5-14.狂い始める歯車
駅近くにある小洒落た喫茶店だった。タテイシの案内でヒノエは来店し、最も入口から遠い席に腰を下ろす。角度的に店員からも見えづらい席で、ヒノエの話がプライベートなことであるという点は伝わっているようだと思った。
「ヒノエさんは何を頼む?」
飲み物くらいは注文しようということになり、メニューを眺めながら、タテイシが聞いてきた。その言葉を受けて、ヒノエは少しメニューの上で視線を彷徨わせてから、すぐに何か思い至ったようにかぶりを振り始める。
「やっぱり、ごめんなさい……話せません。帰ります」
ここまで来ておいて何だが、自身の身体について、全てを説明することの恐怖に駆られ、ヒノエはついそう口にしていた。店から立ち去ろうと立ち上がったところで、タテイシの手が慌てて伸びてきて、ヒノエの腕を掴む。
「待って、ヒノエさん!」
ヒノエを呼び止めるように声を上げてから、タテイシは真剣な目をヒノエに向けてくる。
「ヒノエさんの抱えている秘密がどういうものか分からないけど、俺は君の全てを受け入れるつもりだ」
その眼差しと言葉を前にして、ヒノエの頭の中に過ったものはアズマヤの顔だった。今のタテイシの言葉のように、アズマヤはヒノエの全てを受け入れてくれた。それがどれだけありがたかったか実感し、それがどれだけ奇跡的だったか理解し、そのことを今も考えてしまうことにヒノエは罪悪感を覚える。
そこで懐いた後ろめたさからか、ヒノエは帰ろうとしていた足を止めて、そのまま席に戻っていた。その様子にタテイシは安堵した表情を見せて、二人の注文が決まる。
ヒノエの話はタイミングを窺う必要があると、頼んだ飲み物がテーブルに届くまで待つことになった。タテイシの頼んだブレンドコーヒーと、ヒノエの頼んだレモンティーがテーブルの上に並べられ、一口ずつつけたところでタテイシの視線がヒノエに向く。
「それでヒノエさんの身体はどうしたの? 何があったの?」
そのように聞かれ、ヒノエはどこから話すべきかと悩んだ。何から話して、何を隠すべきかと考え、ヒノエは本当にプライベートな部分は包み隠すことに決める。
「こんな話を急にされても、信じてもらえるかは分かりません」
「大丈夫。全部、話して。俺は全部、受け止めるから」
タテイシが促すようにそう告げて、ヒノエは自身の身に起きた不幸から、簡潔的に話すことにした。
事故に遭った。事故の原因と内容までは覚えていないことにする。改造手術を知らない間に受けさせられたことを説明して、身体が人間のものではなくなったと伝える。母親のことは隠した。何となく、その部分には他の誰かを踏み込ませたくない気持ちがあって、最初から最後まで包み隠すことにした。必然的にアズマヤのことも説明せず、ヒノエは逃げ出したばかりに怪人となった末路だけをタテイシに伝える。
最初はゆっくりとブレンドコーヒーを口に含みながら聞いていたタテイシも、話の内容が自身の持っている知識とあまりに違うからか、仕舞いには手を止めて、驚愕した表情のまま固まっていた。
「そんなことが……? 本当に……?」
疑っているというよりも、戸惑っている様子でタテイシが聞いてくる。ヒノエは自らの手を見せて、自分自身が証拠だと口にする。そう言われたら、流石のタテイシも他に言葉が出なくなったのか、ゆっくりと俯いたまま、考え込むように口元を押さえていた。
やっぱり、話さない方が良かったかもしれない。その反応を見て、ヒノエは咄嗟にそう感じていた。あれはアズマヤだったから、そうだったというだけで、他の人なら否定的な反応を見せるに決まっている。
ほんの少しの気の迷いで伝える話ではなかった。そう後悔し始めた頃、ようやくタテイシは顔を上げていた。
