5-18.他意ある良心
喫茶店を後にして、駅から離れるように歩いた場所だった。そこに立っているマンションの三階にある一室が目的地であり、そのことをヒノエが知る頃には、タテイシの案内でその部屋の扉の前に来てしまっていた。
「ここが俺の部屋。どうぞ」
そう告げながら扉を開けるタテイシの姿を目にして、ヒノエはもう逃げる可能性もなく、後は案内されるまま、部屋の中に足を踏み入れるしかないことに気づいた。
そこでようやく若干の後悔が生まれてくるが、それも自分の判断と言い聞かせることにして、ヒノエはゆっくりと開かれた扉の奥に足を踏み入れていた。
そこに広がっている部屋は想像以上に普通の部屋だった。特別に物が多いわけでもなければ、極端に少ないわけでもない。ヒノエは多くのサンプルを知っているわけではないが、あくまでイメージの中で言うと、タテイシくらいの年齢の男子学生が一人暮らしをした際の平均的な部屋のように思えた。
ヒノエが部屋に足を踏み入れたところで戸惑っていると、後ろで扉を閉めていたタテイシがヒノエを促すように声をかけてくる。
「好きなように寛いでもらって構わないから。どうぞ、ヒノエさんの好きなように座って」
タテイシにそう言われたことで、ヒノエはようやく部屋の奥へと足を踏み入れていくが、それでもタテイシの言っているように寛げる気はしなかった。
誰かの家にお邪魔して、そこで自由に寛げるようになるには、それだけの関係性が必要だ。気の置けない間柄であるなら、言われたように寛げていたかもしれないが、今のヒノエとタテイシの関係性では、お願いされても難しい。
どれだけ意識しようとしても、遠慮してしまう気持ちは消せず、ヒノエは玄関から更に踏み込んだ先にあるリビングに足を踏み入れてから、少し迷った後に端の方に腰を下ろしていた。
後からリビングに来たタテイシがそのことに気づいて、部屋の中央に置かれたソファーを手で示してくる。
「ここに座ってもらって大丈夫だよ?」
そう言われる前から、ヒノエはそうであることを承知していたが、タテイシと距離が近くなることなどは関係なく、単純に気を遣うことから、ヒノエはついソファーの下のカーペットの上に腰を下ろしていた。
しかし、タテイシは距離を取られたと思ったのか、ヒノエの様子にやや寂しげな表情を見せて、悪いことをしてしまったかとヒノエは罪悪感に襲われる。
もしかしたら、何かをされるかもしれないと思いながらも、それも致し方ないと思ってきたところがあるので、ここでタテイシが何をしてきても、ヒノエ自身が飛び込んだ結果と言えるのだが、それなら遠慮も不必要だと考えてみたところで、どうしても遠慮する気持ちは消えない。
これだけは相手がどうであるとか、どういう風に動いているとか、そういう部分で考えが変わるものでもないので、申し訳ないとは思いつつ、ヒノエは動かないでいると、タテイシは話題を変えようと思ったのか、不意に手を叩いて聞いてきた。
「じゃ、じゃあ! ちょっと早いけど、まずは食事でも取ろうか? 何でも頼むから、何か好きなものがあったら、言ってよ」
そう言いながら、タテイシは食事の宅配サービスを頼もうとしている様子だった。空腹自体は感じているが、ここまでに起きたことや今の遠慮の詰まった空間も相俟って、ヒノエの頭にはこれと言った食べ物が思い浮かばず、タテイシの期待とは裏腹に何も答えが出てこない。
その様子に気づいたのか、タテイシが不思議そうな顔でヒノエの方を見てくる。
「ヒノエさん?」
「いや、その……特に何も思い浮かばないので、お好きな物でお願いします……」
どう伝えればいいか分からず、ヒノエが戸惑いながら言うと、タテイシはやや表情を強張らせてから、どこかぎこちない返事を口にしていた。
「そ、そう。了解。じゃあ、俺が勝手に頼んじゃうね」
そう言ってくれた言葉にヒノエは頷くことしかできず、タテイシが注文を終えて、頼んだ商品が届くまで、部屋の中は気まずい沈黙に満たされることになった。
◇ ◆ ◇ ◆
アズマヤを抱えたヒシナは必死の逃走の結果、無事にリアリストとスティンガーを振り切った様子だった。誰も追ってこないことを確認してから、ヒシナは人目のない公園の一角に移動して、そこにあったベンチにアズマヤを座らせてくれる。
「身体の様子はどう?」
そう聞かれ、アズマヤはかぶりを振ろうとするが、それすらもできないほどに身体は痺れたままで、アズマヤは小さく声を発するのが精一杯だった。
「もう少し、どこかで休んだ方がいいかもしれないね。少し落ちつける場所を考えないと」
「ヒシナさんは……どうして……?」
助けてもらったこと自体は非常にありがたかったが、あの場所にヒシナが現れたことも、ヒシナが怪人であるという事実も、アズマヤからすれば驚きでしかなかった。
何がどうなってヒシナはあそこに現れたのかと思っていたら、アズマヤの問いを聞いたヒシナがやや気まずそうな笑みを浮かべる。
「実はね。最初に君を見た時から、君がもしかしたら、何か怪人関係の悩みを抱えているんじゃないかって思って、それで声をかけたところがあるんだよ」
「えっ……? どうして、それが……?」
何からそう思ったのだとアズマヤが驚いていると、ヒシナはそのアズマヤの両手を指差した。
「その手袋。ちょっとこの季節に嵌めるにしては暑過ぎると思うんだ。何か理由があるんだろうと思っていたら、君の様子が悩んでいるようだったから、もしかしたら、君も怪人なのかと思って、最初は声をかけたんだ」
「いや……俺は……」
「ああ、うん、大丈夫。その後に君の話を聞いていたら、君自身が怪人なんじゃなくて、君の知り合いに怪人がいることは何となく分かったから」
アズマヤの話したヒノエの話は抽象的なもので、それ自体が直接的に伝わらないように話したつもりではあった。
だが、自身も怪人であり、怪人という存在を把握しているヒシナからすれば、それは十分に怪人のことを話していると伝わる内容だったらしい。
「まあ、もちろん、確証ではなかったけど、その可能性が高いと思ったから、何か問題があるなら、二人のためにも何か協力できないかと思って、こっそりついていったんだ。ごめんね」
ヒシナはそう謝ってきたが、その判断が結果的にはアズマヤを助けることになった。アズマヤは再びかぶりを振ろうとして、振れない事実を思い出し、「いいえ」と何とか口にする。
「だけど、まさか、君が超人に連れ去られそうになるとは思ってみなかったよ。一体、何があったの? 詳しいことを聞いても大丈夫?」
改めて安堵するように呟いてから、ヒシナはそう聞いてきた。今の状態のアズマヤがどこまで話せるかは分からないが、図らずもヒシナを巻き込んでしまった状態だ。ヒシナには経緯を説明しておくべきだろうと思い、アズマヤは「はい」と声に出す。
「まずは俺が出逢った怪人の……ヒノエさんのことを少し話します……」
アズマヤの話はそこから始まって、ヒノエとの出逢いや手袋を嵌めている理由を説明した後、ゆっくりと超人に連れ去られそうになった理由へと行きついていた。
その頃には、最初は不自由に感じていた身体も、少しずつ元の感覚が戻りつつあって、アズマヤの話は話せば話すほど、より詳細なものへと変化していた。