6-11.ワンワンパニック
スポーツジャージ姿の男がブラックドッグと睨み合い、どちらかが動き出そうとする直前のことだった。
ヒマリとジッパのすぐ近くで、男の撃ち出す水やそれに射抜かれた看板などから、ヒマリ達を守っていたミライが動き出し、両手を光り輝くものから異形のそれへと変えていた。
そのことにヒマリが気づいた時には、ミライはブラックドッグのいる方に飛び出し、ヒマリは慌てて制止しようとする。
「待て、ミライ!」
そう叫び、ミライの肩を掴もうとするが、ミライの動きは素早く、ヒマリの手は宙を掴み、ミライはブラックドッグの元に飛びかかっていた。接近に気づいたブラックドッグの視線がミライに向いて、身構えるように姿勢を低くする。
ミライはそこに叩きつけるように鬼の手を振り下ろした。ブラックドッグは触れる前に躱し、ミライの一撃を受けた地面が盛大に砕ける。
「おお! 凄い威力だな!」
その様子を見た男が驚くように声を上げてから、視線をヒマリ達の方に移してくる。見つめられたことにジッパは怯え、ヒマリはやはりと苦々しい顔をした。
ミライという盾がいなくなれば、必然的にヒマリ達の方に攻撃が向く。そのことは分かり切っていたから、ヒマリとしてはミライを止めたかったのだが、残念ながら間に合わなかった。
「ミライ、戻ってこい!」
そう叫びながら、ヒマリはカプセルを取り出す。ヒマリが辛うじて取れる手段はこれくらいだと思いながら、二つのカプセルを順番に投擲する。
一つはヒマリとジッパの正面、もう一つは男の立っている場所の方に投げ、ヒマリはジッパを押し倒しながら身を伏せた。
次の瞬間、投げたカプセルが中に入っていた看板を解放した。ヒマリ達の正面に看板が壁のように飛び出し、それがヒマリ達の姿を隠す。
それと同時に、男は手を伸ばして、そこからヒマリ達の方に水を飛ばしていた。弾丸のように飛び出した水が看板を貫通し、ヒマリ達の頭上を通過していく。
もしも、この看板がなければ、今頃、ヒマリ達の動きは丸見えで、男は冷静に狙いを定めて撃ち抜いていただろう。
危なかったとヒマリが安堵した頃、男の方に投げたカプセルが割れて、中に入っていた看板の破片を解放していた。男の頭上に看板の破片が現れ、男は視線を上げる。
「はあ?」
落下する破片に気づいた男は片腕を上げ、そこから水を吹き出し、破片を押し上げていた。破片は男を押し潰す手前で止まり、水の勢いにゆっくりと傾くと、男の前に滑るように落ちていく。
「おいおい、殺す気かよ」
自分の行為は棚に上げ、ヒマリの行動に驚くように呟く頃、ミライは更に鬼の手でブラックドッグを追いかけるように攻撃を繰り返していた。一度、二度と手を振り下ろし、ブラックドッグはそれから距離を取るように回避している。
ミライの手はブラックドッグの跡を殴るように、地面を砕いてはいくつもの穴を作っていた。
ブラックドッグはミライとの間に距離を作ってから、その奥で暴れ出した男の方に目を向けている。その矛先にいるヒマリとジッパを一瞥してから、じっとミライの表情を見つめてくる。
「パラドックス。どうして、そちら側に行った? どうして、怪人になった?」
「話している時間はない、から」
それだけ告げて、ミライは鬼の手を一気に振り下ろす。ブラックドッグはその手が迫る前に避け、ミライの手はやはり宙を切る。何もない地面をただ砕いただけに終わる。
「お前は、何を考えているんだ?」
ブラックドッグがそう聞いてきた。その問いに少し迷いながら、ミライは同じ言葉を繰り返す。
「話している時間はない、から!」
ミライが再び踏み込んで、ブラックドッグに鬼の手を振るおうとする。
そこで声が割って入った。
「よし、応援を要請したぞ!」
それはいつの間にか、ブラックドッグの背後に戻ってきたパワーの声だった。
