5-12.合縁奇縁
何を言えば良かったのか。何を伝えれば良かったのか。アズマヤは横断歩道の前に一人取り残されたまま、ひたすらに見つからなかった答えを探し続けていた。
ヒノエは自分のことを怪人と言った。怪人であるから、ただの人間であるアズマヤとは一緒にいられないと言っていた。いるべきではないとも考えている様子だった。
それらのきっかけに、大学の構内であの女性と逢ったことがあることは明白だった。ヒノエを押したという女性に詰め寄り、ヒノエは問い詰めようとして、抑え切れない感情を爆発させた。それが怪人として得た特別な力に繋がって、ヒノエは身体から強烈な冷気を放ってしまった。
もしかしたら、女性を殺していたかもしれない。もしかしたら、アズマヤにもっと酷い傷を作っていたかもしれない。
ヒノエの中に強い後悔が生まれ、自分の行いと自分の感情を責め立てたことは分かった。ヒノエならそうなるだろうと、ここまでの短い付き合いでも想像がつく。
しかし、それがいけないこととはアズマヤも言い切れなかった。確かにヒノエがもしもあの女性を殺害していたら、それを肯定し、認めることをアズマヤが言うつもりはない。これ以上の怪我を負わせていても、それは同じことだ。アズマヤはヒノエの罪を罪として、ちゃんと咎めていたことだろう。
だが、ヒノエはそこまで至らなかった。アズマヤが止めたからかもしれないが、その言葉を聞いて留まるくらいの理性をヒノエは持っていたということだ。それを責めるほどの非道さはアズマヤにもない。
怒りも状況を考えれば仕方ないことだ。自分を事故に遭わせたかもしれない相手で、その事故が原因で怪人となり、母親の死に目にも逢えなかった。それらのことを考えたら、自然と湧いてくる怒りがあることも仕方ない。
ヒノエの行動は怪人だから起きたことではない。ヒノエが人間だからこそ、人間として当然の感情を持っていたからこそ、あの場が生まれてしまった。それだけのことだ。
自らを怪人と卑下し、逃げる必要などない。ちゃんと自分の感情や変わり切ってしまった身体と向き合えば、十分にヒノエは人間として生きていけるはずだ。
それだけの温もりをヒノエは持っている。そのことは間違いないと、ヒノエと共に絶体絶命の状況を経験したアズマヤが保証する。
しかし、どの言葉もヒノエには届かなかった。今のヒノエに正論は不必要だったようだ。自分の中でまとまった考えを変えられるほど、ヒノエは生半可な気持ちで言い出したわけではなかった。
どうしたら、ヒノエを引き止められたのか。あの場でアズマヤが取るべきだった行動や言うべきだった言葉を考えてはアズマヤの頭は痛みを覚えていく。
そもそも、本当にヒノエを止めることが正解だったのかと思い始めたら、アズマヤの中に存在したはずの確かな気持ちは途端に揺れ始めた。
止めるべきだったはずだ、とアズマヤは思おうとするが、そもそも、ヒノエとはミチカの屋敷で別れる予定だったはずだ。そこからいろいろとあって今に至っているが、怪人であるヒノエが本当にアズマヤ達の中に交じって生きていける保証はない。
大丈夫だとアズマヤがどれだけ思っても、どこで綻びが生じるか分からない以上、アズマヤはヒノエが他の怪人と生きていけるように見送るべきだったはずだ。
それがいつの間にか、ヒノエと離れることを拒絶するように思考を動かしていた。それは何故かと考えようとするが、アズマヤの頭はその答えまで辿りつきそうになかった。
そう思えば、きっとこれで良かったのだろう。何とかアズマヤは自分自身にそう言い聞かせて、納得させようとする。
しかし、湧き上がってくる感情はどれだけ言い聞かせようとしても、その言葉が染み渡るのを防いで、アズマヤの中にどうしようもない後悔だけを植えつけていた。
本当にどうしたら良かったのか、と何巡目か分からない思考に襲われ、アズマヤが再び頭を抱える。
「あの、大丈夫?」
