6-26.シーツの残り香
ブラックドッグに協力の約束を取りつけ、ヒマリ達が最初に取り掛かったことは、ブラックドッグの首に首輪をつけることだった。
代表者はミライ。困惑するブラックドッグのケージに身体を突っ込み、ブラックドッグに大人しくするように声をかけながら、首輪を取りつけていく。
「何のつもりだ!?」
「必要なことだ」
「口約束は嫌いか!?」
抵抗するブラックドッグにミライは苦戦しているようだった。それを外側から眺め、ヒマリは態とらしく溜め息をつく。
「俺達も、本当はこういうことをしたくはない。だが、考えてみろ。犬を連れていながら、そこには首輪もリードもしていない。ただ一緒に歩かせているだけだ。そういう姿を見られたら、おかしいと誰しもが思うだろう? 超人として行動していた時は、そういうことを気にしなかったか?」
「それは……」
超人という立場から、ある程度のことは見逃されたとしても、全員の行動を制限できるわけではない。ブラックドッグとして行動する際に、どうしても向けられる視線はあったのだろう。
それが悪目立ちするというヒマリの説明にも納得がいっている様子だった。
ブラックドッグが大人しくなった隙に、ミライが無事に首輪を取りつける。それを見ながら、ヒマリは更に言葉を続ける。
「決して逃げられないために繋ぎ止めようとしているわけではない。これは外を歩くために必要な行為なんだ」
「…………おい、今、本音が漏れなかったか?」
ブラックドッグに指摘され、ヒマリは思わず両手で口を押さえていた。丸め込もうと饒舌になり過ぎたようだ。いらないことまで言ってしまったらしい。
とはいえ、既にブラックドッグが抵抗可能な状況は脱していた。ミライは取りつけた首輪にリードをつけ、無事にブラックドッグの手綱を握ることに成功していた。
「まあ、いい。これで逃げられないな」
「おい、隠そうとしろ」
「別に嘘をついたわけじゃない。ただ比重の大きい方を黙っていただけだ」
「逃げられないために繋ぎ止めようとしているわけではないって言ってなかったか?」
ヒマリはケージから目を逸らし、部屋の扉を開けていた。
「早く行くぞ。急がないと匂いが消えるかもしれないだろう」
「それっぽいことで誤魔化すな」
ブラックドッグの抗議の声は無視し、ヒマリ達はブラックドッグを捕らえていた部屋から、シトの眠っていた部屋に移動していた。ブラックドッグもミライにリードを引かれ、やや納得いかないながらも、大人しく従うことにしたのか、とぼとぼとついてくる。
「ここがスイミの使っている部屋だ。この部屋の中に残っている匂いは、俺達とスイミのものだけのはずだ」
ヒマリが部屋の中に入ってくるブラックドッグを見下ろしながら、そう説明する。ブラックドッグは頻りに鼻を動かし、部屋の匂いを嗅ぎ取ろうとしているようだ。
しかし、周りにいるヒマリ達が邪魔なのか、その表情は険しく見える。
「もっと濃いものはないか? ちょっと混ざり過ぎて時間がかかる」
「濃いものか……」
そう言いながら、ヒマリは部屋の中を見回し、自然と視線をベッドに向けていた。シトが眠っていたベッドなら、少なくとも、部屋の中に漂う匂いよりは濃い匂いだろう。
「そのベッドはスイミが眠っていたものだ。それ以外には使っていない。残っている匂いはスイミのもののはずだ」
ヒマリの説明を受けて、ブラックドッグはベッドに近づいていた。最初は下から遠慮がちに嗅いでいたが、それだけではうまく嗅ぎ取りづらかったのか、ベッドの上に飛び乗って、シーツに鼻をつけている。
「変態みたいだな」
「特殊な癖を持っている感じですね」
「お前ら、殺すぞ……!?」
冗談のつもりで口走ったヒマリとジッパの言葉を聞いて、ブラックドッグは即座に顔を上げると、鋭く二人を睨みつけていた。
冗談のつもりだとしても、気を悪くして取りつけた約束を反故にされそうな雰囲気だ。
ヒマリは空気を変えるように咳をして、小さく「すまん」と謝罪の言葉を口にする。
「どう?」
