5-11.境界線
唐突に走り出したヒノエを追いかけながら、アズマヤは必死にヒノエの名前を呼ぶが、ヒノエは止まってくれなかった。さっきとは明らかに違う理由での逃走を前に、アズマヤの胸は不自然なほどに早鐘を打つ。
これはただ走っているからではないと分かるほど、アズマヤの胸の内には不安な気持ちが渦巻いていた。何としてでも、ヒノエを引き止めないといけないと思うが、かける言葉がヒノエに届かないまま、アズマヤ達はヒノエが事故に遭ったという横断歩道まで戻ってきていた。
さっきの車は既に立ち去ったのか、その場にはいない。その場所にヒノエが走り込んでいく。ここで分断されたら、もうヒノエに追いつけない。
そうアズマヤが危惧する前で、信号が変わり始めていた。不味いと思って、アズマヤは走る速度を上げようとするが、既に大学までの道のりを全力で走った後のことだ。そこまでの速度は出ず、信号が変わる前に横断歩道を渡り切ることはできなかった。
だが、幸いにも、それはヒノエも同じだった。思えば、ヒノエもアズマヤと同じく走って大学まで行った後だ。そこでいつまでも逃げられるほどの体力が残っているはずもない。
赤信号に捕まり、躊躇うように足を止めるヒノエの後ろを一気に近づいて、アズマヤはそこにあるヒノエの腕をようやく掴んでいた。
「ヒノエさん!? 待ってください!?」
そうアズマヤが声をかけた瞬間、ヒノエの身体が僅かに震えて、振り返りかけた頭がアズマヤの方を向くことなく止まった。
「急に……どうしたんですか……? どうして逃げるんですか……?」
荒れに荒れた息をゆっくりと整えながら、アズマヤはヒノエが逃げないように、がっしりと腕を掴む。言葉は途切れ途切れで、中々にうまく発せられなかったが、ヒノエにはちゃんと届いたはずだ。
質問に答えて欲しい。そうアズマヤは願うが、その前でそっぽを向いたヒノエは一向にこちらを向く気配がない。
「ヒノエさん……?」
その様子にアズマヤが疑問と不安を懐き、思わずヒノエの名前を呼んだ直後、ヒノエは一切、こちらを振り返ることなく、静かに口を開いた。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るんですか……?」
ヒノエが謝る理由はいくつかある。そのどれをヒノエが悪いと思っているのか、アズマヤはちゃんと確認するつもりで聞いていた。
その問いにヒノエはゆっくりと、零すように言葉を発し始める。
「私は……一時の感情で、やってはいけないことをしようとしました……人を平気で傷つけ、私自身が受けた悲しみを再現しようとしてしまった……」
ヒノエが事故に遭った原因を作り出したという女性。その女性を前にして、ヒノエは取り乱したように怒り、女性を自身の冷気で凍らせようとしていた。それが態となのか、結果的に起こってしまっただけなのか、あの場では見分けがつかなかったが、今の発言を聞くに、ヒノエの中にはそうしようと思う気持ちが僅かながらでもあったようだ。
それなら、必死に止めて良かったとアズマヤが安堵を覚える中、ヒノエは僅かにアズマヤの方を向いた。そこで向けられた視線があまりに悲しそうで、あまりに辛そうで、アズマヤの中に生まれていた安堵は一瞬で消え、凍えるほどの不安に襲われる。
「それに……私は……アズマヤさんを傷つけてしまいました……」
そう呟いたヒノエを見たことで、アズマヤは自身の顔にもついた傷のことを思い出す。あまりに強烈な冷気に当てられ、肌が切れてしまったようだが、この程度でヒノエを止められたのなら、安いくらいだとアズマヤは思っていた。
しかし、当のヒノエはそう思えなかったようだ。
「こんなにお世話になったアズマヤさんを……私は……その一時の感情で傷つけてしまった……私は何てことを……!?」
酷く辛そうに語るヒノエを目にして、アズマヤは必死にかぶりを振っていた。
「そんなこと……!? こんな傷、大したことありませんから! ヒノエさんは何も気にしないでください!」
アズマヤはそう言ってみせるが、ヒノエは納得してくれなかった。アズマヤの言葉を否定するように、ヒノエは小さく、弱々しく、ただかぶりを振る。
「私は平気で誰かを傷つけるような人間……いいえ……やっぱり、私は……怪人、なんです……」
ヒノエの言葉がアズマヤの身体に優しく触れて、アズマヤの身体を引き離すように小突いたことが分かった。再び顔を逸らしたヒノエの横顔には、言いようのない悲しみが張りついていて、アズマヤの胸は音を立てて痛む。
「何を言って……違う!? ヒノエさんはちゃんと……!? 俺と何も変わらない人間です!」
アズマヤははっきりと否定の言葉を口にして、ヒノエの呟いた言葉を掻き消そうとするが、ヒノエはそれを許さないと言わんばかりに、吐き出した言葉を抱き締めるようにかぶりを振る。
「私は……怪人なんです……どこまで行っても、もう……だから、やっぱり……アズマヤさんは私と一緒にいない方がいいんです……」
「何を……!?」
悲しそうな表情のまま、アズマヤの方を見ることなく、ヒノエがぽつりぽつりと零す言葉を聞いて、アズマヤは何度もヒノエの言葉を否定するようにかぶりを振っていた。
「そんなことはない!? 辛いこととか、悲しいこととか、そういうことがあって、一時の感情に流されることくらい、誰にだってあります! それは怪人だからじゃない! ヒノエさんが人間だから、そう思えるんです!」
アズマヤはヒノエを説得するように言葉を投げるが、ヒノエの表情は回復しなかった。
「ありがとうございます……アズマヤさんは優しいですね……ずっと、こんな私を助けてくれて……でも、その優しさに頼って、いつまでも私が一緒にいたら、きっと、いつか、アズマヤさんを苦しめることになる……だから、私から離れてください……」
懇願するように告げるヒノエの言葉を聞いて、アズマヤは力強くかぶりを振る。
「こんな私とか……そんなの当たり前じゃないですか……!? 誰だって、助けますよ……俺は……」
そう言いかけてアズマヤは言葉に詰まる。ヒノエを助けることは当然だと思い、その当然を説明しようとしたが、それに相応しい言葉が見つからず、アズマヤは咄嗟に何も言えなかった。
何を言えばいいのか分からない。その気持ちに襲われ、アズマヤが戸惑うその隙を狙って、ヒノエはアズマヤの手の中から自身の腕を引っこ抜いてしまう。
「待っ……!? ヒノエさん!?」
「今までありがとうございました……さようなら……」
優しく、しかし、悲しく、ヒノエが微笑みながら頭を下げて、横断歩道の向こう側に渡っていく。アズマヤは咄嗟にその後を追いかけようとするが、その時には信号が青から赤に変わってしまっていて、アズマヤの足を止めるように車が横切り始めていた。
「ヒノエさん!?」
最後にそう叫ぶが歩くヒノエの足は止まることなく、しばらくした後には信号を待つアズマヤの前から姿を消していた。