2-26.本物の美
人形を抱えるミチカから、少しでも距離を取るようにヒノエの身体が後ろに反れ、僅かに足が下がった。引くようなヒノエの態度を不思議に思ったのか、ミチカが微笑みを浮かべたまま、僅かに首を傾げる。
「どうかした? セツナちゃん?」
「その……あの……ミチカさん……」
首を傾げるミチカの前で、ヒノエの指がゆっくりと上がって、今もミチカの抱えた人形に向けられる。そこにある人形は等身大で、その表情はとてもリアルなもので、その質感はそれまでに触れた人形と違って、とても柔らかい。
それはまるで、人の肌のよう。
「それは何ですか……?」
「それ? 何? どういうこと?」
ミチカはヒノエの質問が分からないというように首を傾げ、自身の抱えた人形に目を向ける。きょとんとした表情で人形を見つける様子は、子供のようにも見えるが、その人形に生まれた疑念を考えたら、ヒノエの心はそう思えるほどに穏やかではない。
「その人形……何でできているんですか……? 触ったら、とても冷たくて……でも、とても柔らかくて……それにまるで人間みたいに表情もリアルで……」
怯えるヒノエが更にもう半歩、後ろに下がる。ミチカはヒノエの今の発言で、ようやく質問の意図を理解したように頷いて、「あー」と声を漏らしている。
「あのね、セツナちゃん。もう何年か前のことなんだけどね」
「は……い……?」
「私はね。今の会社を立ち上げる前に、親の会社を手伝っていた時期があるの」
不意に始まったミチカの自分語りにヒノエは酷く混乱した。質問に対する返答として、ミチカの思い出話が関わってくるとは思えない。誤魔化すつもりでいるのではないかと警戒するヒノエの前で、ミチカは気にする様子もなく話を続ける。
「今は、たまに週刊誌とかに載るから、そういう事実があるかもしれないって思っている人も多いみたいだけど、当時はまだ知られていなかったことがあってね。実はね。私の親の会社はね。結構なブラック企業なのよ」
ミチカの告白は十分に驚きのあるものだが、それもヒノエの目の前に広がる光景に比べたら何てことはない。ヒノエがそこに懐いている疑念は、どこかの会社の悪質な実態よりも、現実的な脅威として提示されている。
「ノルマは厳しいし、残業は当たり前だし、どれだけ働いても出世する人材は最初から決められてるし、で普通に働いている人は馬鹿なんじゃないかと思うくらいに劣悪な環境なのよ。まあ、私は社長の娘だし、そんなことは微塵も感じなかったんだけど。それに今はもう少しマシだしね。いろいろと厳しいから、ちょっとだけね」
「あの……一体、何の話を……?」
「だからさ。ある日、一人の社員が会社で自殺しちゃったのよ」
「えっ……?」
ミチカの突然の告白から、思いも寄らぬ発言が飛び出し、ヒノエは反射的に驚いた。それもやはり、目の前の光景とは何も関係のない話だが、それでも、驚くには十分な急角度だった。
「それを偶然にも私が最初に発見して、いろいろとあったら大変でしょう? だから、自殺じゃなくて、事故死に見えるように隠蔽したんだけどさ。その時に私は気づいちゃったのよ」
そう言いながら、ミチカはそこまでの真剣さすら感じさせる表情を大きく崩し、恍惚の笑みを浮かべながら、抱きかかえた人形の顔を見つめた。
「本物って、何て美しいんだろうって!」
「本……物……?」
ミチカが何を言い出したのか分からず、ヒノエは顔を強張らせたまま、その場に固まっていた。本物と表現したものが何なのか、何を美しいと言っているのか、ヒノエの頭ではどれだけ考えても答えが出ない。
「そう! 本物! 偽物にはない、ここにしかない美しさが本物にはあったの!」
「本物とか、偽物って何を言っているんですか……? 一体、何の話を……?」
疑問を口にしながら、更に逃げるようにヒノエが後退り、引いた足の踵で何かを蹴飛ばす感触があった。僅かに顔を向け、視線を下に下げてみれば、そこにはドールルームの中に置かれた人形が一体、転がっている。
それを見た瞬間、ヒノエの中に本物と偽物の区分が生まれ、まさかと思いながら、改めて、ミチカに目を向けた。
「もしかして、偽物って人形のことですか……?」
「そうよ」
「じゃあ、本物って……?」
「もちろん」
ミチカがヒノエに紹介するように、抱えた人形を大きく突き出す。
「本物はこれ。本当の人間の身体。つまり……」
