2-5.ランナウェイ
何が起きたのかは判然としなかったが、白目を剥いて倒れ込んだパワーは動く気配がなく、完全に気を失ったようだった。
その光景に頭を抱えた様子のブラックドッグを目にし、アズマヤはもしかしたら、今が逃げるのに最適なタイミングなのではないかと考えた。
何があったのか分からないが、パワーが動けなくなった今、ブラックドッグ一人しか残されていないが、ブラックドッグは犬の姿だ。アズマヤ達を追いかけることに関しては最適な姿でも、パワーを連れていくには無理な状態だろう。
このまま、倒れたパワーを放置する可能性もあるにはあるが、超人という社会的な立場があるのなら、この衆人環視の中でパワーを放置してアズマヤ達を追いかける可能性は低い。
そう考えたアズマヤが女性の手を強く握って、女性に小さく声をかけた。
「三秒数えたら走り出します」
「え?」
不思議そうな顔をする女性の前で、アズマヤはそれ以上の説明をすることなく、女性にだけ聞こえる声でスリーカウントし、その終わりと同時に足を動かした。
女性の手を引いたアズマヤが一気に走り出し、ブラックドッグもすぐに気づいた様子だったが、アズマヤがそう思ったようにパワーの様子も気にかけ、即座にアズマヤ達を追いかけてくる気配はない。
そこから振り返ることなく、アズマヤは必死に走り続けて、駅から十分に離れたところで、人通りの少ない路地に逃げ込むように飛び込んだ。
そこでようやく二人は足を止めて、ここまで来た道を見返してみるが、ブラックドッグが二人を追いかけてきている気配はない。
逃げ切った。ほっと一息ついてから、アズマヤは疲れた様子の女性に気づいて、息を整えながら謝罪した。
「急に走り出してすみません。あの場で説明するのは難しくて」
「い、いえ……こちらこそ、巻き込んでしまって申し訳ありません」
荒い呼吸を繰り返しながら、女性はアズマヤに向かって頭を下げてきた。
確かに言われてみれば、アズマヤは巻き込まれたように見えなくもないが、実際のところはそこから抜け出す手段も、抜け出せる瞬間もあった。
それでも、アズマヤが女性の手を掴んだことは自分の意思だ。
巻き込まれているという実感はなく、アズマヤはかぶりを振った。
「俺が選んだことですから」
そう告げると女性は驚いた顔をしてから、ゆっくりと噛み締めるように声を出す。
「助けてくれて、ありがとうございます」
そのお礼の言葉にアズマヤは笑みを浮かべてから、小さくかぶりを振った。
「困っている人を助けるのは当然のことですから」
当然のように告げたアズマヤの姿に、女性は小さく口角を上げてから、少し申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい。貴方は本当に良い人なのに。私は最初、新手のナンパか何かだと思って、冷たくしてしまいました」
「ああー、まあね。そうですよね」
それはそうだろうとアズマヤは思い、照れ臭そうに頭を掻いた。
アズマヤも思春期の男子である以上、そういう下心が全くないかと言われたら、そういうわけではないが、少なくとも、困っている人に親切を押しつけて、満足できるほどに腐ってもいない。
それにアズマヤには根本的に足りていないものもあって、それをアズマヤ自身も自覚しているからこそ、女性の言葉には恥ずかしさを覚える。
「俺には初対面の女性に声をかけられるほどの度胸はないですよ」
言いづらそうに赤面しながら、アズマヤがそのように口にすると、女性はしばらくきょとんとしてから、不意に堪えられなかったように笑い始めた。
「な!?そんなに笑わなくてもいいじゃないですか!?そういう経験がないから、仕方ないでしょう!?チキン野郎なんですよ!?」
アズマヤが自虐的に反論すると、女性は笑い過ぎて目元に浮かんだ涙を拭いながら、アズマヤの言葉を否定するようにかぶりを振る。
「違います。超人に立ち向かってまで私を助けてくれた人が、自分には度胸がないって言うのが面白くて」
「あれとこれとはまた別というか……」
思わぬ形で晒してしまった自身の恥部に恥ずかしがりながらも、アズマヤは女性がそれまでに見られなかったはっきりとした笑顔を浮かべたことに、どこか安堵する気持ちもあった。