ミライはブラックドッグの眼前に踏み込もうとし、その手前で、そこに立つパワーに気づいて躊躇いを覚える。ブラックドッグも、流石にパワーがこのタイミングで戻ってくるとは思っていなかったのか、パワーの方に驚きの目を向けている。
「おい、ここで……」
ブラックドッグが何かを言いかけた声を遮り、パワーが怪訝げに眉を顰めてから、パッと表情に笑みを浮かべた。
「パラドックスじゃないか!」
今更、そう気づいたように、パワーは叫びながら手を伸ばしてきた。振り抜こうとしたミライの腕を正確に掴むような軌道だ。ミライは咄嗟に手を引っ込めて、二人から距離を取るように離れる。
「こんなところでどうした! 塾の時間か?」
「馬鹿か、今は学校の時間だ。というか、聞いただろう? パラドックスがどうなったか、その報告を」
「ん?」
パワーは何も思い出せないという風に首を傾げる。ブラックドッグはその様子に呆れながらも、パワーが割って入ってきたことで、二対一の状況を作れてしまっていた。
ブラックドッグはすばしっこく、パワーの動きは予測できない。ミライが一人で立ち向かおうとしても、その途中で捕まる可能性はかなり高い。
そう分かっているからこそ、ミライは二人から視線を外すことなく、ゆっくりと後退っていた。
「どうした、パラドックス?」
「あいつは怪人に堕ちた。今はパラドックスじゃない。怪人、橙上魅雷だ」
「何だと!? 本当なのか!?」
その問いに答えることなく、ミライはパワーとブラックドッグに背を向け、ヒマリ達の方に走り出していた。ちょうど、そのタイミングで男の放った水の前に立ち塞がり、両手を異形のものから、光り輝く仏の手に変える。
ミライの手が飛んできた水を弾いて防ぐ。水は拡散するように反射して、落ちていた看板の破片に跳ね返っている。
「おい、遅い!」
思わずヒマリがそう叫び、ミライは小さく「ごめん」と口にしていた。その姿にヒマリは頭を掻きながら、ブラックドッグの方に目を向ける。
「あれくらいでいいのか?」
「多分、気づいているから、あれ以上は乗ってくれない」
「俺とジッパはどうするつもりだったんだ?」
「何も知らないブラックドッグよりも、二人の方が大丈夫だと思った」
ミライの言葉にヒマリは苦々しい顔を浮かべてから、深く肺の中を換気するように溜め息をつく。信頼されている証拠と思うべきか、ぞんざいに扱われていると嘆くべきか、今は判断が難しいところだと頭を掻いた。
「それで、どうする?」
「超人次第と言いたいところだが、そろそろ限界だろう?」
ヒマリはミライの手足に目を向け、その様子を細かく観察していた。溜まり切った疲労が、少しずつ動きに影響を与えていることは明白だった。
だからこそ、さっきのあの状況で、何かの力を使った様子の見えないパワーから、ミライは逃げる以外の選択肢が選べなかったのだろう。
「大丈夫」
「いや、今はまだいいかもしれないが、応援を呼んできた様子だ。しばらくしたら、超人が増える。そうなったら、流石に逃げられる可能性は少なくなる」
この辺りが引き際だ。そう判断したヒマリが男の方に目を向ける。
男もパワーが戻ってきたことくらいは分かっているはずだ。超人の応援が来ることは、さっきの会話から分かっている。それが近くなれば、流石に状況は厳しくなるだろう。
その前に逃げることを考えるはずだが、どのように逃げる準備をするのか、とヒマリが思っていると、そこで男は不意に視線をヒマリ達や超人から逸らし、自身の腹に向けていた。お腹の調子でも探るように、軽く腹を撫でている。
(何をしている?)
ヒマリが疑問に思った直後、一瞬、その場所を支配していた沈黙を切り裂くように、叫び声が響き渡る。
「さあ、それでは怪人達よ! 神妙にお縄につけ!」
パワーが命令するように叫び、ブラックドッグは威嚇の姿勢を整えている。その視線がヒマリ達ではなく、男の方を向いていることに気づき、ヒマリはカプセルを手に取りながら、ミライの近くに歩み寄った。