5-30.純粋な動機
マンションを飛び出してからも、アズマヤ達の足は浮かぶほどに回転し続けて、気づいた時には握り締めたヒノエの手が温みを帯びていた。ようやく振り返ったヒシナが一息つくように足を止めて、アズマヤとヒノエも従うように立ち止まる。
誰も追ってこないことを確認し、深く肩で息をしながら、アズマヤは安堵から湧き出た溜め息を漏らす。一時はどうなることかと思ったが、ヒシナの協力もあって、無事にヒノエを助け出せた。
そう改めて思えば、それまで一切、気にならなかった背中の傷に痛みを覚え始めていた。僅かに顔を引き攣らせ、背中を庇うように手を当てると、そのことに気づいたらしく、ヒシナがやや心配した目を向けてくる。
「大丈夫かい?」
「は、い……大丈夫です……」
痛みは強いが、傷が開いたわけではない。安静にしていたら、すぐに治まると思いながら顔を上げたところで、アズマヤは今もまだ手を繋いだままのヒノエと目が合う。
その途端、妙な気恥ずかしさに襲われ、アズマヤとヒノエはどちらからともなく、思わず握った手を離していた。
「ご、ごめんなさい……!?」
「い、いえ、こちらこそ……!?」
そう言い合う二人の様子を見つめて、軽く微笑んだかと思えば、ヒシナはここまで来た道を指差し、アズマヤに声をかけてくる。
「流石に走りっ放しで疲れたよね? あの超人達が追ってこないか、そこで見張っておくから、二人はここで休んでいてよ」
「えっ……? いや、でも……」
「いいから。ゆっくりね」
そう言いながら、来た道を戻っていくヒシナの背中を見送り、アズマヤはヒシナが気を遣ってくれたことを察していた。ここでヒノエとしっかりと話すように言っているのだろう。
同じようにヒシナの背中を見つめていたヒノエが不思議そうに呟く。
「あの人は?」
「あの人はヒシナさんと言って、ヒノエさんと別れた後に、たまたま逢った怪人の方です。ヒノエさんのことを知ると、一緒に助けるために動いてくれて、それであの家に」
「怪人……? あの人も……?」
ヒノエはヒシナが立ち去った方をじっと見つめながら、そう呟いていた。それから、その視線をゆっくりとアズマヤの方に向ける。向けられた視線に気づいたアズマヤがヒノエの方を見ると、そこでアズマヤは複雑そうな表情のヒノエと目が合った。
困惑、喜び、動揺、躊躇い、悲しみ。そう言った感情を綯い交ぜにしながら、ヒノエはまっすぐにアズマヤを見つめている。
「ヒノエさん……?」
「どうして……」
アズマヤが名前を呼ぶと、ヒノエの口から静かに声が発せられる。僅かに感じられる声の震えは緊張からか、それ以外の感情からか、アズマヤには区別がつかない。
「どうして、あの場所に来たのですか?」
「それは……」
ヒノエが聞きたいことは分かったが、それにどう答えようかとアズマヤの気持ちが少し迷いを抱えている部分があった。
いや、そうではない。正確に言うなら、アズマヤの抱えているものは迷いではなく、躊躇いに近かった。臆病と言い換えてもいい。湧いてくる純粋な気持ちに蓋をして、今はまだ開かなくていいと言い訳するように口が違う言葉を発する。
「手段の話ですか? それとも、理由の話ですか?」
時間稼ぎするようにそう言っても、ヒノエは顔色一つ変えることなく、淡々と答えるだけだった。
「もちろん、理由の話です」
ヒノエはアズマヤを拒絶した。もう二度と、アズマヤとは逢わないつもりだったに違いない。そのことくらいはアズマヤにも分かっていることで、拒絶されたアズマヤにここまで来るだけの権利はないはずだった。
それでも、アズマヤはヒノエの身に迫る危険を考え、ヒノエを助けられるとしたら、自分しかいない事実に気づけば、逢いに行かないという考えは浮かばなかった。
そこに至った気持ちが分からなかった頃の自分は既に捨てていた。アズマヤは思いも寄らぬ形で、自分自身の気持ちと向き合うことになり、心の奥底に抱えた本当の気持ちを掴むことになっていた。
「ヒノエさんを助けるためです」
「でも……!? 私はアズマヤさんを拒絶しました……」
罪悪感を懐いているのか、顔を伏せるヒノエの悲しそうな表情に、アズマヤの胸がチクリと痛む。そのような表情をさせている理由の一端が自分である事実を思えば、アズマヤはこれほどまでに自分を責め立てたいと思ったことがない。
