2-7.Come
全身の血の気が引いていく感覚が分かった。何をされたわけでも、何かが起きたわけでもない。
ただパワーとブラックドッグの声が聞こえ、そこにいると分かっただけで、アズマヤは恐怖に襲われた。
そこまで恐怖を感じた理由はいくつか思いつく。
未知なる超人の力が迫っていることも、怪人の秘密を知ってしまったことも、ヒノエが捕まるかもしれない未来も、全て恐怖に繋がる理由の一部だ。
ただそれら以上にアズマヤの中に落ちてきた恐怖の種はそこにいること自体だった。
アズマヤはここに至るまで、かなり大きく迂回し、二人が追いかけてこられないようにしたはずだ。
それなのに二人はアズマヤとヒノエをしっかりと追いかけ、今は二人の背後に立っている。
その事実が必然的にどこまで行っても逃げられないイメージをアズマヤの頭に植えつけ、アズマヤは明確に恐怖した。
「ヒ、ヒノエさん!」
アズマヤがヒノエの手を掴んで、駅の方に走り出そうとした。
パワーもブラックドッグもアズマヤ達の視界にはまだ入っていない。背後に立っているなら、ここから全力で走り出すことで振り切れるかもしれない。
そう思い、ヒノエの手を引いて走り出そうとしたアズマヤの前に、黒い影が飛ぶように割って入る。
「どこに逃げる気だ?」
そう冷たく聞いてくる相手は当然、ブラックドッグだ。
「もう逃げ場はないぞ!」
アズマヤとヒノエの背後からパワーの勢いのある声が聞こえてきた。
前方にはブラックドッグが立ち塞がり、後方ではパワーが構えている。
詰んだ。絶望的な状況に少しでも抵抗するように、アズマヤはヒノエを二人から庇うように立った。
「何で、ここが……!?」
ゆっくりと追い込むように近づいてくる二人を見ながら、アズマヤが苦し紛れに質問を投げつける。
その問いにブラックドッグは鼻で笑い、更に一歩、アズマヤとヒノエに接近する。
「この姿は自由に走り回れるし、最高だと思っている。ただ一点を除いて」
そう言いながら、ブラックドッグは態とらしく、周囲の匂いを嗅ぐ仕草を見せた。
「犬の姿になってから結構経つが、この鼻だけは未だに慣れない。いらない臭いまで感じさせるから、不意に気分が悪くなることもあるが、唯一、こういう時は便利だと思う」
ブラックドッグの語りを聞きながら、アズマヤは考えてみれば当然の事実を忘れていたことに恥ずかしさすら覚えていた。
ブラックドッグは名前の通り、犬の姿をしているのだから、鼻を使って匂いでアズマヤ達を追跡することくらい簡単なことだろう。
その可能性に気づいていたら、迂回することが無意味なことに気づいて、さっさと駅に向かえていたのに、アズマヤは完全に見落としていた。
それが追いつく結果を作ってしまったと今更ながらに後悔する。
「もう逃げられる状況ではないが、逃げる気力は失ったか?」
ブラックドッグがアズマヤの様子を窺うように、更に近づいてきた。
敢えて、距離を急激に詰め切らないことで、アズマヤが不意に動き出し、取り逃がすことを封じているようだ。
獲物を追いつめる獣のように、じりじりとアズマヤ達は追い込まれ、次第に逃げるコースすらなくなっていく。
「パワー、分かってるよな?もうバツイチついてるからな?」
「ああ、了解だ!かけた迷惑は働いて返そう!」
不意にパワーの勢いのある声がすぐ近くで聞こえ、アズマヤは急いで振り返ろうとした。
その瞬間、アズマヤの手から滑るようにヒノエの冷たい手が零れ、ヒノエはパワーの腕の中に引き摺り込まれている。
「キャアッ!?」
思わず叫び声を上げたヒノエの様子など気にかけることなく、パワーは逞しい腕でヒノエのか細い身体を少し締めつけるように押さえ込んでいた。
「これで逃げられないな!」
「ヒノエさん!?」
咄嗟にアズマヤがパワーの腕からヒノエを助けるために、パワーの腕に飛びかかろうとした。
その直前、右足を前に出し、踏み込もうとしたアズマヤの左足に激痛が走って、アズマヤは思わず身体を硬直させる。
何が起きたのかと、ゆっくりと左足に目を向ければ、そこにはブラックドッグが噛みついていた。
「こえでぼうはひれない」
これでもう走れない。
読み取れたブラックドッグの言葉が告げたように、アズマヤの左足を襲う激痛は完全に左足から自由を奪っていた。
振り払うまでもなく、ブラックドッグがアズマヤから離れ、アズマヤは激痛に支配される左足を押さえたまま、その場に蹲る。
「ア……ズマヤ……さん……!?」
パワーに押さえ込まれたまま、ヒノエが苦しそうにアズマヤの名前を呼んだ。
その言葉が助けを呼ぶものでないことくらいはヒノエの動きを見ていたら分かる。
ヒノエはこの状況になっても、アズマヤの心配をしているらしい。
「よし、君も連れていこう!君にはちゃんとした教育が必要だ!」
ヒノエを腕の中に押さえ込んだまま、パワーがもう片方の手を伸ばし、アズマヤを掴もうとしてきた。
アズマヤは僅かでも、その手に抵抗しようと、左足を押さえたままの状態で、大きく肩を振るってパワーを拒絶する。
「おっと!まだ抵抗する気力があるとは感心だ!だが、もう大人しくする時間だ!」
そうパワーが口にした直後、アズマヤの顔に硬い感触がぶつかって、大きな衝撃が頭を打ち抜いた。
ぐるんと視界が大きく回転し、空と地面の違いすら分からなくなる。
何が起きたのかと思うアズマヤに答えを示すように、アズマヤの顔は痛みに包まれ、背中には冷たく硬い感触だけが伝わっていた。
殴られた。
殴られ、地面に倒れ込んだ。
それは理解したアズマヤが回転する視界の中で、何とか身を起こそうと試みたが、うまく身体を起こすことは敵わず、気づいた時にはアズマヤの身体は持ち上げられていた。
「さあ、帰ろうか!」
パワーの声がすぐ近くで聞こえ、アズマヤはパワーに担がれた事実を知る。
「アズ……マヤさん……!?アズマ……ヤさん……!?」
近くから必死な様子のヒノエの声が聞こえ、アズマヤは何とか返事しようと口を動かそうとした。
だが、殴られた顔ではうまく口を動かすことができず、僅かに開いた唇の隙間から声にならなかった空気の漏れる音がするだけだった。
「ヒュー……ハー……」
ヒノエさん。
アズマヤはそう言ったつもりだったが、うまく言えないことにアズマヤが気づき、返事もできないと思った直後のことだった。
不意にアズマヤの身体に痛みが走って、アズマヤは痛む顔を僅かに歪めた。
肌を襲う鋭く貫くような痛みに何事かと思っていると、アズマヤの身体を急な浮遊感が襲って、次の瞬間には硬い何かに全身を強打する。
何事かと思い、身体を左右に揺すったことで、アズマヤは自分が地面に落ちていることに気づいた。
パワーがアズマヤを落とすとは思えない。
何があったのかとアズマヤが身を起こすと、そこでは歩くような体勢で作られた石像のように、固まったまま動き出そうとしないパワーとブラックドッグの姿がある。
二人の体勢は歩くような状態から一切変わらないが、その身体は僅かに震えていて、その視線はアズマヤの近くに向けられていた。
そこには怒りに満ち満ちた目をパワーとブラックドッグに向けるヒノエの姿があった。




