6-28.生身の怪人
シトが拘束されていた部屋から見て、一つ上が雑居ビルの最上階のようだった。そこに至るまでには、誰もいないことを確認しているので、このビルの中に酒鬼組の人間がいるとしたら、それは必然的にその部屋に限られる。
ここにアサギがいるのか、それとも、別の酒鬼組の人間がいるのかは分からないが、どちらにしても、それを逃がす手はない。
ヒマリは階下の騒ぎをミライ達に任せることにして、上階の扉の前に足を運ぶ。中からは特別な物音が聞こえてこないが、それで誰もいないと決まったわけではない。
ゆっくりと扉を開けて、ヒマリはその中に広がる部屋を見回した。
簡素なテーブルにパイプ椅子。即席で作られたとしか思えない空間に、ヒマリは異様さを覚えながら、ゆっくりと足を進める。
扉の向こう、すぐそこに広がっている部屋の中には、人気がなかった。
が、そこに人がいないわけではないことがすぐに分かった。
部屋の奥。そこに見える扉の向こう。そこから、微かな物音が聞こえてきた。
誰かいる、とヒマリが思ったところで、ゆっくりとその扉が開いていく。警戒心で身を固めながら、そこに現れる人影を待っていると、次第に見覚えのある顔が扉の向こうから現れていた。
張りつけたような柔和な笑みを浮かべ、一見すると教師のようにも見える風貌だが、その中身は何よりもどす黒く、触れることすら躊躇われるほどだ。
その表情に思わず視線を鋭くしていると、そこに現れた人物がヒマリの存在に気づき、僅かに驚いた顔を見せる。
それはそうだろう。さっきまで人がいなかったところに人が立っていたので、それで驚くことは当然だろうと思ったが、それも一瞬のことのようだった。
やはり、ヒマリの到着は予想していたのか、すぐにアサギの表情はいつもの笑みを浮かべたものに変わっていた。
「いやいや、これは久しいですね。大岐土組のベニマルさんではありませんか?」
警戒するわけでも、敵意を見せるわけでもない。歓迎したように発せられたアサギの声を聞いて、ヒマリは耳の奥にむず痒さを覚える。白々しい声の出し方に苛立ちを覚えるが、それをひたすらに発散するつもりはなかった。
アサギはゆっくりと部屋の中を移動する。ヒマリを一応は警戒しているのか、一定の距離を取りながら、ヒマリの前を少しずつ歩いている。
「何でも、いろいろと動いているようですが、ベニマルさんは一体、何をしているのですかね?」
アサギは探るように質問を投げかけてきた。これまた白々しい確認の方法だ。ヒマリが答えるまでもなく分かり切っていることだろう。
ヒマリは今度こそ、怒りを発散してしまいそうになるが、もしかしたら、それが目的なのかもしれないとはすぐに思えた。無理矢理に怒りを噛み殺し、ヒマリはアサギを睨みつけるだけに留まる。
「お前だけか? 他の酒鬼組の人間はどうした? 組長は?」
「こんな場末に組長がいるわけがないでしょう? ここは完全プライベートなビルですよ。普通なら、不法侵入で通報するところですが、今回は知人ということで大目に見ましょう」
大目に見ると言っているが、当然のことながら、ここで行われていたことを考えれば、通報することなど不可能だ。そうでありながら、適当なことを並べているアサギに苛立ちながら、ヒマリはこの場所を訪れた目的を口に出す。
「なら、お前のところの組長がどこにいるのか教えろ」
この場所を訪れた一番の目的を口に出すと、アサギはゆっくりと振り返り、疑問を懐いたように首を傾げた。
「そう聞かれて、こちらが答えると? 本当にそうお思いですか?」
アサギの問いかけにヒマリは小さく息を吐き出す。分かり切っていたことだが、アサギは答えるつもりがないらしい。当然のことだろう。ヒマリが逆の立場でも答えることはない。
ただし、今の返答は間接的に一つの答えを齎していた。
知らないのではなく、答えるつもりがないという返答だ。アサギの頭の中には、サカキの居場所が入っているらしい。