僅かに考える素振りを見せ、ミチカが口元に笑みを浮かべる。
「所謂、死体ね」
その一言を聞いた瞬間、ヒノエの身体は反射的に後ろに下がって、ドールルームの中を駆け出そうとした。何が何だか分からないが、死体を笑顔で紹介されて、そのままいられるはずもない。
一目散にドールルームの扉に駆け寄って、その扉を開けようと思っていたが、ドールルームに踏み入った直後、ヒノエは気がついたら宙を舞い、いつの間にか、うつ伏せになって倒れ込んでいた。
ぐるりと回転する天井。周囲に散在する人形。冷たい床の感触。順番に記憶の中を辿っても、ヒノエは何が起きたのか分からない。
そう思っていたら、ヒノエの上にゆっくりと、押し潰すような重みが伸しかかってきた。床に伏せたまま、僅かに顔を動かし、自身の背中に目を向ければ、そこではキッカがヒノエの腕を掴み、ヒノエを地面に押しつけるように取り押さえている。
「い、痛いっ!?」
腕の痛みにヒノエが思わず声を上げると、ドールルームの奥の部屋にいたミチカが慌てて跳び出し、そこに倒れたヒノエを見下ろしてきた。
「ちょっと、キッカ! 怪我は絶対にさせないようにするのよ!」
「申し訳ありません、ミチカ様。少し力が入り過ぎてしまいました」
そう返答し、僅かに頭を下げ、キッカの腕の力が少しだけ緩まる。それでも、ヒノエの腕に痛みが走らなくなっただけで、ヒノエは動こうにも動けないほどの力がそこには籠っている。
「セツナちゃん、ダメよ? そんな急に走り出したら、ビックリするでしょう?」
「ご……ごめんなさい……だから、あの……離して、ください……」
「いやいや、セツナちゃん。逃げちゃうでしょう? だから、そのまま説明を聞いてもらうわね」
「説明?」
「言ってなかったでしょう? ここにセツナちゃんを案内した理由」
理由。ミチカが口にした言葉がヒノエの頭の中で反響し、ヒノエの中で嫌な気持ちを膨らませた。詳細は分からないまでも、ここまで見せられたら、その理由は何となく想像がついてしまう。その答えを聞きたくない、とヒノエの心は、この瞬間も思っている。
「あのね。怪人って凄い便利だと思わない? 本当は人間なのに、皆が化け物だと思ってる。だから、突然消えても、誰も不思議には思わない。超人に倒されたのかなぁ?くらいのことで、それ以上は考えない。それって、とっても素晴らしいことだと私は思うの」
「何が……?」
「だって、いなくなっても分からないなら、自由に殺して、自由に変えられるでしょう? コレクションにするのに、これほど最適な存在は他にいないと私は思ったわ」
床に押しつけられる苦しさか、湧いてくる嫌悪感からか、それとも、本能的に止められない恐怖心からか、ヒノエの呼吸はどんどんと荒くなっていた。気を緩めれば、気を失ってしまいそうなほどに、気分も悪い。
「だから、アマガイ博士に支援して、どんどん超人も怪人も生み出してもらって、それでようやくあれだけ集められたの。素晴らしいでしょう? 本当に興奮が止まらない!」
今にも吐きそうになっているヒノエを見下ろし、ミチカがゆっくりと顔を近づけてきた。ヒノエの顔の表面、毛穴の一つ一つまで確認するように、じっくりとミチカが顔を見つめてくる。
「そして、セツナちゃんを見つけた。貴女のその美しさを見た瞬間、私は絶対に貴女が欲しいと思ったわ。貴女を私のコレクションの一つにするって。だから、ここに招いたの」
ミチカがヒノエの顔にゆっくりと触れ、うつ伏せに倒れ込んだままのヒノエの顔を僅かに持ち上げる。無理矢理に反らされたヒノエの背骨が悲鳴を上げ、ヒノエが痛みに顔を歪める中、ミチカは微塵も気にせず、ヒノエに質問を投げかけてくる。
「ねえ、セツナちゃん。私のコレクションになってくれない? 私の元で、その美しさを永遠に保管しない?」
おかしい。この人は何もかもおかしい。そう思う一方で、一切、抜け出せる気配のない状況に、ヒノエの中で絶望は深まっていた。
怪人となった瞬間に人など信じるべきではなかった。今更ながらにそう思っても、状況は変わらない。ヒノエに残された選択肢は、ミチカのコレクションとなって、この奥の部屋で永遠に飾られ続けること。それだけだ。
それもこれも人を信じた自分が悪い。そう思ったヒノエの頭に、最初に信じた人の顔が思い浮かんで、ふとそれまで気づかなかった一つの疑問が、ヒノエの中で芽を出した。
アズマヤは本当に帰ったのだろうか?