「そうか……いや、驚いたけど……うん。ヒノエさんがそう言うなら、それはきっと間違いないと思う。話してくれてありがとう」
口元に笑みを浮かべ、ヒノエを安心させるように呟くタテイシを前にして、ヒノエの心の中で何かが崩れる音がした。妙な喪失感で一杯になって、どうしようもない寂しさを感じながら、ふと、やはり話すべきではなかったと強い後悔を懐いていた。
◇ ◆ ◇ ◆
「一人で大丈夫? 駅くらいまでなら送るよ?」
一人で歩き出すと告げたアズマヤを前にして、男は心配した様子でそう言ってくれた。ただいつまでも甘えていられないという気持ちが強く、何より、ヒノエのことについて、アズマヤは掴み切れない自分自身の気持ちを考えたいところもあったので、一人で帰ることを決めていた。
「大丈夫です。ご心配をおかけしてすみませんでした」
「いやいや。その友達と仲直りできるといいね」
「はい……そうですね……」
ヒノエは立ち去ってしまった。その行き先は分からない。ヒノエが行きそうな場所として、分かっている場所はヒノエの母親が眠っているという墓地くらいだ。そこに毎日通っていれば、いつかは逢えるかもしれない。
ただし、それが明日なのか、何十年後なのかは分からない。その前に怪人としてヒノエはどこかで超人に捕まって殺されるかもしれない。
そう考えれば考えるほどに、アズマヤの胸の内には不安な気持ちが募ってしまう。
「ああ、そうだ。最後に名前くらいは聞いておいてもいいかな?」
相手の男がそう言ってきたことで、ここに至るまで、どちらも自己紹介をしていない事実をアズマヤは思い出していた。
「東野耀介と言います」
「ヨースケくんか。うん。僕は菱科双苅」
「ヒシナさん」
「うん、そう。また逢ったら、その時はどうなったのか教えてくれると嬉しいな」
「はい。本当にありがとうございました」
ヒシナとそのように別れの言葉を交わし、アズマヤは一人で歩き始める。向かう先は自宅だが、その途中の思考のお供はもちろん、ヒノエのことだ。
自分は怪人である。故に一緒にはいられない。そう言って去ってしまったヒノエを、アズマヤは絶対に止めたいと思った。
しかし、そう思った理由をアズマヤ自身で説明はできない。何を感じて、何を考えて、そのような気持ちに至ったのか、アズマヤは自分自身のことでありながら、誰かの物語を覗いているように掴み取れない。
その曖昧な言葉がヒノエに伝わるはずがなかったと気づけたことは良かったのかもしれないが、その曖昧な言葉を確かな言葉に変えるためには、アズマヤ自身がアズマヤ自身の気持ちを掴み取る必要があった。
それが想像以上に難しく、アズマヤは自宅までの道のりを歩きながら、何度も首を傾げてみるが、その答えをうまく見つけられない。
自分自身のことなのに、こんなに分からないのかと思っていると、気づいたらアズマヤの身体は自宅の前に到着していた。
帰ってきてしまった。行く時は一緒にいたはずのヒノエが消え、一人で家に戻ってきてしまった。その事実にどうしようもない悲しさと虚しさを懐きながら、アズマヤは自宅の扉を開ける。
ただいまといつものように声をかけようとしたところで、玄関に並べられた見慣れない二足の靴に気づいて、客人が来ていることを察する。
これは静かに部屋へと戻ろうかと思っていると、リビングの方から母親が顔を出し、アズマヤに声をかけてきた。
「ヨースケ。貴方にお客様がいらっしゃっているから、こっちに来て」
「え? 俺に?」
自分への客と言われ、どういうことだと思いながら、アズマヤはリビングの方に歩いていく。そう言えば、母親の表情がやけに緊張したもので、声も僅かに震えていたと思いながら、アズマヤはリビングに踏み込んだ。
そこではソファーに並んで座った、どこか緊張した様子の両親と、その両親と向かい合う、見たことのない二人の男が待っていた。