それなら、後はアサギから、じっくりと聞き出す時間さえ用意できればいい。オダにそうしたように手段なら、いくらでもある。
ヒマリはアサギを捕まえようと、懐からカプセルを取り出した。
「それは?」
アサギがヒマリの動きを見て、そう聞いてくる。当然のようにヒマリも答えるつもりはない。
「気にするな」
「いやいや、そうは行きませんよ。何せ、貴方は既に怪人になっているそうですから」
そう言いながら、アサギはテーブルの影から手を上げた。
その手の中に銃が握られていることに気づいて、ヒマリは咄嗟に身を屈めていた。
部屋の中に銃声が鳴り響き、ヒマリの頭の上を弾丸が通過する。壁にぶつかって弾いた音が聞こえるが、ヒマリの身体には跳弾も着弾していない。
「何をするのかは知りませんが、それが攻撃であることくらいは察しますよ」
アサギの向ける銃口が身を屈めたヒマリに向いた。そのことに気づいたヒマリが滑るように身体を動かし、部屋の外に飛び出していく。
ヒマリを追いかけるように銃弾が発射される。ヒマリの逃げ出した廊下に銃弾が飛び出し、壁にぶつかった。
「クソッ……!?」
もう少しで捕らえられそうだったのに。そう思いながらヒマリはカプセルを握り締め、部屋の中を覗こうとするが、それすらも許さないと言わんばかりに、アサギは引き金を引いていた。
ヒマリは入口に縛りつけられ、そこから移動することを許されなくなる。完全な膠着状態だ。
この状況を作り上げて、アサギは何をするつもりだと思っていたら、ヒマリは微かに扉の開く音を聞いた。
もしかして、と思い、慌てて部屋の中を覗き込むと、そこにあったはずのアサギの姿が消え、部屋の奥の扉が開かれていた。
「逃げやがった……!?」
ヒマリは慌てて立ち上がり、部屋の奥にある扉の前まで駆け込んでいく。
そこでアサギの銃口が開かれた扉に向けられていることに気づいて、ヒマリは踏み込みかけた足を寸前で止め、急いで身を引き戻した。
部屋の中を弾丸が通過する。その隙にアサギの姿は扉の奥の、更に奥へと消えていく。そこには金属製の扉が見え、その上には非常口のマークがあった。
「非常階段か!?」
このままでは完璧に逃げられてしまう。そう思ったヒマリがアサギを追いかけ、金属製の扉を開け放って、その奥にある踊り場に飛び出していく。
そこにアサギの姿はなく、ヒマリは階段を降りる足音を聞きながら、階段の隙間から下を覗き込んだ。
アサギは急いで階段を降りている。その先には一台の車が止まり、アサギの到着を待っているようだ。
「ふざけるな……!? 逃がすか……!?」
そう思ったヒマリは咄嗟にカプセルを取り出し、狙いをアサギから眼下に見える車に移していた。握ったカプセルを構え、一気に投擲する。カプセルは重力に従って、まっすぐに落下していく。
だがしかし、そのカプセルが車に到達する前、車の中から伸びた手が握った銃を構え、落下するカプセルを撃ち落としていた。
その対応にヒマリが顔を顰め、車を睨みつけていると、窓から伸びた手が車の中に戻り、今度は代わりに頭を覗かせてくる。
そこにつけられたピエロの仮面を目にし、ヒマリはゆっくりと歯を食い縛っていた。
「ジョーカーか……」
アザラシと一緒に行動していた怪人の名前を思い出し、ヒマリが悔しそうにする前で、アサギが車の中に乗り込んでいく。ヒマリの二投目を待つことなく、車はすぐに走り出し、雑居ビルの敷地の外に出ていってしまう。すぐにヒマリのカプセルが届く距離ではなくなっていた。
ヒマリは取り出したカプセルが押し潰れそうになるほど握り締め、走り去った車を見送る。睨みつけるようにそこに乗ったアサギやジョーカーを思い浮かべながら、ヒマリは歯を食い縛る。
「やはり、お前らも敵か……」
酒鬼組だけではない。ヴァイスベーゼも共通の敵である。そのことを再認識しながら、ヒマリはカプセルを懐に仕舞っていた。