1-2.THE メイド
ぼやけた景色の向こうから声が聞こえてきた。
軽い調子の男の声だ。誰かと会話しているようだが、内容まではちゃんと聞こえない。
そう思っていたら、ぼやけた景色の中を誰かが覗き込んできた。
誰なのかは分からない。顔も年齢も性別も定かではない。
ただぼやけた輪郭が人の頭であることだけは確かに証明していた。
「ああ、これね。これが例の轢かれた子ね」
ミトの顔を覗き込むように見ていた輪郭から、さっきも聞こえた男の声が聞こえてきた。軽い印象の声とは裏腹に、物騒な言葉が含まれている。
「犬とか猫と一緒に轢かれたんだよね?そっちは?」
近くにいる誰かに質問する男の声に、聞かれた誰かが返答する声は聞こえてきたが、内容までは分からなかった。
ぼやけた景色の中から、人の頭に見える輪郭が消えたかと思うと、遠くからさっきの男の声が微かに聞こえてくる。何を言っているかまでは分からない。
そう思っていたら、再びぼやけた輪郭が視界の中に戻ってきて、再度、ミトの顔を覗き込むように見てきた。
「ああ、でも、こっちも同じだなぁ。向こうと違って息があるだけで、もう助からないね。手を尽くしても尽くさなくても、これは死ぬね」
命の話をしているとは思えないほどに軽い口調で、男はそう断言した。
ぼやけた景色に比例するように、ぼやけたミトの意識では、男の言葉も軽い口調に紛れて、何を言っているか正確には分からない。
怒りも真面な返答も、ミトの中に湧いてくるだけの余裕がない。
「というわけで、予定通りに最終手段を取りますから、麻酔の方をきつく入れちゃって。それから、後はメスとそれもこっちにね」
唐突に男がテキパキと指示を飛ばし始め、何かが始まると思った記憶を最後にミトの意識がどこかに吹き飛んだ。
瞬間、ミトの眼前に車が接近し、ミトの身体にぶつかる映像が再生される。
「あっ……」
という言葉を漏らす余裕もなく、ミトの身体に車は到達し、強い衝撃がミトの全身を襲った。
その感覚に跳ね起き、ミトは大きく息を吐き出した。ぐっしょりと嫌な汗が全身を覆い、息を吸うと同時に始まる呼吸は自然と荒くなる。
轢かれた。その感覚だけが残り、そう思うミトの気持ちとは裏腹に、ミトの身体に痛みはなく、何度、繰り返しても呼吸は途切れることなく続いていた。
(生、きてる……?)
自分の状況に疑問を覚えたミトが自身の手を見やり、そこで自分が布団に包まっていることに気づいた。
見れば、ミトは見知らぬベッドの上に寝転がっているようだ。
「起きた……?」
そこでミトの寝転ぶベッドの脇から、女の声が聞こえてきた。
ミトが声のする方向に目を向けると、そこにはミトと年齢の近い一人の少女が座っている。
黄色いパーカーのフードを被り、その中からミトの様子を窺うように見ている。僅かに見える髪は一部が黄色く染められ、黒と黄色のコントラストからミトは虎柄を思い出した。
「ちょっと待って……呼んでくる……」
少女はぼそぼそと声を漏らし、ミトに待つように伝えると、ミトからの質問を受けつける暇もなく、部屋から出て行ってしまった。
その時になって、改めてミトは周囲を見回す余裕を得られるが、どうやら、ここは見知らぬ部屋の中のようだ。見知らぬ家の一室か、ホテルの部屋かは分からないが、少なくとも、病院という可能性はなさそうに見える。
(ここはどこ……?)
頭の中に残った車に轢かれる記憶や、夢かどうかも定かではないぼやけた景色の記憶がフラッシュバックし、ミトは現在の状況との隔たりに混乱していた。
全ては悪い夢だったのかと考えてみるが、夢だとしたら、今度は現実の方に疑問が湧いてくる。
ミトの記憶が確かなら、ここはミトの家でも部屋でもないし、さっきの少女は初対面だ。そのような場所にいる理由が分からない。
そうして一人で考え込んでいたら、さっきの少女が消えた扉が再び開く音がした。
少女が戻ってきたのかと思い、ミトがその扉に目を向けると、そこにはまた新たな見知らぬ女性が立っていた。
女性は漫画やアニメで見るようなステレオタイプのメイド服を着た大人の女性で、ミトの視線に気づくと恭しく頭を下げてくる。
それに返すようにミトも頭を下げると、女性は一歩だけ部屋の中に足を踏み入れ、ミトに声をかけてきた。
「体調の方はよろしいでしょうか?」
「え、ええ、はい……」
メイドの思わぬ一言に戸惑いながら返答すると、メイドは表情一つ変えることなく、自身が入ってきた扉を手で示してくる。
「それでしたら、こちらにどうぞ。この屋敷の主人が貴方をお待ちしています」
「屋敷……?主人……?えっと、ここは……?」
戸惑うミトはメイドに質問を投げかけるが、メイドはその質問に答える気がないのか、扉を手で示したまま、ミトの返答を待っているようだった。
良く分からないが、屋敷の主人とやらに逢う以外に選択肢はないらしい。
そう思ったミトは首肯し、自身が寝転がっていたベッドからゆっくりと抜け出す。その時になって気づいたが、ミトの着ている服まで、ミトの知らない物に変わっている。
本当に大丈夫なのかとミトは不安に思ったが、ここがどこであるのかも分からない以上、メイドに従う以外の選択肢はない。
ミトは怯えながらもメイドに連れられ、部屋を後にすることにした。
そこで見たものはどこまでも続く廊下と、その側面に立ち並ぶ無数の扉や窓だった。
窓から見える景色は広く、どこまでも緑の続くもので、ここがミトの知っている場所ではないことを教えてくるようだ。
どうやら、ここは本当にどこかの屋敷であるらしい。
そう実感したミトを案内するように、メイドが廊下を歩き出す。その後ろをついて歩きながら、ミトはさっきの少女はどこかと辺りを見回してみるが、少女は廊下にはいない様子だった。
もしかしたら、立ち並ぶ扉の向こうにいるのかもしれない。
そう気になっても聞くだけの余裕は今のミトにはない。
少しでもメイドから遅れて、メイドを見失ったら、即座に迷子になる可能性がある広さだ。ミトはついていくために気を張る必要があった。
そうして、どれくらいの距離と時間を歩いたのかは分からない。
少なくとも、家の中を歩いているとしたら、あまりに長い時間を歩いて、ミトは一つの扉の前に到着していた。
掲げられた表札には『ダイニングルーム』と書かれている。
「この屋敷の主人はこちらでお待ちです」
メイドがそう言って、『ダイニングルーム』と書かれた部屋の扉を開けた。
ミトは戸惑いながらも、その部屋の中にゆっくりと足を踏み入れる。
「やあやあ、ようやく目覚めたようだね」
そこで部屋の中心に置かれたテーブルに座る男が声をかけてきた。
室内なのにシルクハットを目深に被り、目元を隠した球体のように丸い男だ。
「では、挨拶から始めようか」
そう言い、男がシルクハットの下に見える口を大きく上げて笑みを作る。
「おはよう、三頭晴臣くん」
そして、当然のように、そうミトの名前を口にした。