっくりと掻き混ぜ始める。湯気に包まれた角砂糖がゆっくりと沈んでいく。
「死んだよ」
そして、当然のようにそう答えた。
「死ん、だ……?」
「当然だよ。君が……いや、君の腕が、だね。彼を食べてしまったからね。耐え切れなかった君が意識を失って、君の腕から犬の頭が消えた時に、ハヤセくんの上半身も一緒に消えたよ。葬儀の際には棺に下半身だけを入れないといけなくなったね」
嘘を言っているのではないか、と疑いたくなるほどに、恐怖さんは一切の感情なく、駅までの道を教えるように淡々とそう説明した。
掻き混ぜられたコーヒーカップの中では角砂糖が溶け、ミトの視界から消えている。
それを確認した恐怖さんがスプーンを再びコーヒーカップの傍らに戻し、再び角砂糖を掴んで、コーヒーカップの中に入れ始めた。
「帰っていいよ」
「えっ……?」
そして、話が急角度で曲がったことにミトは驚くと同時に恐怖を覚えた。
「何を言って……?」
「約束だったからね。君はハヤセくんに勝ったんだ。だから、帰宅を許可しよう」
「いや、そうじゃなくて……!」
ミトは恐怖さんの言葉を遮るように、自身が包まったシーツを叩いた。
埃がぶわっと舞って、恐怖さんがやや嫌そうに口元を歪めている。
「どうして、普通に帰そうとしてるんですか?僕があの人を殺してしまったんですよね?それだけですか?」
「それだけ、とは?」
「怒るとか、恨むとか、それこそ、僕を殺そうとするとか、そういうことは何もないんですか?」
ミトが動揺と恐怖で身体を震わせながら聞くと、恐怖さんは不思議そうな顔をしてから、コーヒーカップの傍らに置かれたスプーンを手に取った。
ゆっくりと再び角砂糖が溶けるように掻き混ぜながら、恐怖さんは何かを思い出すように窓の外を見やる。
「確かにハヤセくんはいい人だった。君と戦う場面でも、君に無茶をさせないように一瞬で勝負をつけようと、最初から全力で力を使っていた。君を殴る時も、本気で殴ることができなくて、君に負けを認めるように説得していたくらいだ」
そう言われ、ミトは何も聞き取れなかったハヤセの言葉を思い出した。
あの時にハヤセはミトを案じ、ミトのために勝負を終わらせようとしていた。
それなのに、ミトは違うことを考え、剰え、ハヤセを殺害する暴挙に出てしまった。
自分から望んでやったことではなくても、その事実を噛み締めただけで、ミトは罪悪感と耐え難い気持ち悪さに襲われ、口元を必死に手で塞いだ。
「だけどね。彼は最初から、もっと警戒するべきだった」
「警戒……?」
「君の力は何も分かっていない。どこで何が起きるか分からない。そういう警戒心を持てば、君の腕が彼を襲っても、彼はそこから逃げることができたはずだ。不用意に間合いに入り、そこで油断したから食われた。これは彼の油断が招いた結果だ」
掻き混ぜていたスプーンが自然と止まり、コーヒーカップの中心で立ったことを確認してから、恐怖さんはカップを啜り始めた。飲み物というよりも、麺か何かを食べているのかと思う音を立てている。
その様子を見ながら、ミトは呆然としていた。
恐怖さんが何を言っているのか、言葉として理解できても、ミトの頭は疑問符で一杯になっていた。
「貴方は何を言って……?」
「そのような油断を晒すなんて、ここで死ななくても、いずれは超人との戦いで死んでいたかもしれない。なら、結果は同じだよ。彼はこのコーヒーよりも甘かった。怪人には向いていなかったね」
その言葉を聞いて、初めてコーヒーを飲んでいると分かったが、今はそんなことはどうでも良かった。
それよりも平然とハヤセの死は仕方ないと語る恐怖さんの姿がミトの目には歪に映った。
正に、化け物。
正に、怪人だ。
そして、その怪人に自身もなってしまった。
そのことを実感し、ミトは恐怖を覚えながら、自分の腕を見た。
その腕から、どのタイミングでわん太郎が飛び出してくるのか、自分の腕なのにミトは分からない。
もしかしたら、家族と一緒にいる時にわん太郎が飛び出して、家族を食べてしまうかもしれない。
そう考えたら、その腕も恐怖さんと同じように恐ろしく感じた。
「さて、納得したかね?」
恐怖さんがコーヒーカップをテーブルの上に置き、ミトを見てくる。
その目は相変わらず、目深に被られたシルクハットに隠れて見えない。
「納得したなら、約束通り、君は帰ってもいい。家に帰るのも、学校に行くのも、犬の散歩に行くのも自由だ。屋敷の外まではサラさんに案内させよう。その後は駅に行くなり何なりして、自分で帰りたまえ」
そう告げて、コーヒーカップを残したまま、恐怖さんは立ち上がった。
そのままミトの返答を待つことなく、部屋から出ていってしまう。
未だに納得できていないことも、未だに理解できていないことも、未だに処理できない感情も多いが、とにかく、ミトは家に帰る権利を勝ち取ったらしかった。