5-25.深夜探し
タテイシに迷惑をかけてしまった。その罪悪感がヒノエの記憶を引っ張って、その時の場景に意識を引き戻させた。ヒノエは憎悪のままに連れ去られようとする女性の元に向かおうとして、タテイシはそれを必死に止めてくれていた。
そこでタテイシが口を開いて、ヒノエを止めるために言葉を張り上げる。
「あそこには二人も超人がいる……!? どれだけ近づいても、ヨシカワさんには届かない……!? だから、諦めるんだ……!?」
頭の中をぐるぐると回転するタテイシの言葉を、その時のヒノエはほとんど聞き流していたが、そこから時間が経って、冷静さを取り戻したヒノエの頭には強く引っかかる言葉があった。
ヨシカワさん。それが誰のことなのかは分からないが、もしも状況が正しく当てはまっているなら、それは連れ去られようとしている、ヒノエの憎悪の対象となった女性の名前だろうと思われた。
それがヒノエは酷く気になった。ヒノエすら知らない女性の名前をタテイシは知っていた。どこかで知り合いだったという可能性はある。同じ大学に通っているのだから、名前くらい知っているかもしれない。
ただタテイシとこうして一緒にいる理由に、そのヨシカワと呼ばれた女性が絡んでいることがヒノエの中に不安を芽生えさせていた。
大学の構内でヒノエはあの女性に襲いかかり、それなりの騒ぎの原因を作った。そこで騒ぎの原因以上に気にかかるアズマヤの傷も生み出してしまい、ヒノエはアズマヤの元から立ち去ることを決意した。
その直後、アズマヤとの別れの重さに耐えかねているヒノエを偶然にも発見したのがタテイシで、そこからヒノエはタテイシと一緒に行動している。
そう、偶然にも、タテイシはヒノエを発見した。その事実を思い返し、ヒノエの中の不安は膨らむ。
そういうことを考えてはいけないと頭の中では思っているが、一度でも湧いてきてしまった思考はそう簡単に取り払えない。
もしかして、タテイシはヒノエが先に起こしたあれこれを知っていた上で、ヒノエに近づいてきたのだろうか、とヒノエの頭の中に疑いが生まれる。
そうではないと思いたいし、こういうことを考えている自分自身に嫌気が差してくるが、特にヒノエは怪人となってから、人に頼った結果を悪い形で迎えている。その経験がヒノエの中の不安に空気を与え、自然とそこで膨らむように促してしまっていた。
それにそれだけの考えが頭に浮かんできた原因はもう一つあった。昨晩、偶然にも目撃してしまったヒノエの知らない態度を見せるタテイシの姿を思い出し、それがヒノエの中の不安に栄養を与えていた。
もしかしたら、と芽生えてしまった考えは振り払えそうになく、ヒノエはタテイシの元を去るという決心したはずの考えを頭から追い払い、自然とタテイシを目で追うようになっていた。
もしもタテイシが不安の通りのことをしているのなら、どこかで何かしらの襤褸を出すかもしれない。そのような考えから、ヒノエはタテイシの行動を逐一監視するように見つめていた。
しかし、そこからのタテイシの行動に不審な点は見られなかった。昨晩の電話すら嘘のように、タテイシはヒノエの知っている面だけを前面に押し出し、それこそが自身の正体であると、ヒノエを説得するようだった。
ヒノエは内心の不安を抱えたまま、これだけ時間が経っても、何一つとして様子が変わらないのなら、やはり、ただの考え過ぎだったかと思うことにする。
その途中、生理現象からトイレを借りて、リビングに戻ろうとしている時に、ヒノエは不意に違和感を覚えて、思わず立ち止まっていた。リビングから風呂やトイレ、玄関と通じる廊下の途中で、ヒノエは見渡すように視線を動かす。
おかしい。そう気づいてから、ヒノエはリビングの入口に目を向ける。そこから、ヒノエの立っている場所を経由して、廊下の端に目を向けるが、それはヒノエの勘違いではなく、明らかに異様だった。
ヒノエは廊下の中ほどに立って、そこでリビングと接する壁に向かって手を伸ばす。ヒノエの記憶が確かなら、リビングの広さは入口の方から、ここに至るくらいだった。
つまり、リビングの広さ以上の長さで廊下が存在し、リビングと廊下の角に一部屋ほどの広さをした何もない空間が家の中にあるということになる。
これはどういう間取りなのだろうかと、ヒノエはそこから想像できる家の様子に疑問を懐きながら、リビングへと戻っていく。そこで何もない空間と接したリビングの壁に目を向けてみるが、そこにはいくつかの壁掛け棚と本棚が置かれているくらいで、やはり、その奥に部屋があるようには見えなかった。
