6-25.吊り天井と水浸し
リクジョーは乱雑にシトの腕を掴み、無造作に身体を持ち上げると、部屋の中を引き摺るように移動し始めた。シトの身体は不自然に曲がり、通常の可動域から外れた動きをした関節が、あちこちで悲鳴を上げる。
「いだっ!?」
無理矢理に動かされた腕の痛みに、シトも最初は声を上げたが、すぐにその声は小さく掻き消えていった。無理矢理に作られた体勢では、声を上げることすら儘ならなかったからだ。
リクジョーはシトの身体を部屋の端まで引き摺ると、壁に叩きつけるよう投げ出した。後ろ手に縛られ、足も拘束された状態だ。シトに抵抗できるはずもなく、シトの身体は投げ出されたまま、激しく壁にぶつかる。
衝撃で身体から空気が抜ける。脳が揺れたのか、視界全体が激しく震えて、シトは倒れ込んだまま動けなくなった。
「よし、じゃあ、質問していくか。まず、名前は?」
「……もう名乗ったでしょう……?」
「ああ、あれが本名か。まあ、嘘をつける感じでもなかったし、それはそうか」
リクジョーはゆっくりと屈み込み、地面に顔を押しつけたような体勢のまま倒れ込むシトを覗き込むと、口元に小さく笑みを浮かべた。何を目的として、どこまでシトから話を聞き出したいのか分からないが、その表情は単純に楽しんでいるようにしか見えない。
「じゃあ、次は年齢とか……」
リクジョーがそう言おうとして、その背中にカンザシの鋭い蹴りが入った。リクジョーは大きく前のめりになりながら、既のところで倒れそうになる身体を支え、自身の背中を蹴り飛ばしたカンザシを、睨みつけるように見つめている。
「おい、何してるんだ?」
「それはこっちの台詞だ。回りくどい質問に意味はないだろう。早く聞け」
悠長にしている時間はないと言いながら、カンザシは懐から警棒らしき道具を取り出していた。それを振り被る気かとシトが思いながら身構えていると、カンザシは取り出した警棒を掲げることなく、その先端を掴み、そこで何か細かく手を動かし始めている。
何をしているのかは分からないが、カンザシの手と警棒の間には、細く煌めく光が伸びているように見えた。
「チッ! 数少ないお楽しみタイムだと思ったんだがな……」
そう吐き捨て、リクジョーは再びシトの腕を引っ張り上げた。無理矢理にシトの身体を引き起こし、シトは持ち上げられた腕から走る激しい痛みに、思わず声を上げる。
「悲鳴はいい。質問に答えろ。紅丸日鞠はどこにいる?」
さっきまでの明らかに不要と思われる質問ではなく、今度の質問は直球だった。リクジョー達が、アサギが求める情報として、それ以外にないと思われる質問だ。
シトは苦痛で漏れそうになる声を噛み殺しながら、そう聞いてくるリクジョーの顔をきっと睨みつけ、小さく唇を動かした。
「……言うか……」
「ああ?」
リクジョーは険しい表情を見せたかと思えば、すぐにシトの身体を引き上げるように持ち上げ、シトの身体を無理矢理に起こすと、そのまま壁に背をつく形で、座り込むように投げ捨てた。
シトは背中を激しく壁にぶつけ、肺の中の空気を全て吐き出すような衝撃に襲われる。激しく咳き込みながら、身体をくの字に曲げようとするが、それすらも身体に残った痛みが許してくれなかった。
「もう一度、聞く。紅丸日鞠はどこだ?」
「……だから……言わないって……言ってるだろ……?」
当然と言わんばかりにシトは顔を上げ、リクジョーの顔をまっすぐに睨みつけた。それを見たリクジョーの表情は更に不機嫌なものに変わり、シトは再び乱暴に扱われるのかと少し身構えたが、そこでリクジョーはシトに近づこうとしなかった。
代わりにカンザシの方を振り返り、カンザシに指示するように片手を動かしながら、シトの方を示してくる。
「おい、カンザシ。やれ」
「命令するな。分かってる」
そう言いながら、カンザシはシトの近くまで歩み寄ると、その身体を無理矢理に引き起こし、その背後に手を伸ばした。何をしようとしているのかは分からなかったが、その時、シトの背後に伸ばした手の中に、さっきまで握っていた警棒があることだけは分かった。
「何をするつもり……!?」
シトはそう口に出しながら、抵抗するように身体を動かそうとしたが、その身体もすぐにカンザシは押さえつけ、シトの両腕は即座に固定されていた。中心に軸が差し込まれたように動くことがなくなり、そのことに疑問を懐いた直後、その腕がゆっくりと持ち上げられていく。
カンザシが持ち上げている――わけではなかった。もちろん、離れたところに立っているリクジョーでもない。
シトの腕は何かに引かれ、明らかに無理な体勢を作ったまま、ゆっくりと宙吊りにされていた。シトの体重が不自然に曲がった関節にかかる。辛うじて足がついているので、折れるほどではないが、それでもゆっくりとかかる重さは関節を痛め、ゆっくりと限界に近づけている。
「ああぁあああ……」
口を閉じる余裕もなく、開きっ放しになった口から零すように声が落ちる。痛みはシトの集中力を掻き乱し、周囲を意識する余裕もなかった。