「俺も離れていくヒノエさんを引き止められませんでした。ヒノエさんがそうしたいと言うのなら、それが正しいと思っていました。思うことにしていました。でも、どうしても、納得できなくて……それで俺はようやく気づいたんです」
大きく息を吸い込み、アズマヤは掴み取った純粋な気持ちを声に変える。ヒノエを引き止めたいと思った理由など、深く考えるまでもなく、非常に単純なものだった。
「俺がヒノエさんと一緒にいたいんです」
「えっ……?」
両目一杯に驚きを浮かべながら、ヒノエは開きかけた口を止めていた。その表情に笑みを返し、アズマヤは力強く伝える。
「ヒノエさんに何を言われても、俺がヒノエさんと一緒にいたいと思ったんです。だから、俺はヒノエさんが離れようとしても、それを止めるために手を掴むし、ヒノエさんが危ない目に遭っているなら、命がけで助けます」
心の奥底にあった気持ちを宣言しながら、アズマヤはまっすぐに手を伸ばす。
「だから、俺と一緒にいてください」
その言葉を聞いて、ヒノエは目元に涙を浮かべながら、小さくかぶりを振る。
「でも、私は怪人で、アズマヤさんに迷惑をかけて……」
「何があっても、俺は迷惑だなんて思いません」
「けど、アズマヤさんにはアズマヤさんの生活が……」
「ヒノエさんを一人にして、のうのうと生きていけるほど、俺は能天気じゃありませんよ」
ヒノエの否定する言葉を一つずつ否定していくアズマヤを前にして、ヒノエは堪え切れなかったように少しずつ、目元から溜まった涙を頬の方に垂れ流していた。
「……本当にいいんですか……?」
「俺はそうしたいと思っています。ヒノエさんは俺が一緒にいたら、迷惑ですか?」
アズマヤがそう問いかけると、ヒノエは両手で零れ落ちる涙を拭い、大きくかぶりを振っていた。
「そんなことありません!」
アズマヤがまっすぐ伸ばした手にヒノエの手が近づいてきて、その手が力強く握り締められる。ここまで走ってきて、身体は温まり切ったはずだが、氷に触れたばかりのようにひんやりと冷たい感触が掌を覆って、アズマヤは途端に嬉しい気持ちが膨らんでいく。
「ヒノエさん!」
「あひゃい!?」
思わずヒノエの手を引っ張り、ぎゅっと身体を抱き締めたアズマヤの行動に、ヒノエは顔を真っ赤にしながら、身体を強張らせていた。
そのまましばらく止まり、ゆっくりと自分のしたことを理解したアズマヤが同じように顔を赤く染めながら、ヒノエを離していく。
「ごっ……!? ごめんなさい……」
「い、いえ、こちらこそ……」
お互いに気まずさを抱え、僅かな静寂に包まれてから、アズマヤは今も追手がないか見張っているヒシナを呼んでこようと考えた。
「あ、あの、ヒシナさん……!? ヒシナさんを呼びに行きましょうか……?」
「そ、そうですね……!? そうしましょう……」
アズマヤとヒノエはぎこちなく並んで歩き始め、ここまで来た道を戻り始める。その途中で、ふとアズマヤは少し気になっていたことを思い出し、ヒノエの方を見ていた。
「そ、そう言えば、さっき。あの部屋を出る前に、玄関先でタテイシさんと何か話してませんでしたか?」
「あっ、見てましたか?」
「あれは何を?」
「えっと……」
少し言いづらそうに顔を逸らしてから、ヒノエはアズマヤの方に顔を向けて、苦笑いを浮かべる。
「ストーカー行為をされていたので、はっきりと『気持ち悪い』と伝えていました……」
そのように告げたヒノエの言葉にアズマヤは唖然としてから、腹の底から湧き上がってくるように少しずつ笑みを零していく。
「ヒノエさん、流石に冷たいですね」
「そ、そう、ですかね……?」
戸惑うヒノエの様子にアズマヤは堪え切れない笑いを零しながら、ヒシナがいると思われる曲がり角を覗き込む。
「ヒシナさん、ありがとうござ……」
そこで二人は揃って立ち止まり、不思議そうな顔で曲がり角の向こうをじっと見つめていた。
「あれ……?」
戸惑うように呟き、二人は思わず顔を見合わせるが、そこに広がる景色はどう足掻いても変わらない。
そこにいると思われたヒシナはどこを見ても姿が見えなかった。