6-18.組織の犬
部屋の扉を開けると、ブラックドッグはケージの中で丸まっていた。不満そうな顔を腹の前に押し込み、開いた扉の向こうに立っていたヒマリを睨んでくる。ケージから脱出しようと努めた跡も見て取れない。大人しく、そこで眠っていたようだ。
身体に穴が開きそうなほどの鋭い視線を感じながら、ヒマリは部屋の中に足を踏み入れる。ブラックドッグは尚も頭を上げる様子はなく、丸まったまま睨んでくるだけだ。
ケージの前に移動すると、ヒマリはそこでゆっくりと屈んだ。床にべったりと尻をつけて、ブラックドッグと向き合う形で座り込む。その時になって、ようやくブラックドッグは重たい頭を上げる。
「何をしに来たんだ? 犬の玩具ならいらないぞ?」
「猫じゃらしは?」
「そこまで行ったら、意味が分からない」
最早、犬ではなく猫になっているではないかと、怒りを通り越した悪態をつくブラックドッグを見つめて、ヒマリは少し口を閉ざす。しようと思っていた話に入るに当たって、ブラックドッグが冷静に聞いてくれる瞬間を、ヒマリは待たなければいけない。
ブラックドッグはヒマリに呆れた目を向けながら、黙りこくっていた。ヒマリの話を促すと言うよりも、自分から話す理由がないと言う方が正確だろう。ブラックドッグがヒマリと楽しく世間話をしたいと思っているはずもない。
その静けさが合図だと思い、ヒマリはゆっくりと口を開いた。
最初の一言は簡潔に、こうだった。
「俺は大岐土組の組員だった」
ヒマリが唐突に話し始めた内容を聞いて、ブラックドッグは僅かに眉を顰めた。ヒマリが何を話し始めたのか、理由を問い質そうとでも思ったのか、ブラックドッグが口を開くような素振りを見せ、ヒマリはその前に次の言葉を継ぐ。
「ただの組員じゃない。大岐土組で幹部をしていた。それなりの立場があり、俺の居場所はそこにあった。そこにしかなかった」
ヒマリの口数が増え始めたことで、ブラックドッグは聞き役に回ることにしてくれたのか、開きかけた口を完全に閉じていた。それを確認してから、ヒマリは話を続けていく。
「ある日、飲み物を買おうと自販機の前にいた。そこで背中に痛みを覚え、振り返ったら、俺は刺されていた。小田和真という酒鬼組の組員の犯行だった。俺は重傷を負って、死にかけた。だが、死ななかった」
理由は語る必要がないと、ブラックドッグの姿が物語っていた。ヒマリが怪人であることを認識しているなら、それ以上の説明は野暮なだけだ。回りくどい時間は必要ない。
「次に俺が外に出た時、俺の居場所だった大岐土組はなくなっていた。酒鬼組の襲撃に遭い、組長含めた組員の大半が殺されていたからだ」
ヒマリの説明に血腥さを感じたのか、ブラックドッグは僅かに眉を顰めた。それを単純な嫌悪感とも、ヒマリに対する共感とも、ヒマリは思うことなく、淡々と話を続けていく。
「俺の居場所を奪った酒鬼組が許せない。俺は復讐を誓い、酒鬼組を追うことにした。そうしたら、酒鬼組が裏で、ヴァイスベーゼという怪人組織と繋がっていることが判明した。それだけじゃない。ヴァイスベーゼは大岐土組襲撃にも関与していたらしい。ヤクザの抗争に怪人が介入したってことだ。そりゃ酒鬼組が生き残り、大岐土組の組員は殺されるに決まっている」
至って冷静に、落ちついた口調での説明を心掛けていたが、話を進めている内に、自然とヒマリの語気は強まっていた。腹の底で煮え滾る感情が、何かの手違いが溢れ出しそうになるのを、ヒマリは何とか抑え込む。
「俺は酒鬼組と、それに協力するヴァイスベーゼを潰したい。そのための情報が欲しい。だから、お前をここに連れてきた」
ヒマリがここに至った理由を説明し、ブラックドッグはそれまでの沈黙を打ち破るように息を吐いた。今度は反対にヒマリが口を閉ざし、ブラックドッグの言葉を待つ。
「それがお前の目的か?」
「俺達の目的だ」
「パラドックスが協力している理由は目標が一緒だからか」
「そういうことだ」
簡単にいくつかのことを確認すると、ブラックドッグは再び黙ってしまう。今度はヒマリの言葉を聞くためではなく、考え込むためのようで、ブラックドッグの視線はヒマリから部屋の片隅に移る。
「怪人組織であるヴァイスベーゼの壊滅はそちらにとっても都合がいいんじゃないのか? 情報を渡して、手駒が増えると考えたら、悪くはない交渉だろう?」
「……いや」
ヒマリはブラックドッグから情報を聞き出すためにそう持ちかけたが、ブラックドッグは即座にかぶりを振る。
「怪人であるお前達が、こちらの想定通りに動くと決まったわけではない。話の真偽も含めて、俺には判断し切れない。ヴァイスベーゼと合流しようと思っているかもしれないし、他の怪人組織が膨らむ可能性もある」
「情報は渡せない、と?」
「お前達が仮に俺の条件を飲むなら、考えないこともない」
「条件?」
ブラックドッグの言葉に含まれる怪しさにヒマリが眉を顰めると、ブラックドッグはゆっくり首肯し、口を開いた。
「お前達が超人になることだ。超人になって、合法的にヴァイスベーゼを追うなら、情報を渡してもいい。というか、俺が渡すまでもなく、手に入るだろう?」
「それはない」
ブラックドッグの提示した条件を聞いたヒマリは、ほとんど反射に近い形で否定していた。本能的に受け入れられないとか、そういう話ではなく、それは既にヒマリが考え、可能性としてあり得ないと切り捨てた考えだったからだ。
「何故だ?」
「超人は組織だろう? 俺も組織に所属していたことがあるから、組織がどういうものかは分かっている。完全に酒鬼組とヴァイスベーゼを追えるならいいが、組織の中での役目が発生する以上、それは難しくなる。場合によっては、目的から遠ざかる可能性すらあるはずだ」
超人としての仕事を放棄し、酒鬼組とヴァイスベーゼを追うなら、それは今と何も変わらない。超人になる意味合いが全くない。
「そうか。なら、話せないな」
そう言いながら、ブラックドッグは再び丸くなり、眠りに入ろうとする。その姿を見つめて、ヒマリはぽつりと、頭の中に浮かんだことを呟く。
「お前はそれでいいのか?」
「どういう意味だ?」
「超人としての立場を守り、檻の中で丸まって過ごすだけの犬となる。それでお前は満足なのか?」
ヒマリの問いかけに、目を瞑りかけていたブラックドッグは僅かに瞼を持ち上げてから、ゆっくりと何かを噛み締めるように瞼を閉じ、再び丸くなっていた。
閉口。会話の終了。交渉決裂。それを悟ったヒマリがゆっくりと立ち上がり、頭を掻きながら部屋を出ていく。
これではダメだったかと思いながら、次は何を交渉の材料にしようかと頭を悩ませる。
そこにジッパが駆け込んできた。慌てた様子で息を荒げ、ヒマリに縋るように飛びかかってくる。
「ヒマリさん!? 大変です!?」
「何だ? 何があった?」
飛びかかってきたジッパを受け止め、押し返しながら、ヒマリがそう聞くと、ジッパは息を整え、シトが眠っている部屋の扉を指差した。
「スイミさんが部屋からいなくなっています!」
「……何だと?」
噛み合わなかった歯車が、頭の中で転がるような音がした。