視線の先を地面から伸びる光があることも、その光が自身の背後、自身の両腕と繋がっていることも、この時のシトは認識できていなかった。
頭の中はただ痛みだけが支配していた。それ以外の思考はゆっくりと奪われていく。
「いい体勢で、いい表情になったな。これで話しやすくなったんじゃないか? もう一度、聞くぞ。紅丸日鞠はどこにいるんだ?」
リクジョーはそう聞いてくるが、シトは一切、開いた口から情報を垂れ流そうとはしなかった。ただ意味のない苦悶の声を漏らすばかりで、質問に答える様子は見せようとすらしない。
「おいおい、無視か? さっさと話したら、その苦しみから解放してやるぞ? どうだ?」
その声が聞こえても、シトは話そうとは思わなかった。
相手は怪人然とした活動を主とする、ヴァイスベーゼに所属する怪人だ。その性格や思想を完全に把握していなくとも、今の言葉の意味くらいはすぐに分かった。
苦しみから解放してやるとはつまり、話したら、すぐに殺してやると言っているようなものだ。それが分かっていて、素直に聞いてやるはずもない。
「無視か……。そうか、無視か……」
リクジョーは何度も呟き、それを見たカンザシが僅かに眉を顰めた。
「おい、リクジョー。変なことはするなよ」
「ああ、分かってる。ちゃんとこいつに話をさせるためのことしかしねぇーよ」
カンザシの忠告に答えながら、リクジョーはシトの顔を両手で挟み込むように持ち上げ、開きっ放しの口の中に親指を突っ込んできた。口を更に開くように顔の両側から引っ張られ、シトが嫌悪感に口を閉じようとした瞬間、リクジョーの手に一気に力が入る。
「ちゃんと聞けよ!」
そうシトの目の前で叫んだ直後、シトの口を押さえ込む両手の親指から一気に水が溢れ出し、シトの口の中に流れ込んだ。喉の奥や鼻に溢れ返るほどの水が送り込まれ、何も身構えていなかったシトは溺れそうになる。
「ごほっ!? がはっ!? ばがっ!?」
「おい、リクジョー!?」
カンザシが思わず声を上げたところで、リクジョーはシトの口の中に突っ込んでいた指を放し、シトは流れ込む水からようやく解放される。顔を勢い良く伏せて、口や鼻から水を一気に垂らしながら、シトは激しく咳き込んだ。もう少しで気道に流れ込んだ水が、シトの肺から空気を奪うところだった。
「そんなことしたら、死ぬだろうが!」
「うるせぇーな。ちゃんと加減くらいするって。こいつが無視するから、無視できないようにしてやっただけだろうが」
当たり前という様子で面倒そうに答えながら、リクジョーはシトの顔を再び覗き込んでくる。その目はシトの苦しむ様子を楽しむようであり、罰が当たって当然と語るようだった。
「ほら、これで話す気になったか?」
そう問われても、シトの態度は変わらなかった。死にそうなほどの苦しさを覚えたが、残念ながら、シトは既に何も話さないことを決めてしまっていた。
それが唯一、失敗した自分が取れる抵抗だったから。
僅かでも、ヒマリ達に残せる償いだったから。
だから、シトはリクジョーの言葉にすら反応しないようにしていた。その反応から、僅かでも情報を取られる可能性を危惧し、ただひたすらに無視することに決めていた。
だがしかし、それがリクジョーの神経を逆撫でした様子だった。
「ああ、そうか。そういう態度を取るのか」
「おい、待て、リクジョー」
「なら、しょうがないな」
「おい!」
カンザシの制止する声も無視し、リクジョーは再びシトの口の中に指を突っ込むと、腹の中や肺の中、鼻の奥まで流し込むように、一気に水を噴き出した。
シトは急に流れ込んできた水に襲われ、一気に冷静さを失う。押し出された酸素を求めるように息を吸おうとし、流れ込んできた水を激しく飲み込み、水の中で何度も咳き込んだ。
「おい、死ぬぞ!?」
カンザシがリクジョーを引き剥がそうと手を伸ばすが、それでも、リクジョーはシトから離れようとしなかった。ここまでのシトの頑なな態度が余程、癪に障ったらしい。
シトは流れ込む水にゆっくりと意識を奪われ、溺れる視界の奥に、まだ若き日の自身の姿を見ていた。
また少し違うが、あの時も――そんな風に思い出したくもない記憶が、頭の中に浮かび上がろうとする。
その時のことだった。シトの意識が完全に吹き飛ぶ前、シトの頭の中に暗い記憶が蘇る直前、リクジョーとカンザシの背後で激しく音を立てて、閉じていた扉が開かれた。
「シト!」
不意に飛び込んだ少女の声に引かれ、リクジョーの動きがようやく止まる。シトの口に流れ込んでいた水が止まり、シトは激しく噎せ返るように水を吐き出していく。
「何?」
カンザシが振り返り、入口の方を睨みつける。リクジョーもシトの口に指を突っ込んだまま、頭だけで入口の方を確認している。
シトはその前で、何とか取り戻した酸素を必死に吸い込みながら、開かれた扉にぼんやりとした目を向けていた。
「シト!」
そこで再び発せられた声を聞いて、シトの唇が微かに動く。
「ミライちゃん……?」
その呟きと共に向けた視線の先には、ミライとヒマリとジッパと、シトの知らない一匹の黒い犬が立っていた。