1-3.恐怖さん
球体に球体を重ねた、バランスの悪い雪だるまのような体型をした男だった。拾った木の枝のように、短い手足もちゃんとついている。
シルクハットを目深に被り、恐らくは特注と思われるスーツを着用し、丁寧にナイフとフォークで食事を取る姿は紳士然としているが、気づいた時にはミトを屋敷に連れていた男だ。どれだけ見た目を取り繕っても、信頼に値する男とは思えない。
「それで体調はどうだい?気分が悪いとか、頭が痛いとか、腹が痛いとか、膝が痛いとか、腕が疼くとか、何か異常に感じるところはないかい?」
シルクハットの下から、唯一窺える口元が忙しなく動き、ミトに質問を投げかけてきた。
それよりもミトの頭は未だに現状を飲み込めていない。どこかの屋敷にいることは理解したが、どこかがどこであるのかも、どうして屋敷にいるのかも、未だに分かっていない状態だ。
「ここはどこですか?貴方は誰ですか?僕はどうしてここにいるんですか?貴方の目的は……?」
ミトは思いついた質問を片っ端から口にしようとしていたが、その質問を途中で止めるように、目の前の男が音を立てて、フォークとナイフを皿に立てかけるように置いた。
「いけない、いけない。いけないよ、ミトくん。短気は損気。急いては事を仕損じる。一つずつ、ゆっくりと食事でも取りながら、順番に解決しようじゃないか。ほら、答える私の可愛いお口も、こうして一つしかないわけだしね」
そう言いながら、男は自分の口を指差し、ニンマリと口角を上げた。
言いたいことは山ほどあったが、男の飄々とした態度を見るに、ミトが何を聞いたところではぐらかされる未来しか見えない。
ここは順番に男が話してくれることを待つしかないのかと考えるミトの前で、男が目の前のテーブルを手で示した。
座れ、と言っているらしい。
「失礼……します……」
ミトは戸惑いながら、男の正面に座った。目の前には男がさっきから口に運んでいる何かの肉を焼いたものがあるが、何か分からない以上、怖くて手はつけられない。
「さて、まずは私が一方的に君のことを知っているのも不公平だし、名乗るところから始めようか」
そう言うと、男はナプキンで念入りに口元を拭ってから、正面に座るミトを見てきた。
「私はこの屋敷の主人。気軽に恐怖さんとでも呼んでくれたまえ」
恐怖さん。名乗ると言いながら、何一つ名乗っていない、明らかに偽名と思われる名前を口にし、目の前の男は満足げに笑った。
「そちらの彼女はメイドのサラさん。頼めばある程度のことはしてくれるよ。ただし、女性の尊厳を傷つけることを頼むようなら、紳士たる私の権限を以て、制裁を下すことになるけどね」
恐怖さんはミトを案内してから、ずっとダイニングルームの扉の前で待機したままだったメイドを手で示し、ミトにそう紹介してきた。ミトが軽く視線を向けると、サラさんと紹介されたメイドは軽く頭を下げてくる。
ただし、こちらも明らかに本名を名乗っていない。こちらは偽名というよりも綽名だ。
「さて、自己紹介も済んだことだし、何より、君の意識がさっきから、そちらばかりに向いているようだから、本題に入ろうか」
テーブルの上に並べられた食器の中からスプーンを手に取ると、目の前に置かれたスープを一掬いし、口元に運んでから恐怖さんがそう口にした。
「では、君の質問に答える前に君に聞こう。君はどこまで覚えている?」
「どこまで……覚えている……?」
「この屋敷に来る前のことを君はどう覚えている?君の身に何が起きた?」
そう言われ、自然とミトの頭の中で迫る車の光景がフラッシュバックした。ミトの記憶が確かなら、ミトは車道に転び、車に轢かれたはずだ。
しかし、ミトの身体のどこにも怪我はない。
あれは夢だったのか、と浮かんだ光景から思いながら、ミトは自身に怪我がないことを確認するように自分の手を見やった。
「怪我がない……いや、生きていることが不思議かい?」
「えっ?」
「君は思ったのだろう?どうして車に轢かれたのに自分は無事なのだろう、と」
まるでミトの頭の中を覗いたように、恐怖さんの言葉は今、ミトが考えていることを正確に表していた。
驚きが自然と目に現れ、無意識の裡に見開いていると、その表情を見た恐怖さんが満足そうに笑みを浮かべる。
「では、その記憶を経て、君はどのように解釈したんだい?車に轢かれた君がここにこうして無事でいる理由は何だと思う?」
そのように質問され、ミトは改めてダイニングルームを見回した。
