5-22.凶刃の正体
身体中の神経が背中に集まったように痛みを強く感じる一方、意識がそちらに集まるばかりに全身から力は抜けて、アズマヤはその場にゆっくりと崩れ落ちるように倒れ込んでいた。
「貴女は……!? 何を……!?」
激情を押し殺すように叫びながら、ヒシナはアズマヤの背中にぶつかった女性に掴みかかっていた。女性は抵抗しようと身体を動かしているが、ヒシナはそれすらも許さないように両手を伸ばし、アズマヤの背中に強く押しつけていた片手を力任せに握り締める。
「痛っ……!?」
それによって女性は表情を歪ませ、その手に握っていた物を足元に落とした。倒れ込むアズマヤの隣に落ちて、アズマヤはそれをゆっくりと目で追う。
そこに転がっている物は赤く汚れたナイフのようだった。
痛みが思考を奪い、ゆっくりと意識が霞むように薄れていく中で、アズマヤのまとまり切らない頭は何とか状況を理解しようと、必死に回転していた。
刺された。それは間違いない事実だが、刺した人物はヒノエをあの横断歩道で押し、ヒノエを殺害しようとしていたという女性だ。その人がアズマヤを刺す理由がアズマヤには一つも思い浮かばなかった。
どうして、自分は刺されたのだろうかと、アズマヤは必死に考えようとするが、今のアズマヤの頭では思考にも限界がある。
考えがどうしてもまとまり切らない中で、アズマヤはただヒシナの声を聞いていた。
「大丈夫かい!?」
ヒシナはその場に女性を組み伏せながら、アズマヤの方を気にかけるように目を向けてきた。アズマヤはその問いかけに答える余裕もなく、ただ僅かに目を動かし、ヒシナの方を見ることしかできない。
その様子を見たヒシナが自身の鞄の中に手を突っ込み、そこからハンカチを取り出し、アズマヤの方に移動してきた。背中にできた傷口を思いっ切り手で押さえられ、アズマヤは身体中を襲う激痛に苦悶の声を漏らす。
「我慢して……!? 今は血を止めないと……!?」
そう呟くヒシナの声を聞きながら、アズマヤの意識は今にもどこかに飛んでいきそうな状態になっていた。ただでさえ、出血をしたことで意識が飛びかけているのに、そこに狂いそうになるほどの痛みがかかり、アズマヤの意識は当然のように現実を離れそうになっている。
だが、必死に奥歯を食い縛り、アズマヤがその痛みに耐えていると、ヒシナの声が僅かに安心したように落ちついたものに変わる。
「大丈夫。急所は逸れているから、出血さえ止まれば、命に別状はないはず」
その一言にアズマヤも安堵しかけ、意識が吹き飛びかけた時のことだった。ヒシナが地面に組み伏せていた女性がゆっくりと身を起こし、ヒシナが移動した隙に逃げ出そうとしていた。
そのことに気づいたヒシナが小さく謝罪の言葉を口にしてから、慌てて飛びかかるように女性を掴み、再びその場に組み伏せていく。
「貴女は何者だ……!? どうして、こんなことをしたんだ……!?」
ヒシナからの質問を受けて、女性は痛みに顔を歪めながら、酷く怯えたように背後を振り返っていた。そこにあるヒシナの顔を見つめながら、女性は小さくかぶりを振る。
「違う……!? 私は……私は……悪くない……!?」
この期に及んで、自身の罪を否定するような言葉を呟いていることにヒシナも気づき、自身の下で寝転ぶ女性を見下ろしたまま、ヒシナの表情が一気に険しいものに変わる。そこに普段のヒシナからは感じられない冷たさを感じて、思わずアズマヤも背筋を凍らせるほどだった。
「何が関係ない、だ……? 人が一人殺しかけて、何が関係ないんだ……? 言ってみろ……!? その口でちゃんと説明してみろ……!?」
全身が震えるほどの威圧感を放ちながら、女性を追いつめるように問いかけるヒシナの姿に、味方であるはずのアズマヤも若干の怯えを懐いていると、その表情と声を聞いた女性がガタガタと歯のぶつかる音が響くほどに口元を震わせ、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「めい……命令……命令されたから……命令されただけだから……それだけだから……」
何度もその場から、伸しかかる恐怖から逃れようと、女性は震える唇で必死に言葉を放ち、ヒシナを見つめていた。許して欲しいという感情が籠った声だが、そのことをヒシナが拾い上げることはなく、ただ冷めた目を女性に向けている。
「命令……? 誰からの命令なんだ……?」
それを聞いた女性が再び震える唇を開いて、ガタガタと歯のぶつかる音を立て始める。
「タ、タタタタ、タタタタタ……」
「タ?」
ちゃんと言葉を紡げない様子の女性を見下ろし、ヒシナが視線に苛立ちを乗せると、女性の唇は慌てて開いて、ようやく形のある言葉を作り上げる。
「タテ……タテイシ……くん……」
「タテイシ……?」
ヒシナにとって、それは聞き覚えのない名前だったのだろう。それ故に眉間に皺を寄せて、誰なのかと考えるように呟いていたが、アズマヤは違った。
その名前に吹き飛びかけた意識は一瞬で引き戻り、アズマヤの身体と強く結びついたかと思えば、ゆっくりと動かなくなっていた身体を動かし始めるほどに、強い焦りをアズマヤの中に生んでいた。
「ヨースケくん? どうしたの?」
そのことに気づいたヒシナが慌てて身を起こし、アズマヤを支えるように手を伸ばしてくる。状況は正確に判明していないが、一つはっきりと分かることがある。
タテイシがアズマヤの知っているタテイシで、もしも、そのタテイシが女性にアズマヤを刺すように命令したのだとすれば、タテイシは何を考えているとしても、かなり危険な人物である可能性が非常に高い。
「行か、ないと……!」
何とか身体を動かそうとするアズマヤを慌てて支えながら、ヒシナはアズマヤに質問してくる。
「どうしたの? 知っている名前だったの?」
その問いかけにアズマヤは小さく頷いてから、最小限の言葉でヒシナに浮かんだ焦りを説明しようと口を開く。
「さっき……見ました……」
それだけでヒシナも察してくれたようだ。アズマヤが急に動き出した理由も汲み取ってくれたようで、アズマヤをしっかりと支えながら、「分かった。移動しよう」と言ってくれる。
その言葉に甘え、アズマヤとヒシナがその場から離れるように移動し始めたことで、アズマヤの背中にナイフを突き立てた女性は放置されることになった。
何があったのか分からないが、殺されるかもしれないと思うほどの威圧感に襲われた後の解放だ。何とか命が助かったと安堵し、その場から逃げようと、慌てて転がるナイフに手を伸ばした。
その時のことだった。
「おや、どうされましたか?」
不意に声をかけられ、女性は全身を震わせながら顔を上げる。聞こえてきた声は女性のものだったが、そこには容姿の整った男性が一人立っていて、女性に軽く手を伸ばしているところだった。
「おや、それは怪我を……?」
そこで女性の手元の血液に気づいたのか、そう呟かれた瞬間、反射的に女性は手を引っ込ませ、握っていたナイフを隠そうとしてしまう。
「おい、何だ、今の動きは?」
そこで目の前に立つ男性以外にもう一人いることに気づき、女性はゆっくりと、その奥に立つもう一人の男性を見上げていた。
それは髪の毛から眼光、口角に至るまで、全てが鋭く尖った印象のある男性で、咄嗟にナイフを隠した女性を睨みつけるように見つめていた。