6-15.空中分怪
何かの夢を見たという感覚だけは残っていたが、どのような夢を見たのかは思い出せなかった。目を覚ました時には、感情だけが胸の内側に残り、抱えたざわつきに落ちつかなさを覚えた。
記憶が混濁している。何をしていたか定かではない。眠ったという記憶すら残っておらず、戸惑う視線が宙を移動していた。
「目覚めたか?」
思いの外、近くから声が聞こえ、シトは戸惑い以上の驚きを覚えた。声を上げそうになるが、寸前のところで押さえ、聞こえた声の主に目を向ける。
そこにはヒマリが座っていた。シトが目覚めるまで待っていたのか、手に持っていたスマホを傍のテーブルに置くところだった。
ヒマリのスマホが置かれたテーブルには見覚えがあった。そう思ってから、部屋の中全体に見覚えがあることに気づき、ゆっくりと視線を移す。
自分の部屋だ。その時になって、そう思ってから、ようやくシトの頭は回り始める。ゆっくりと自分が眠る前に何が起きたのか、ブラインドを開くように記憶が鮮明になっていく。
「状況は理解できたか? 説明が必要か?」
シトの様子から、シトが戸惑いを覚えていると察したのか、ヒマリはそう聞いてきた。が、既にシトの意識は現実にピントを合わせ、少しずつ足りなかった理解を補充している最中だった。わざわざヒマリに説明されずとも、今に至る経緯は何となく分かる。
シトがかぶりを振ると、ヒマリは小さく「そうか」と呟いてから、シトの顔をじっと見つめてくる。真剣な眼差しを冗談の一つでも言って、揶揄いたい気分に駆られるが、ゆっくりと思い出された場景が、この次のヒマリの言動を想定させ、適当な言葉は何一つとして言えなかった。
シトは何も言うことなく、ただ自身を見つめるヒマリを見つめ返す。こちらから話すつもりはないと、そう伝えるつもりの視線で、ヒマリなら、そう伝わるだろうとシトは分かっていた。
「何があった?」
ヒマリは端的にそう呟いた。シトを見つめる視線は一瞬もぶれる様子がない。追及の視線ではなく、シトが何を話すのか見定める視線だろう。嘘をついたら、きっとヒマリは即座に察するはずだ。
「何が……?」
適当に誤魔化すつもりが、僅かに首を傾げながら放った言葉は、思っていた以上に震えていた。緊張なのか動揺なのか、何が原因となって生じた震えか分からないが、それは放った言葉に含まれる意味を霞ませてしまう。
ヒマリはそのことに何も言わなかった。シトの内心まで透けて見えたはずだが、指摘することはなく、シトを追い込むようにただ見つめていた。
あるいは、シトにチャンスを与えてくれていたのかもしれない。自分から話すなら今だと、そう無言の内に言ってくれていたのかもしれない。
だが、シトは話さなかった。話せなかった。何も言えなかった。何も言わないことに決めてしまった。
黙りこくったシトを前にして、ヒマリは一切、視線を動かすことがないまま、ゆっくりと重たい口を開く。
「どうして、あんな行動を取った? 無茶にも程がある行動だ。自分勝手でもあった。何かあったんだろう?」
どこまでも見つめてくる視線の厳しさに、シトは追及されている気分になっていたが、今のヒマリの声色はそういう厳しさを一切、持っていなかった。
やはり、さっきまでの沈黙はシトから話すのを待っていてくれたようだ。その優しさはありがたかったが、ヒマリがどれだけ優しく待ってくれていても、シトには話せなかった。
「ごめん……」
適当に誤魔化しても意味がないと、そう分かっているからこそ、シトははっきりとそう告げた。何も話せないと伝える代わりに、シトは心からの謝罪を口にする。
その言葉を聞いたヒマリがゆっくりと目を瞑る。そのことに、ようやく視線が外れたと安堵する一方、遮るように現れた瞼がシトを拒絶するようで、シトは自分が思っていた以上の寂しさを、そこに感じてしまっていた。