見覚えのない屋敷に、見覚えのないメイド。さっきは見覚えのない少女もいた。目の前には見覚えのない屋敷の主人もいる。その屋敷の主人の体型は到底、人とは思えない歪な体型だ。
それらの情報と目覚める直前に見た夢が重なって、ミトは自分がどこにいるのか、ようやく理解した。
「そうか……もう死んでるのか……」
その呟きを聞いた恐怖さんが口元に何かのステーキの一欠片を運ぶ動きの途中で固まった。
運ばれてくるステーキを待つように、口をあんぐりと開けたまま、ステーキを口の中に押し込むことなく、フォークの先から落としてしまっている。
そうかと思えば、恐怖さんの口は更に開いて、突然、何かが吹き出したかのように笑い出した。
「あっははは!これは傑作だ!まさか、死後の世界と思うとは!その発想は初めてだった!」
だんだんとテーブルを叩き、腹を抱えながら笑い転げ、恐怖さんはシルクハットの下から涙すら流している。
「それでは君は何だね、私がこうして食事を取っていることを無駄だと言うわけかい?」
ここが死後の世界であるなら、生きるために必要な行動は必要なくなるだろう。
食事もただの娯楽以上の意味は持たなくなるかもしれない。
そう考えたミトが首肯すると、恐怖さんは更に耐え切れなかったように笑い始めた。バタバタとテーブルの下で足が忙しなく動いて、テーブルクロスをパタパタと揺らめかせている。
「本当に君は面白い!確かに事故に遭ったことを考えれば、そう思ってしまうのかもしれないね!ただ幸運にも、と言うべきなのか、不幸にも、と言うべきなのか、ここは死後の世界ではない」
そう言ってから、恐怖さんは乱れた身だしなみを整えながら、ダイニングルームの扉前に立ったままのサラさんを見やった。
「サラさん」
「畏まりました」
恐怖さんに名前を呼ばれたサラさんはそれだけで、扉の前からミトのすぐ傍まで移動してきて、ミトの顔を覗き込んできた。
「失礼します」
そして、そう言ったかと思えば、唐突にミトの頬に手を当て、思いっ切り抓ってきた。
「痛っ!?」
ミトは思わずサラさんの手を払い除け、抓られた頬を労るように摩る。
何も警戒していなかったから、余計に強く痛かった。
「ほら、まだ痛みを感じるだろう?それこそが君の生きている証だよ」
頬を摩るミトを見つめながら、そう告げた恐怖さんの言葉に、ミトは強く納得した。
確かにここが死後の世界であるなら、これほど強い痛みを感じるとは思えない。
まだミトは生きていると思ってもいいだろう。
しかし、それなら車に轢かれた記憶は何かとミトは疑問に思い始めていた。身体に怪我がないのなら、その記憶が間違っていると思うしかない。
そう考えてみるが、その記憶を恐怖さんが指摘したことを考えると、全くなかったこととも思えない。
「だんだんと混乱してきたようだね。まあ、そうなるだろう。考えても分かることではない」
「貴方は何か知っているのですか?」
恐怖さんの思わせぶりな態度を前にし、ミトはそう質問を投げかけたが、恐怖さんは何も答えることなく、ただひたすらにスープを口元に運んでいた。
「あの?聞いてますか?何か知っているなら、教えてください。貴方は何を知っているのですか?」
そう聞いてみるが、やはり、恐怖さんは反応しない。
ここに来て、どうして無視するのだろうかとミトが戸惑っていると、スプーンを口から離した恐怖さんが小さな声で呟いた。
「恐怖さん……」
「えっ?」
「恐怖さん……私の名前……恐怖さん……」
小さく聞こえた声にまさかと思いながら、ミトはさっきと同じ質問を恐怖さんに投げかけてみる。
「恐怖さんは何か知っているのですか?」
「もちろんだとも!」
急に元気さを取り戻し、恐怖さんがスープから顔を上げた。
満足げに口角の上がった口元を、ミトは冷ややかな目で見つめてしまう。
「単純なことだ。君は確かに車に轢かれ、重傷を負った。それこそ、もうすぐに死んでしまうという傷を、ね」
「えっ?いや、でも、傷も何も残ってないですよ?」
「当然だ。全て手術によって消えたのだから」
「手術?手術でどうにかなるものですか?」
少なくとも、ミトの知っている手術では、車に轢かれた重傷をまるっとなかったことにはできない。
それは医者ではなく、神の領域だ。
そう思っていたら、恐怖さんは平然と言ってのけた。
「何とかなるのだよ。君の受けた特別な手術ならね」
「特別な手術……?」
そんな手術があるのかと疑問に思うミトの前で、恐怖さんはニンマリと笑みを浮かべ、ミトが耳を疑う一言を口にした。
「そう。君は特別な手術……改造手術を受けたんだよ」