ヒマリやジッパと違い、真剣な眼差しを向けていたミライが問いかける。その声に目的を思い出した様子のブラックドッグは「もう少し」と答えてから、再びシーツを嗅ぎ始める。
今の言い方は本当に変態のようだった、とヒマリは内心思ってしまうが、それを口にしたら、本格的にブラックドッグは追跡をやめるだろうと思い、流石に飲み込んでいた。
それはジッパも同じだったのか、ヒマリと思わず目が合って、二人は何とも言えない表情を交わす。言葉自体は喉元まで出かかっていたことが互いに伝わっていた。
「よし、覚えた」
ブラックドッグが顔を上げ、ヒマリ達は緩んだ表情を引き締める。
「行けそうか?」
「さっきも言ったが、確実に追えるわけではない。それはいいな?」
「ああ、分かってる」
「ブラックドッグ、お願い」
ミライにそう頼まれ、ブラックドッグはベッドから飛び降りていた。すんすんと鼻を動かしながら、ブラックドッグは部屋の外へと移動を始める。
リードを持つミライがそれを追いかけるように歩き出し、ヒマリとジッパもそれに続いていく。
匂い自体は続いているのか、そこから完全に屋外に出てしまっても、ブラックドッグの鼻は動いたまま、足は止まる様子がなかった。
そこから、それなりの距離をヒマリ達は歩くことになった。シトはまっすぐにどこかに向かう様子がなく、いくつもの場所を転々としている様子だった。
「本当に大丈夫なんですか?」
あまりに右往左往しているからか、ジッパは不安げに聞く。
「匂いは途絶えていない。まだ追いかけている最中だ」
ブラックドッグは自信を持って、そう答えていたが、ジッパの不安は変わらない様子だった。
ヒマリも、ブラックドッグの鼻がおかしくなった可能性自体はあるかもしれないと思いつつも、ここまで移動している理由に思い当たる節はあった。
それがヒマリ達の存在だ。もしも、シトがあの怪人の男と接触しようとしているとして、相手としてはヒマリ達がシトに同行し、向かった先で罠にかかるという可能性を排除したいはずだ。
ヒマリ達が追ってきていない。それを確認してから、シトとの接触を図るはずで、そのために必要な行動がこれだと言われたら納得はいった。
とにかくシトを動かし、その後ろに誰もついていないことを確認する。ヒマリも覚えのある方法だった。
やがて、ずっと俯いたまま、鼻を動かしていたブラックドッグの動きが止まる。ヒマリ達も続いて止まり、ブラックドッグが顔を上げるまま、目の前に立つ建物を見上げる。
「この中に続いている」
そう言ったその場所は郊外にある雑居ビルだった。ヒマリとジッパは顔を見合わせるが、共に把握していない建物で、お互いに首を傾げることしかできない。
「この中にいるということか?」
「匂いの強さ的にも可能性は高いな」
「その匂いを追いかけながら、他の匂いは嗅げるか?」
「どういう意味だ?」
「誰にも見つからないように中を移動する。その手伝いをしてくれたら、その後のことはミライに任せる」
ヒマリがそう告げたことでブラックドッグは少し迷った様子を見せてから、小さく頷いていた。
ヒマリ達はブラックドッグを先頭に、ゆっくりと雑居ビルの中に足を踏み入れていく。
幸いにも、と言うべきか、雑居ビルの中には人気自体がなかった。ブラックドッグの鼻もあったが、それがなくても、誰かと逢うことはなく、ヒマリ達は上階に移動していく。
一階ずつ匂いを確認し、そこにはいないと分かれば、次の階に上がる。それを何度も繰り返し、あと少しで最上階というところまで来ていた。
そこでブラックドッグが立ち止まった。
それがなくても、ヒマリ達は既に気づいていた。
匂いは分からないが、音は分かる。そこにある扉の向こうから聞こえてくる音は明らかに常軌を逸し、明らかにシトのものと思われる声を含んでいた。
ここかとヒマリがそう思った時には、ブラックドッグのリードを持つミライが動き出していた。目の前で激しく扉が開かれ、ヒマリはゆっくりと息を吐き出す。
「シト!」
ミライがそう名前を呼ぶ声を聞きながら、ヒマリは部屋の中に足を踏み入れ、そこで待っていた見知った怪人の男と、見知らぬ女の二人と対面するのだった。