その様子があまりに不安を誘うものだったのだろう。不意にアズマヤは近くから声をかけられ、思わずその方向に視線を向けていた。
「大丈夫? 何かあった?」
そこには、ぼさぼさの髪の毛の隙間から心配そうな目を向けてくる一人の男の姿があった。
◇ ◆ ◇ ◆
超人に追われ、怪人になったと聞かされ、不安で仕方なかったヒノエにとって、アズマヤは救世主だった。自分の身に危険が迫ろうとも顧みずにヒノエを助けてくれた。母親の死に直面して、悲しみの底に沈んだヒノエのことも見捨てずに傍にいてくれた。
アズマヤに対する感謝の気持ちはどれだけの言葉を並べても言い切れないほどに深く、だからこそ、ヒノエはこれ以上、アズマヤの近くにはいられないと思った。
怪人である自分はどこかで障害になる。自分がいれば、アズマヤの未来にあったかもしれない幸せを壊すことになる。
そうならないためにも、ヒノエはアズマヤの元から離れるしかない。これで良かったのだ。
何度も自分に納得させるようにそう言い聞かせながら、ヒノエはアズマヤと別れた横断歩道を離れるように歩いていた。
良かった。そう思えば思うほど、心の奥底から染み出してくる感情があることには気づいている。湧き出てくる感情は良かったという思いを押し上げて、ヒノエの心を埋めつくそうとしてくる。
だが、何を思っても、何を考えても、それだけでアズマヤを引き摺り込んだら、それこそヒノエは後悔するだろう。それが分かっているからこそ、あの場でアズマヤと別れることが正しいのだ。
これ以上、アズマヤを傷つけないためにも、ヒノエはもう二度とアズマヤと逢ってはいけない。逢おうと考えることすらいけない。
そう考えれば考えるほど、ヒノエは目を逸らした感情が心の底に溜まっていく感覚を覚える。どれだけ納得させる理由を取り繕っても、溜まっていく感情は消えてくれない。
それが分かっているが、ヒノエは何とかその上に蓋をしようと、自分を納得させる理論を頭の中で作り上げて、自分を納得させるようにその言葉を心の中で呟き続けた。
怪人である自分が、人間であるアズマヤが、後悔が募る前に、これ以上の辛さを味わう前に、アズマヤの幸せを考えたら、自分自身が障害となるくらいなら、様々な考えを頭の中に思い浮かべれば浮かべるほど、心の底から湧き出してくる感情は増えて、その度にヒノエは気づいてしまう。
遅過ぎた。アズマヤと別れるなら、もっと前に決断するべきだった。
病院に行く前に、あの屋敷を発つ前に、あの屋敷にいた頃に、あの屋敷に拾われる前に、初めて逢った時に、ヒノエは何が何でもアズマヤから離れることを選ぶべきだった。
そうしなかったから生まれてしまった感情がある。気づいてしまった気持ちがある。そう分かってしまっても離れるしかない。そうするしかない。
そのように必死に言い聞かせて、ヒノエは納得させようとした。納得できると思っていた。
だが、それを拒絶するようにヒノエの身体が気づいた時には変化を起こした。歩いていく目の前が急に滲み、何が起きたのかと気づいた時には、頬に冷たさを感じた。ゆっくりと手を頬に移動させる。
そこが濡れていることに気づいて、ヒノエは不思議に思う。
「なん、で……?」
そう呟きながらも、ヒノエの目から溢れる感情は止まることなく、ヒノエの頬を伝って、顎の先から落ちていく。
こんなはずではなかった。そう思っても、一度、溢れてしまった感情は消えてくれない。もう溢れなくなるほどに流れるまで、感情は止まってもくれない。
「そんな、つもりじゃ……」
必死に目元を拭いながら、ヒノエは湧いてくる感情を止めようと、静かにかぶりを振った。
「ヒノエさん……? どう、したの……?」
そこで近くから声が聞こえ、ヒノエは止まることのない感情を撒き散らしたまま、その声の聞こえる方に目を向けていた。
そこに驚いた顔で自分を見つめるタテイシが立っていた。