5-8.フラッシュバック
世間一般的な常識とは異なり、この世界では誰でも怪人となり得る可能性がある。改造手術を受けてしまえば、それだけでその人は人間ではなくなる。そこからは自身の身体を弄った人に従うか、反抗するかで立場が変わる。
一方を超人と呼んで、一方を怪人と呼ぶ。
そして、ヒノエが立ったのは怪人側だった。そちらを選んだというよりも、気づいた時にはそちらに立っていたというくらいだろう。ヒノエの話から聞く、行き当たりばったり感は現状を望んでいないことがひしひしと伝わってくるものだった。
どうして、ヒノエがその立場に立つことになったのか。ヒノエは怪人となった経緯について、曖昧な記憶しかない様子だった。
事故に遭ったことで生死の境を彷徨い、その怪我の治療という名目でヒノエは改造手術を強制的に受けさせられた。気づいた時には身体が改造され、訳も分からないまま、ヒノエは閉じ込められた施設から抜け出し、怪人と呼ばれるようになっていた。
その根本と言える事故の記憶が、アズマヤの目の前にもある横断歩道を見たことで蘇った。ここかもしれないと断定的な言い方ではなかったが、少なくとも、事故に遭ったという瞬間の記憶が呼び起こされたことは間違いないだろう。横断歩道という場所は確実と言えるかもしれない。
「信号待ち……信号を待っていたんです……」
両手で頭を抱え込みながら、ヒノエはゆっくりと俯くように屈んでいた。頭の奥底に引っかかっている記憶を必死で掘り起こしているのか、視線は地面の奥を見つめるように遠く、神経のほとんどが意識の方に向いているようだ。
「そうしたら……そう……衝撃があって……」
「衝撃?」
「何かは……でも、強くぶつかって……気づいたら……身体が道路の真ん中に……」
頭を抱えていた腕の一本が移動して、ヒノエはゆっくりと自分の背中に触れる。肩越しに背中を触りながら、その時に受けた感触を思い返しているようだ。
「ぶつかった……? いや、あの時のあれは……」
不意にヒノエがアズマヤの方を向いて、唐突にアズマヤの手を掴んできた。急に掴まれたこともそうだが、その時のヒノエの手から漂う冷たさが手袋越しでも伝わってきて、アズマヤは思わず目を丸くしていた。
アズマヤの手を掴んだヒノエは自分の背中へと手を誘導し、そこでヒノエの背中に触れさせてくる。押しつけるように手を動かされ、アズマヤが流石に動揺していると、ヒノエは不思議そうにアズマヤの方を見てきた。
「アズマヤさん? すみません、押してもらえますか?」
「えっ? あっ、えっ?」
アズマヤは戸惑いながら、ヒノエに促されるまま、ヒノエの背中を僅かに押す。その感覚に神経を尖らせるようにヒノエは目を瞑って、少しずつ苦しそうな表情をしていた。
「近い……気がする……」
「近い? 何のことですか?」
「事故に遭う直前……そこで受けた衝撃はこんな感じかも……?」
やや不安そうでありながらも、ヒノエがそう言ったことでアズマヤは驚いていた。ヒノエの背中に触れる自身の手を見てみるが、その手は見間違うこともなく、明らかにヒノエの背中を押しているものだ。
「えっ? でも、これって、ぶつかったとかじゃなくて……」
「押されたのかもしれません……」
ヒノエの呟きを聞きながら、アズマヤは横断歩道から右へ左へと視線を移動させてみる。そこを通る車の多さを前にして、この場で冗談でも背中を押そうとは考えないだろうと想像がついた。
「でも、もしそうだとしたら、それって殺人未遂になるんじゃないですか?」
この場で故意に押したとしたら、それは明確な殺意があってのことだろう。ヒノエを殺害しようと思って背を押した。誰の目にも明らかな犯罪行為だ。
しかし、アズマヤはそれ以上にその事実を信じられない理由があった。今日に至るまで、アズマヤが行動を共にし、見てきたヒノエの姿は誰かに命を狙われるようなものではなかった。怪人となってしまったことで超人になってしまった今なら未だしも、それより以前なら、狙われるような理由が一つもないと言えるだろう。
「そもそも、どうして、ヒノエさんの背中を……?」
湧いてきた疑問を口にしてから、そのようなことをヒノエに聞いても分かるはずがないとアズマヤは気づいた。たった今、ヒノエは突き飛ばされたことを思い出したばかりだ。その頭で自身の命が狙われた理由まで分かるとは思えない。
「もう少し……もう少し……」
ヒノエが両手で頭を抱え、ゆっくりとその場に屈み込むように俯いていく。目は固く閉じられ、苦しそうな表情は頭の奥底に引っかかった記憶を何とか引き戻そうとしているようだ。
「影が……」
そう呟いたヒノエがその場で振り返った。誰もいないその場所をじっと見つめたまま固まって、ヒノエは何かを思い出そうとしている。
「ヒノエさん?」
何かに取り込まれたように、その場をじっと見つめたまま、動かなくなったヒノエの様子が心配になって、アズマヤは思わず声をかけていた。ヒノエはその言葉に答えることなく、いつまでも振り返ったその場所をじっと見つめている。
かと思えば、不意に足を動かし始めて、未だ赤から変わらない横断歩道に飛び出していた。
「ヒノエさん!?」
ヒノエが飛び出してくるとは思ってもみなかったのだろう。横断歩道をゆっくりと背中向きで渡ろうとするヒノエの姿を目にして、こちらに迫っていた車の運転手が酷く慌てた顔をしていた。
アズマヤも轢かれると思い、咄嗟にヒノエの元に手を伸ばす。下がろうとするヒノエの腕を何とか掴んで、アズマヤは力任せに腕を引っ張った。
アズマヤとヒノエが歩道に倒れ込む。迫ってきていた車は大きくハンドルを切って、反対車線に割り込みながら、何とか横断歩道の手前で止まっていた。
「おい、何やってるんだ!?」
車から顔を覗かせた運転手が怒鳴ってくる。ヒノエはアズマヤの胸の中に倒れ込んだまま動く気配がなく、アズマヤは慌てて運転手に頭を下げる。
「す、すみません!」
「死にたいのか!?」
そう運転手が怒鳴ってきた瞬間のことだった。不意にヒノエが立ち上がったかと思えば、運転手に背を向けたまま動かなくなった。
「ヒノエさん……?」
「何だ、おい……? 何か言いたいことでもあるのか……?」
ヒノエの異様な雰囲気に運転手も戸惑うように呟いた直後、ヒノエはばっとその場で振り返って、そこに停車した車の方を向いた。
「ヒノエさん? 何を……?」
ヒノエが何か言い出すのかと思ったアズマヤがヒノエに声をかけようとした瞬間、ヒノエは青に変わったばかりの横断歩道を一気に駆け出していた。
「ヒノエさん!?」
「お、おい!?」
思わず運転手も声を上げる前で、駆け出したヒノエを追いかけるために、アズマヤも同じように走り出す。逃げようと思ったのかとアズマヤは一瞬考えてしまったが、すぐにその考えを払拭するようにヒノエは横断歩道の更にその奥へと走っていってしまう。
そこにある坂道を上り始めた姿を見て、アズマヤはヒノエがどこに向かって走り出したのか察するのだった。