5-10.冷たい怒り
「ヒノエさん……!? 少し落ちついて……!?」
一人の女性に飛びかかったヒノエを目にして、アズマヤはヒノエを止めるために割って入ろうとした。そこでその場に押し倒された女性が驚きと怯えに満ち満ちた目をヒノエに向け、ゆっくりと口を開く場面を目撃する。
「何で、ここに……?」
その様子にアズマヤも違和感を懐いて、止めようと伸ばした手をそのまま止めてしまう。ヒノエはこの大学に通っている生徒の一人であるはずだ。それならば、ヒノエがこの大学にいることは何ら不思議ではない。
そのはずが女性はそれがあり得ないことのように呟いた。その意味をここまでの展開から察しないアズマヤではない。
そう思っていると、アズマヤの前でヒノエが静かに口を開く。
「あの場所で、最後に見た光景……その中に貴女の顔を見た……それ以外に人はいなかったはずだから、間違いないと思った……」
ヒノエの声は冷たく、近づいただけで傷つきそうなほどに尖ったものだった。表情はアズマヤの知っているヒノエのどの表情とも違っていて、そこには見たことのない暗い影が差し込んでいる。
「誰かに押された……違う……貴女が押した……そう、ですよね……?」
ヒノエの冷たい追及を受けて、そこに倒れ込んだ女性はゆっくりとかぶりを振っていた。
「違う……私は……何も……何も、してない……!?」
「そんなはずはない!? あの場所には貴女しかいなかった!? 貴女以外にあり得ない!?」
断定的に声を荒げるヒノエが女性を更に強く地面へと押しつける。女性は苦しそうな表情をしながら、必死に否定するようにかぶりを振るが、ヒノエは聞く耳を持たない。
ヒノエの記憶の正確さは分からない。寸前まで思い出してすらいなかった記憶だ。その記憶が完全であるとは言えない以上、ヒノエが正しいことを言っているとは限らない。
女性の発言には違和感がある。確かにヒノエの身に起きたこと自体は知っているようだが、実際に押したかどうかは分からない。
ヒノエが覚えていないだけで、他に人がいて、その人がヒノエを押した可能性はある。その現場を女性はただ目撃しただけに過ぎない。
もしそうであるなら、これは立派な冤罪だ。ヒノエのやっていることは好まれることではない。
「ヒノエさん!? 落ちついてください!? ちゃんと話を聞きましょう!?」
アズマヤはヒノエを止めようと手を伸ばし、ヒノエの身体を女性から引き剥がそうとするが、ヒノエはアズマヤの言うことを聞くつもりがないようだった。
「黙っていてください!?」
力強く、そう叫んだかと思えば、ヒノエは自身を掴んだアズマヤの手を振り払い、再び女性に問い詰め始める。
「正直に言いなさい!? 貴女が私を押した、ですよね!?」
ヒノエが再度、そのように問いかけても、女性はひたすらにかぶりを振るだけだった。自分は何もやっていないと震える唇で呟いて、そこに迫った狂気すら感じさせるヒノエの表情から、逃れようと必死に身を捩っている。
「そんなはずはない!?」
女性の言葉を否定するようにヒノエは叫んで、今度は自分の方がかぶりを振り始める。怒りに満ち満ちた表情は次第に変化して、ゆっくりと悲しみすら感じさせるものに変わったかと思えば、わなわなと唇を震わせ始めている。
「貴女の所為で、私は事故に遭って……こんな身体にされて……それでアズマヤさんを巻き込んでしまって……」
そう呟きながら、ヒノエはゆっくりと俯くように顔を落とす。そこから、ぽたりと女性の胸元に落ちる雫を見て、アズマヤは止めるために伸ばしていた手すら伸ばせなくなる。ヒノエを止めるための言葉も出てこない。
「そして、お母さんの最期に逢えなかった……全部、全部、全部……全部! こんなことになった所為で……もう……もう! 取り戻したくても、取り戻せないのに……どうしたら!」
そう叫ぶヒノエの言葉に、押し倒された女性も言葉を失ったように、ただ怯えた目を向けていた。ヒノエの言葉が響いているのか、状況的にそうなっているのかは分からないが、抵抗するように動かしていた身体も、今は止まっている。
そうかと思えば、そこで女性は違和感に気づいた様子だった。僅かに目を逸らしたかと思えば、ヒノエが掴む自身の身体に目を向けて、何かを察したように表情を一変させている。
「何……これ……冷っ……!?」
そこで女性の服が急速に固まっていることに気づいて、アズマヤはそこで起きている異変の正体を悟った。
このままでは不味いと思い、アズマヤはヒノエを止めるために、慌ててヒノエの身体を掴む。
「ヒノエさん!? 落ちついてください!? 離れましょう!?」
アズマヤはそう叫びながら、ヒノエの肩を掴んでみるが、その程度ではヒノエが離れる様子がない。その間にも、女性の表情には怯え以上の苦しみが見え始めて、アズマヤは時間のなさを理解する。
「痛っ……!?」
女性がそのように声を発する様子を見ながら、アズマヤはヒノエの身体を抱え上げるように腕を伸ばした。脇の下から腕を伸ばし、そのまま上半身を引き起こそうとする。
だが、そこでアズマヤはヒノエの身体から放たれていた猛烈な冷気に当てられ、身体中に痛みを発し始める。冷たさに肌が切れ、手足の感覚を少しずつ奪われながらも、アズマヤは何とかヒノエを引き起こしていく。
「ヒノエさん!? ヒノエさん!?」
アズマヤが必死にヒノエの名前を呼ぶが、ヒノエはアズマヤの制止を聞く様子がなく、振り払おうとするように身体を振ってきた。
「離してください!?」
ヒノエの腕が大きく振るわれ、アズマヤの顔に触れる。鋭い冷気が顔を撫でて、アズマヤの顔に傷を作る。
それでも、アズマヤはヒノエを止めようと必死になって声をかける。
「落ちついてください!? このままだと……!?」
「アズマヤさんには関係がな……!?」
そこでヒノエが叫びながら、アズマヤの方を振り返り、そこにあるアズマヤの顔を見つめて、何かに驚くように固まった。ゆっくりと表情が動揺や焦りを感じさせるものに変わり、アズマヤから僅かに目を逸らす。
それに合わせて、ヒノエの身体から放たれていた冷気も弱まっていき、アズマヤはヒノエが落ちついたと思い、ゆっくりと身体から腕を離した。両腕から胴体にかけての感覚は消え、真面に動かせないほどに固まっている。
「ヒノエさん、落ちつきましたか?」
アズマヤがそう質問すると、ヒノエはゆっくりとその場で立ち上がり、アズマヤから目を逸らしたまま、静かに口を開く。
「アズマヤさん……ごめんなさい……」
そう言ったかと思えば、ヒノエはここまでやってきた道を反対に進むように、その場から一気に走り出していた。
「ヒノエさん!?」
アズマヤは慌ててヒノエを追いかけようと、同じように走り出す。
「ヒノエさん!? 待ってください!?」
再びそう声をかけるが、ヒノエが止まってくれる様子のないまま、二人は大学の外へと飛び出していくのだった。