6-29.水の軌道
ブラックドッグによって切り裂かれたシトの胸元から、赤い塊が飛び出したことにジッパは絶句していた。
が、それも僅か数秒の反応で、すぐにジッパは目の前に転がる赤い塊の存在に気づいた。
「えっ?」
ジッパは戸惑いながら、言葉通りの塊として、そこに転がっている赤いものに触れる。ブラックドッグの牙がシトの胸元を切り裂き、血が噴き出したのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
それは何かと触れたら、すぐに知っている柔らかな肌触りを感じた。
「タオル?」
「大事なのは、その中」
切り裂かれた胸元を隠すように身を伏せながら、シトはそう告げた。想定していなかったシトの現状に、ジッパは一瞬、ドギマギしながらも、言われるまま赤いタオルを広げていく。シトの胸元を切り裂き、衣服の一部を口に咥えていたブラックドッグも、その中身を確認するようにジッパに近づいていた。
「これって……」
そう言いながら、ジッパはタオルの内側に包まれた二つの塊を手に取った。暗がりでも見えるように顔に近くに掲げ、それが手の感触と違わず、思った物であることを確認する。
「カプセル?」
それはヒマリの持つカプセルのようだった。シトの胸部に二つ。タオルに包まれた状態で隠し持っていたらしい。
「そう。それを使おうと思って、部屋のテーブルに置かれていた奴を持ってきたの。幸いなことに、胸の中までは確認されなかったから」
「なるほど。杜撰だな」
ブラックドッグは二人の怪人のボディーチェックの甘さに思わず呟きながら、ミライと攻防を繰り広げる怪人達の方を見ていた。
そこではミライが両手を光り輝いたものに変え、男の撃ち出す水を跳ね返し、女が手を振るうと共に動き出す瓦礫を弾き返している。
「それを使って、怪人を捕まえられれば、ミライちゃんを助けられるはず」
シトの言葉にジッパは頷き、カプセルの一つを強く握り締めていた。それから、もう一つのカプセルをもう片方の手で握ろうとしてから、視線をミライのいる方を見つめるブラックドッグに向け、ジッパはそのカプセルを差し出す。
ブラックドッグはジッパのその動きに気づいたのか、ジッパの方に目を向けてから、目を丸くしていた。
「何のつもりだ?」
「俺一人だと成功率が低いから、もう一つはお願いするよ」
「おい、いいのか? そのカプセルがどういうものかは知っている。利用するかもしれないぞ?」
「ミライちゃんを助けるためにはこれしかないから。もし、あんたがそれを使って、俺達を捕まえるなら、その時は信用した俺が馬鹿だったってだけのことだ」
「それであのヒマリって男は納得するのか?」
「ヒマリさんなら……俺が胸張ってやったことを否定はしない、と思う……」
やや語尾に力はなかったが、堂々と言い放ったジッパを目にし、ブラックドッグは小さく溜め息をついていた。
「お前達はどうして、そう俺を信用する?」
「まあ、強いて言うなら、ミライちゃんがそうしたから、だね。それもあるから、もう疑ってないよ」
ジッパのまっすぐな言葉に当てられ、ブラックドッグは僅かに顔を逸らしてから、ジッパの前でゆっくりと口を開く。それが肯定の意を示しているとジッパはすぐに理解し、その口の中にカプセルを放り込んでいた。
ブラックドッグがカプセルを咥え、ジッパと共にミライのいる方を見つめる。
「どう動く?」
「そこは……ノリで!」
「……本当にお前一人だと失敗しそうだな」
「ちょっと待って!」
そこで走り出そうとしたジッパとブラックドッグを引き止めるようにシトが声を出した。その声に二人は振り返り、地面に伏せたままのシトを見下ろす。
「どういう風に動くつもり?」
「取り敢えず、ミライちゃんを助けることを優先して動くつもりですよ?」
「捕まえることは二の次って感じだな」
ジッパの考えにブラックドッグは賛同するように呟き、シトも受け入れるように頷いた。
「それなら、それを助ける情報が必要じゃない?」
「どういう意味だ?」
シトの言い方にブラックドッグは眉を顰めていたが、ジッパはシトが何を言おうとしているのか、すぐに察していた。
シトの怪人としての力は、予測することである。
「お願いします!」
ジッパが力強く首肯し、シトは床に伏せたまま、視線をミライ達の方に向けていた。
◇ ◆ ◇ ◆
カンザシの片手からは糸が伸びていた。散らばった瓦礫に結びつけた糸は強靭で、どれだけ振り回しても切れることのないものだった。それを床や壁などに固定することで、ミライを追いつめるための準備は整えられていた。
暗がりの中に浮かぶ光として、張り巡らされた糸は少し離れていても目視できた。それを確認しながら、リクジョーは糸を狙い撃つ形で水を放っていた。
もちろん、糸は強靭であるために、これくらいの水で切れることはない。
だが、強く押し出された水に糸は動き、片方が床や壁で固定されているとなれば、もう片方に結びつけられた瓦礫の方が、その動きに合わせて引かれるしかなかった。
結果、リクジョーの水を防ぎ切ったミライの死角から、瓦礫が同等の速度で迫る状況が作り上げられ、ミライの余裕は完全になくなっていた。
仏の手で水を防いでから、すぐに迫ってくる瓦礫を弾いていく。それだけのことに神経を注がなければ、攻撃の全てを切り返せないほどに、攻撃の迫る位置も量も、ミライの想像を超えていた。