◇ ◆ ◇ ◆
ようやく目を覚ましたシトは目に見えて戸惑っていた。カプセルに入ったという事実どころか、そこに至るまでの経緯すら思い出せないのかもしれない。
シトが僅かでも落ちつきを見せる瞬間を待ちながら、ヒマリはシトに経緯を説明しようかと思った。
だが、その必要はなかったようだ。シトはちゃんと全てを思い出せたらしい。そうと分かれば、ヒマリの行動は一つに絞られる。
保留にしていた疑問を、ここで解消しなければならない。シトに何があったのか、何を思って、あれだけの行動に出たのか、ヒマリはシトが隠していた何かを知るために、表情と言葉から突き止めようとする。
しかし、シトは話そうとしなかった。最初は誤魔化し、それが失敗したと自分でも分かると、今度は正面からヒマリの質問を押し返してきた。
何も話せない。シトは門扉を固く閉じ、はっきりとそう告げてきた。それを開くだけの言葉を考えようとはするが、今のヒマリには思いつかなかった。
はっきりと話せないと言うからには、そこにはそれだけの理由があるのだろう。それを無理矢理に話させても、それが真実であるかどうかを判断し切る材料がない。
自分から話そうと思える環境を作らなければいけないが、今はそれがどうにも難しい。そう分かっているから、ヒマリは一度、保留にすることを決める。
ゆっくりと目を瞑り、ここまでが今は限界かと納得することにして、ヒマリは最低限の伝えようと思っていた言葉を口にする。
「話すつもりがないなら、それを無理に聞くことはしない。だが、不安材料を抱えて、行動はできない。何も話せないと言うなら、お前とは一緒に行動できない。邪魔だと言うなら、ここからも出ていこう。そう俺達は決めた」
事前にミライやジッパと話し合い、シトがそういう態度を取るなら、どうするかと決めていたことをシトに伝えると、シトは僅かに動揺を見せた。
だが、納得はできてしまったのだろう。ヒマリの言葉を受け入れられないと拒絶することも、隠した何かを話そうとすることもないまま、シトは僅かに俯くばかりだった。
その様子をしっかりと確認してから、ヒマリは傍らに置いたスマホを手に取り、ゆっくりと立ち上がった。シトの気持ちに変化が起きなければ、完全に離れることも考えるべきだ。何を隠しているのか知らないが、どこかで背中から襲われる結果となっては笑い話にもならない。
不安材料は断つしかない。不安定なヒマリ達の立場を考えたら、それはどうしても必要な決断だった。
シトの部屋から出ると、少し離れた扉の前にいたジッパが、部屋から出てきたヒマリに気づいて声をかけてくる。
「ヒマリさん。スイミさんは?」
その問いかけにヒマリはかぶりを振る。
「目は覚ましたが、何も話せないらしい」
ヒマリがそう答えると、ジッパは残念そうに俯く。場合によっては迫る決断も、ジッパは覚悟しているはずだ。
「そっちの様子はどうだ?」
ヒマリはシトのいる部屋から、ジッパのいる扉の前まで、部屋を横切るように歩いていく。途中にあるテーブルの上で、二つ並んだ空のカプセルの傍に、ヒマリは持っていたスマホを置きながら、ジッパの前まで近づいていく。
「今のところは何も」
「そうか。そっちもか」
そう呟きながら、ヒマリはジッパの立っていた扉を開ける。部屋の中にいたミライが、開く扉に振り返り、ヒマリとジッパを見つめてくる。
その奥から、じっと睨みつけるような鋭い視線を感じながら、ヒマリは部屋の中心まで歩いていく。そこに置かれた巨大なケージを前にして、ヒマリはゆっくりと座り込んだ。
「鼻は濡れているか?」
「元気かみたいなテンションで聞くな」
ブラックドッグは怒鳴るように吠えた。