5-9.サーチ・アンド
「ヒノエさ……!? 待ってくださ……!?」
坂道を駆け上がり始めたヒノエを追いかけて、アズマヤは必死にヒノエを止めようと声をかけるが、その声にヒノエが反応を示すことはなかった。一心不乱に坂道を駆け上がっていく、その先にはヒノエから聞いたばかりの大学が見えてくる。
ヒノエが通っていたという大学だ。
「ヒノエさん……!? 一体、何が……!?」
大学近くの横断歩道に辿りついたことをきっかけとして、ヒノエは閉じ切った記憶の扉を少しずつではあるが開きつつあった。結果的に怪人と繋がってしまった事故が起きた経緯を思い出し、その中で自身を押す手があったとヒノエは証言する。
もしそれが本当なら、それは立派な殺意があっての行動だ。結果的にヒノエが死ななかったとはいえ、殺人未遂は確実だろう。
そう考えるアズマヤの前で、ヒノエは更に扉の向こうに封じられた記憶を手に取ろうとして、ついには道路に飛び出すほどだった。辛うじて命は助かったが、一歩間違えれば、そこで再び轢かれて、ヒノエは今度こそ本当に死亡していたかもしれない。
だが、それらの行動がヒノエの中に何かを落とし込んだようだった。突如としてヒノエは走り出し、現在に至る。
アズマヤはヒノエが急に走り出した理由を考え、それが寸前まで思い出そうとしていた事故に関わっていると察していた。車に轢かれそうになったあの時、何かを明確にヒノエは思い出し、その記憶を頼りに駆け出した先が大学だった。
これをどう考えればいいのかアズマヤには分からないが、アズマヤの考えが間違いでなければ、この行動はあまり良いものではない。新たな問題の種を孕んでいる可能性が十分に考えられる。
「ヒノエさん……!? 一度、止まって……!?」
取り敢えず、一旦、ヒノエを落ちつかせる必要があるとアズマヤは思うが、アズマヤがどれだけ声をかけても、ヒノエが止まってくれる様子はなかった。
アズマヤの声を無視したまま、ヒノエはひたすらに走り続けて、そのまま坂の上にあった大学の敷地内へと駆け込んでいく。時間帯的にも講義を受けている人が多く、多数の学生がいる中を突っ切っていくヒノエを目にして、アズマヤは思わず足を止めていた。
ここに自分が飛び込んでもいいのかと考え、悩んでから、今のヒノエを放ってはおけないと思い、急いで追いかけていく。明らかにこの大学の生徒ではないアズマヤがいることに、構内にいた学生の一部は気づいている様子だった。
どこで呼び止められるか分からないが、ここで外に出されるわけにはいかない。せめて、ヒノエを連れ戻してからでないと、ヒノエが何をするのかアズマヤにも分からない。
そう考えるアズマヤの前に、ようやく先を走っていたヒノエの姿が映った。構内で足を止めたかと思えば、何かを探すように辺りをきょろきょろと見回している。
その表情や視線を目にして、アズマヤは今のヒノエがあまり良くないことを考えているとすぐに分かった。それほどまでにヒノエからは暗く、重い雰囲気が漂っていて、アズマヤも見たことのない顔をしている。
「ヒノエさん……!?」
アズマヤが慌ててヒノエの手を掴むと、ヒノエの目がようやくアズマヤの方を向いた。そこに立っているアズマヤの顔を確認すると、ヒノエはすぐに目を逸らし、そのままアズマヤの方を見ることなく口を開く。
「すみません。今はそれどころではないので」
そう言ったかと思えば、力任せにアズマヤの手を払い除けて、ヒノエは再び構内を走り始める。明らかに様子がおかしいと改めて思いながら、アズマヤもヒノエを止めるために、同じように走り始めていた。
ヒノエは走りながらも、辺りを見回して、頻りに何かを探しているようだった。もしくは誰かを探しているのかと思ってから、アズマヤはヒノエが走り出す前に思い出そうとしていたことを思い出す。
ヒノエは事故に遭った原因が誰かに押されたことにあると言って、更にその先を思い出そうとしていた。恐らく、誰に押されたのかということを考え、その姿を見た可能性を考えていたのだろう。
事故に遭った時の記憶を思い返し、そこで自分を押した人物の姿を思い出そうとする。全く覚えがないのなら、そもそも、その行動に出ていないだろうから、ある程度、誰かの顔を見たという記憶だけはあったのかもしれない。
それが道路に飛び出したあの時に引っ張り出された。ヒノエは自分を押した人物が誰だったのかを思い出し、この場所に向けて走り出した。
そう考えたら、アズマヤはいくつか分かってしまったことに思わず表情を暗くしていた。
ヒノエは間違いなく、その人物を探し出して、問い詰めようとしている。実際に何を言い出すかまでは分からないが、少なくとも、明るい話ではない。ヒノエはしっかりと、その相手の罪を追及しようとしている。
ただ、それ以上にアズマヤの表情を暗くした原因が場所だった。ヒノエの背を押し、意図的にヒノエを事故に遭わせたと思われる犯人のいる場所は、ヒノエの通っている大学だった。
つまり、ヒノエは自身の身の回りの何者かに恨まれ、命を狙われたということになる。その事実がアズマヤに暗く、重々しい感情を与えてくる。
少なくとも、アズマヤの目に映るヒノエは人に恨まれるような人ではない。それが身近な人間に、明確に命を狙われることになるなど、何があったらそうなるのだろうかと不思議で仕方ない。
どのように恨みを買ったのか、アズマヤには微塵も想像できない。それがどこか恐ろしさすら与えてくる。
アズマヤはどちらかをちゃんと見られていない可能性がある。そのように思いながら、少し前で再び足を止めるヒノエの背を見る。
ここで本当に止めないと、ヒノエはどのように走り出すか分かったものではない。一度でも行き過ぎてしまえば、流石のアズマヤでも引き戻せないだろう。
「ヒノエさん……!?」
アズマヤは再びヒノエの手を握った。
「一度、落ちついて、ちゃんと話し合いましょう……!? 今のヒノエさんは見るからに冷静ではありません……!?」
アズマヤはヒノエの説得を試みようとするが、肝心なヒノエはアズマヤの方を見ることなく、どこか一点を見つめたままだった。
「ヒノエさん……?」
その様子に嫌な予感を覚えた瞬間、ヒノエはアズマヤの手を振り払い、一気にどこかへと走り出した。
「ヒノエさん……!?」
アズマヤは急にヒノエが駆け出したことに驚きと焦りを覚えていた。このままでは不味いと思い、急いでヒノエを追いかけ始めるが、先に駆け出したヒノエの方が流石に速い。
ヒノエは視線を向けた先にいる一人の学生に駆け寄っているようだった。ヒノエと年が近いように見える、眼鏡をかけた少しオドオドとした女性だ。
その女性に一目散に駆け寄っていくヒノエの存在に気づいたのか、女性の方もヒノエの方を見て、酷く驚いた表情をしていた。
「貴女、なん……!?」
女性が何かを言いかけた瞬間、ヒノエはその女性に飛びかかって、その場に押しつけるように伸しかかっていた。女性は抵抗する暇もなく、ヒノエに押し倒され、衝撃に顔を歪めている。
「見つけた……」
そこで息を切らしながら呟かれたヒノエの声は、ヒノエの身体から発せられる冷気のように鋭く冷たいものだった。