次第にミライは疲弊していく。動きが悪くなっていけば、それだけで水や瓦礫を受ける可能性は高まってしまう。
肩で息をしながら、どうしたらいいのかと考えるミライの耳に、声が届いたのはその時だった。
「ミライちゃん! 伏せて!」
そう叫ばれた声を聞いて、ミライの視線は声のした方に動いていた。
そこでは、ジッパがミライに迫りながら、何かを振り被ろうとしていた。その手の中にカプセルが見え、ミライは咄嗟に身を屈めるが、すぐにその行動ではいけないことは分かった。
ジッパの声に反応したのは、ミライだけではなかった。リクジョーとカンザシも同じように視線を向け、そこに迫るジッパの姿を確認していたのだ。
ジッパはリクジョーに向かってカプセルを振り被っていく。
しかし、その時にはリクジョーはジッパが何かを投げようとしていることは分かっていた。
カンザシなら未だしも、リクジョーはカプセルの存在を知っている。ジッパの動きを見ているだけで、手の中が見えずとも、そこにカプセルがあることくらいは分かっただろう。
ジッパがカプセルを投げる。その動きに合わせ、リクジョーは手を持ち上げていた。
リクジョーの指先から水が噴き出し、ジッパの投げるカプセルにぶつかる。カプセルはジッパの投げた勢いを失い、跳ねるように天井に向かっていた。これではリクジョーに当たらない。
それだけで終われば、まだ良かった。すぐにリクジョーはカプセルから狙いをジッパに定め、掲げた手を向けていた。
そのことに気づいたミライが慌てて身を起こし、ジッパとリクジョーの間に割って入るように両手を上げる。
その時、暗がりから影が飛び出した。ミライがその姿を確認するよりも早く、飛び出した影は身体を動かし、ミライの手元に何かを飛ばしてくる。
その影がブラックドッグであることに気づいた時、ミライの持ち上げた両手に、カプセルがぶつかっていた。
カプセルはミライの手に勢い良く弾かれ、その正面にいるリクジョーに向かっていく。それはミライにとっても、リクジョーにとっても予想外のことだったようで、リクジョーは慌てた顔をしながら、全身から水を噴き出していた。
リクジョーの身体から噴き出した水に押され、カプセルが軌道を変える。その様子を見ながら、ジッパとブラックドッグ、そして、シトは小さく笑みを浮かべた。
(予測通り)
全員が揃って、そう思った直後、軌道を変えたカプセルが弧を描く軌道で落ちて、その先にいるカンザシとぶつかった。
カプセルは開いて、その中にカンザシが取り込まれる。地面に落下したカプセルは少し左右に揺れてから、すぐに動きを止めていた。
「おいおい、ふざけてんのか……!?」
その様子にリクジョーは焦りに満ち満ちた表情を浮かべ、転がるカプセルを見つめていた。
すぐにブラックドッグは駆け出し、カンザシの入ったカプセルを拾おうとする。
だが、流石にそれだけは阻止したかったのか、リクジョーは急いで水を噴き出し、カンザシの入ったカプセル自体を部屋の外に弾き飛ばしていた。
カプセルが階段の下に転がっていく様子を確認してから、リクジョーは片手を大きく振り払い、ミライ達の方に目を向けてくる。
リクジョーの片手から水が波のように噴き出した。ミライは片手を持ち上げ、その波を返そうとするが、流石に量が多く、ミライ達の身体は部屋の片隅に流されてしまう。
その隙にリクジョーは入口の方に駆け出し、落下したカプセルを追いかけるように階段を駆け下りようとしていた。
寸前、ミライ達の方を睨みつける目は、憎悪に満ち満ちた血走ったものだ。
波で崩れた体勢を立て直しながら、ミライ達は部屋から飛び出していくリクジョーを見送る。できれば追いかけたかったが、姿勢を立て直すだけでなく、床に伏せていたシトを助ける必要があったことから、それは不可能だった。
水に浸かったシトを引き摺り上げ、その両手両足を拘束していた糸を鬼の手で切ってから、ミライはシトにぎゅっと抱きつく。
「シト。良かった」
「ミライちゃん……。ごめんね、心配かけて」
シトが抱きついてきたミライを抱き締め返し、ジッパがようやく安堵したところで、上階に行っていたヒマリが部屋の中に戻ってきていた。部屋の中に溜まった水や、リクジョー達の姿がないことに驚きながら、ヒマリがミライ達のいる方を見てくる。
「どうなった?」
「ヒマリさん! 勝手にいなくならないでくださいよ! 大変だったんですから!」
ジッパが抗議の声を漏らし、ヒマリはやや申し訳なさそうに顔を歪める。
「一応、こっちは無事だ。ギリギリだけどな」
安定しない足元を補うように犬かきをしながら、ブラックドッグはそう答えた。その様子をじっと見つめ、ヒマリは何かを言いたそうにしていたが、ブラックドッグが鋭く睨みつけると、その言葉は喉の奥に引っ込んでいた。
「アサギは?」
シトがミライを抱き締めたまま、そう聞いてくる。
「悪い、逃がした。下にジョーカーが来ていたみたいだ」
ヒマリがそう告げると、シトの腕の中でミライが僅かに表情を曇らせた。脳裏にアザラシの顔が自然と思い浮かぶ。
「終わったのなら、敵が増えない内に一度、ここから離れるべきか」
そう告げてから、ヒマリはじっとシトを見つめる。
「スイミ。今度こそ、何があるのか話してくれるか?」
ヒマリの確認するような問いかけに、シトは苦々しい笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いていた。