6-22.ボディーチェック
指定された雑居ビルの前には、二人の人物が立っていた。
一人はシトが接触を図ったスポーツジャージ姿の男であり、もう一人はシトの見知らぬ女だった。
寝癖なのか、それとも、天然パーマなのか、荒れ狂った髪の毛を大量のピンで留め、背中に垂れるほど伸びた後ろ髪はゴムでぐるぐるに巻きつけている。遠巻きに見れば、ポニーテールのような髪型だが、近くで見たら、頭の後ろに黒いハムを下げているのかと思う様相だ。
服装はTシャツにジーンズと比較的ラフな格好だった。Tシャツは白地に絵がプリントされたもので、熊が今、川で跳ねたものを取ったのか、鮭を加えたまま、手前に飛び出してきたところだった。気になるのは、その絵のポップさに反して、何故か、熊の両目が糸で縫われていることだ。ぬいぐるみのような印象を受けなくもないが、平たく言って怖い。
気軽に話しかけてきたスポーツジャージ姿の男に対して、女の方は警戒した目をシトに向けてきていた。それは当然の反応だろう。シトはその視線を執拗に気にすることなく、男に目を向ける。
「これは合格ということ?」
「まあ、そうだな。正直、本当に一人で来るとは思っていなかった」
口では一人で向かうと言いながら、ヒマリ達を同行させると思っていたのだろう。実際、シトでも立場が違えば、同じように考えていたとは思う。
「目的は、上の人間に合わせること、っていう考えで大丈夫か?」
男が大袈裟に指を上空に向け、シトの表情を窺ってきた。シトがその視線に頷くと、男は納得したように手を叩き、隣に立つ女に目を向けている。
その視線に気づいた女が、シトのすぐ前まで歩み寄り、両手を突き出してきた。
「はい、荷物出して」
「荷物?」
「手荷物。持ってる物、全部。流石に所持品チェックくらいするに決まってるでしょう?」
当然と言わんばかりに女は言って、シトはやや戸惑った。どこまで渡せばいいのかと思いながらも、シトは持ち出したスマホと財布を女の手の上に乗せる。
「他には?」
「この服くらいだけど」
「まあ、服は流石に」
「脱がさないのか?」
「黙れ」
女の背後で男が冗談っぽく呟き、女は一瞥することなく、そう告げた。女の反応に、男は小さな笑みを口元に浮かべ、その後ろまで近寄ると、そこで片手を伸ばす。
「ほら、荷物は俺が調べる。お前は本体。弄っていけ」
「その言い方、次もしたら、その口、縫うから」
「怖いこと言うなよ。俺が鼻炎持ちだったら死ぬぞ?」
女は男をきっと睨みつけながらも、シトから受け取ったスマホと財布を男に手渡していた。男は女の視線に楽しそうに笑い、受け取った財布の中を確認し始めている。
その様子にシトが落ちつかない気持ちを抱えていると、シトの目の前で不意に女が手を上げてきた。
「はい、じゃあ、次。両手を上げて」
「えっ?」
「身体検査。本当に何もないか調べるから」
そう言われ、シトは一瞬、表情を強張らせるが、すぐに息を呑み、ゆっくりと両手を上げていた。女の手がシトのズボンに伸び、そこにつけられたポケットの中を調べてくる。
「そう言えば、お前、名前は何だ?」
「急に何?」
「いや、これから、お前を連れていくのに、お前の名前も知らないんじゃ紹介のしようもないだろう?」
男は財布の中身を調べ、そこにシトの身元を確認できるものがないことを確認したようだった。次にスマホを調べながら、シトにそう聞いてくる。
「いいけど、私は貴方達の名前も知らないんだけど?」
「確かに。それなら、いっそのこと、自己紹介でもし合うか?」
「ちょっと?」
「名前くらいは何も問題ないだろう?」
女がきっと睨んだことに男は動じることなくそう答えると、すぐにスマホから顔を上げ、軽くシトの方に頭を下げてきた。
「俺は六杖貂。よろしく」
ニヤニヤとした非常に楽しそうな笑みを口元に浮かべ、シトの様子を探ってくるリクジョーにシトは戸惑いを覚える。どういう意図があるのかと考えてみるが、目の前の状況からは何も読み取れない。
「ほら、お前も」
「……簪夜邪」
短く端的にカンザシはそう告げた。二人の名前を聞いたことで、シトは名乗る他なくなり、やや戸惑ったまま、ゆっくりと口を開く。
「私は翠見枝途」
「スイミ、ね。オッケー。他にもいろいろと聞きたいことはあるけど、まあ、その辺のことは中に入ってからでいいでしょう」
そう言いながら、リクジョーは持っていたスマホと財布をシトの前まで差し出してくる。下半身から上半身に移り、シトの腕付近を調べていたカンザシが身体から離れ、シトは身体検査が終わったことを理解した。
ほっと、密かに胸の内で安堵しながら、シトは手渡されたスマホと財布を受け取る。財布の中身に関して、シトは不安を抱えていたが、流石に今の状態で調べるわけにもいかなかった。
「何もなかったな?」
「ええ、大丈夫だった」
カンザシがそう答えてくれたことで、シトの身の潔白は証明されたらしく、リクジョーはようやく準備が整ったという様子で、シトと向き合ってきた。
「じゃあ、中に案内する。ちゃんとついてこいよ」
そう言って、リクジョーは雑居ビルの中に足を踏み入れていた。シトがその後ろ姿をじっと見つめていると、背後に立ったカンザシがシトの背中をそっと押してくる。
「行って」
カンザシはシトの後ろからついてくるということらしい。それを理解したシトが頷き、リクジョーの後を追いかけるように、雑居ビルの中に足を踏み入れていく。
雑居ビルは特別変わった建物というわけではなかった。五階建てのようで、各フロアに本来なら、テナントが入るはずだったのだろう。
今はどのフロアも何もなく、各階には扉があるくらいで、物音一つ聞こえてこない。
「他に人は?」
「ここにはいない」
リクジョーはそれだけ答え、どこにいるのかというシトの質問は無視した。それ以上のことは言えないという意味だろう。シトは理解し、そこで口を噤む。
やがて、辿りついたのは最上階だった。そこにある扉の前でリクジョーは立ち止まり、振り返ってくる。
「この奥だ」
そう言って、リクジョーがゆっくりと扉を開け、その中に入っていった。シトは少し戸惑いと緊張を覚え、思わず足を止めるが、すぐに背後からカンザシに押され、ゆっくりとその向こうに足を踏み入れていく。
そこは非常に簡素な部屋だった。シンプルなテーブルといくつかのパイプ椅子。部屋の奥には、ブラインドで覆われた窓が二つ見えた。
その片方の前に、一人の人物が立っていた。その後ろ姿を見た段階で、シトの目はゆっくりと見開き、少し呼吸が荒くなりかけていた。
「連れてきましたよ。スイミさんです」
リクジョーが丁寧にそう告げると、そこに立っていた人物が振り返り、シトを見つめて、柔らかに微笑みかけてくる。スーツを身にまとい、優しそうな雰囲気を漂わせたその姿は、知らなければ学校で教師をしていると思ってしまうだろう。
だが、違う。そう考えるシトの前で、男は丁寧に頭を下げてくる。
「これはどうも初めまして、私は浅葱切科と申します」
そう告げながら、アサギは握手を求めるように、シトの前に片手を差し出していた。