さっきまで何かに追い込まれているようだったが、その雰囲気も消えている。
この状態だったら話せるだろうかと思い、アズマヤは疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「あの怪人って言うのは?」
「ああ、あれですか……まあ、どうやら、そうみたいです」
「そうみたいって?」
「自分でも良く分からないんですけど、事故に遭って、それで気づいたら、怪人になっていたみたいです」
「事故に遭って、気づいたら?」
怪人とは人の中に紛れている未知なる存在である、というようなものがアズマヤの聞いている怪人という存在だ。
急に怪人になるというのは、これまでに聞いたことがなく、アズマヤは戸惑った。
「こんなこと言っても信じられませんよね。私も良く分からないくらいだし」
「ごめんなさい。ちょっと俺の頭だと理解できなくて。でも、怪人ということはもしかして、さっきの超人から逃げるために急いでいたんですか?行かないといけない場所っていうのも嘘?」
女性を助けた後に聞いた話を思い出し、アズマヤがそのように質問すると、女性はかぶりを振った。
「行かないといけない場所があるのは本当です。この後、そこに向かうつもりです」
「そこって徒歩で行けるような距離なんですか?駅の近くにいたけど、電車に乗る雰囲気じゃなかったですよね?」
疲れている様子を見るに、アズマヤと逢うまでの段階で、女性はそれなりの距離を移動しているはずだ。
そこから更に歩くとは思えず、近くに目的地があると思ったのだが、そういうことではないようだった。
「本当は電車とかに乗れた方がいいんですけど、今は手持ちがなくて、歩いていくしかないんですよ」
どこか困った様子で笑う女性の姿に、アズマヤは唖然とする。
今の状態でここから更に歩くとなると、女性がちゃんと無事に辿りつけるか分かったものではない。
さっきの超人達と再び逢わずとも、途中で倒れる危険性があるくらいだ。
そんな状態で行こうとしていたのかと今更ながらに驚くアズマヤの前で、不意に女性が「よし」と呟いて、アズマヤに向かって頭を下げてきた。
「本当にありがとうございました。ここからは私一人で行きます」
「えっ?」
「超人が迫っていると分かった以上、私と一緒に行動していたら、貴方を巻き込んでしまうかもしれません。それは絶対に嫌なんです。だから、私一人で行きます」
女性の固い決意の言葉を聞いて、アズマヤは思わず、かぶりを振ろうとした。
今の女性の様子を見たら、一人で行かせるわけにはいかない。一人でも助けを多い方がいいはずだ。
そう考えるが、アズマヤが仮に女性と一緒に行動して何ができるのかと言われたら、できることがほとんどないことも事実だった。
場合によってはアズマヤの存在自体が女性の邪魔になるかもしれない。
怪人がどういうものであるのか分からない以上、その可能性は十分に考えられる。
女性の意見を尊重するべきか、とは思いつつも、アズマヤとしてはこのまま見送る気持ちにはなれず、一つ提案してみることにした。
「あの!電車代なら俺が出しますから、今からさっきとは違う駅に行ってみますか?」
「えっ……?」
「やっぱり、そのまま歩いていくのは無謀だと思うんです。駅まで送りますから、電車で行ってください」
アズマヤの提案に女性は驚きつつも、さっきのアズマヤの押しなどを思い出したのか、少し迷った表情のまま、小さく頭を縦に振っていた。
「では、お言葉に甘えて、そうしようかな……?」
少し口籠りながら、迷ったように口にする女性の言葉を聞いて、アズマヤは力強く頷く。
絶対にその方がいい。その方が超人と遭遇する危険性も徒歩で移動するより減るはずだ。
そう思いながら、アズマヤは女性を連れて、さっきとは違う駅に向かおうとしたところで、ふと一つ未だにやっていなかったことを思い出した。
「そういえば、まだ自己紹介してませんでしたよね?俺の名前は東野耀介です。十七歳の高校二年生です」
「私は……檜枝雪菜です。今は二十一歳の大学生……でした」
こうして二人はようやくお互いの名前を知った。