◇ ◆ ◇ ◆
夜中まで至れば、不安は僅かに形を小さくし、次第に追い払ったはずの決心を思い返していた。自分は意味も分からない疑いをかけて、一体、何をしようとしているのだろうかとヒノエは思い、やはり、タテイシの元から去るべきだと改めて考え始める。
そのために夜中の内にこっそりと抜け出そうかと思っている最中、ふとヒノエはリビングから繋がるベランダの存在を思い出し、昼間に疑問を懐いた空間のことを考えた。
もしかしたら、ヒノエは確認していないが、ベランダの方から繋がっているのだろうかと思い、ヒノエはこっそりと部屋の中を移動して、件のベランダの方に移動してみる。
眠っているタテイシを起こすのも悪い上に、家の中を漁るようなことを知っては気分が悪くなるだろう。ひっそりと見つからないようにしながら、ヒノエはベランダから確認してみるが、そこにはやはり壁があるだけだった。
とはいえ、廊下の時と同じようにベランダの長さは明らかに長く、そこに違和感を残したまま、ヒノエはリビングの中に戻ってくる。
やはり、この向こうに部屋があるような気がしてならないと思いながら、ヒノエはリビングの壁を見つめてから、ふとそこに置かれた本棚に触れてみる。
本棚はヒノエよりも遥かに高く、天井近くまである大きな物だった。この大きさなら、この後ろに何かがあってもおかしくはないように思えてくるが、扉の前にわざわざ本棚を置くことがあるだろうかとヒノエは疑問を懐く。
それでは扉を開けるために、わざわざ本棚を動かす必要があって、かなり不便ではないかと思いながら、視線を下げたところで、ヒノエは本棚の下のカーペットが他と違うことに気づいた。
その一角だけ、他よりも薄いカーペットが敷かれていて、そこに何かを引き摺ったような跡が残っている。
(えっ……? 本当に……?)
そんなことがあるのかと疑問を懐きながら、ヒノエは本棚が動くのかと確認するように触れてみる。流石に女一人の力では動かせないだろうと考えながら、ヒノエは本棚の端を持ち上げるように力を入れてみるが、やはり、本棚は流石に重く、持ち上がることはなかった。
しかし、ヒノエの力でも、本棚が少しだけ動いていた。それも持ち上げていない方の端を軸にするような動きで、その動きに違和感を覚えたヒノエが持ち上げるのではなく、横にずらすように動かしてみる。
すると本棚は見た目以上に軽く動き出し、片方を軸として回転するように、カーペットの上を滑っていった。
やがて、完全に本棚が回転し切ってから、ヒノエは本当に動くのかと驚きながら、その奥に目を向ける。
そこに扉があった。
(本当に、あった……!?)
まさか、本当に部屋があるとは思っていなかったと驚きながら、ヒノエはそこに現れた扉に手を伸ばしてみる。鍵がかかっているかと思ったが、本棚の後ろに隠していたくらいなので、鍵自体がついていないのか、扉は簡単に開いた。
ゆっくりと開く扉の向こうに身体を伸ばしながら、ヒノエはその奥に広がる部屋を覗き込んでみる。ベランダと繋がっていなかったことから分かることだが、部屋の中には窓がなく、夜中ではあまりに暗かった。
どこかに電気のスイッチがないかと思いながら、ヒノエは壁を手探りで探し始めてみる。
そこでスイッチではなく、何か紙のような物が貼られていることに気づき、何かと思っていたら、その紙が落ちそうになった。ヒノエはその紙をなくさないように慌てて掴み、その紙が無事か確認するために見えるところまで持ってくる。
それはヒノエを写した写真だった。
「えっ……?」
思わず声を漏らし、ヒノエは再び部屋の中に目を移した。今度こそ、明かりを探そうと再び手探りで壁を探し始めて、ようやくスイッチと思われる物を発見する。恐らく、これが明かりのスイッチだろうと思いながら、ヒノエはそのスイッチを押し、思っていたように部屋の中に明かりがついた。
そこで、壁一面に貼られた無数のヒノエの写真が目に入ってきた。
「えっ……? 何これ……?」
異様としか言いようのない部屋の様子に思わず後退り、反射的にヒノエは部屋から離れようとする。
その後ろから不意に影が伸びてきて、ヒノエは慌てて振り返ろうとした。
「好きにしていいとは言ったけど、模様替えの許可まではしてないよ」
ヒノエが振り返る前に、背後からヒノエの冷気以上の冷たさを含んだ声が聞こえ、ヒノエの背筋が凍る。
「本棚を動かすなんて悪い子だね」
そう呟く声を聞きながら、ヒノエはゆっくりと顔を上げて、そこに立つ影を見つめる。その表情を見つめながら、タテイシは静かに微笑んでいた。