5-7.真人間時代
昼間の喧騒がそれなりに飛び交う中にいたはずが、アズマヤの耳は気づいたら静寂の中に落ちていた。周囲から一切の音が消え、脳の中に飛び込んだ音の解析に時間を要している。ヒノエの口にした言葉を聞いたはずが、頭はそれをすぐに飲み込もうとしてくれない。
ゆっくりと染み渡るように言葉の意味を理解して、アズマヤの表情は唖然としたものに変わっていた。言葉と声を失ったように口をぽかんと開けてから、ようやく忘れかけていた声を発する。
「えっ……?」
その声に何か気づいたのか、ヒノエは慌てた様子でアズマヤの方を振り返り、必死にかぶりを振り始めた。
「と言っても、あれですよ!? 断ったんですよ!?」
必死に訴え始めたヒノエの言葉を聞きながら、アズマヤはさっきまで顔を見合わせていたタテイシの姿を思い返す。
アイドルやモデルと言われても驚かない端正な顔立ちに加え、ヒノエと接している振る舞いは人当たりが良さそうで、全体的に爽やかな印象だった。
それだけの人から告白を受けて断ったのかと考えたら、アズマヤの中に純粋な疑問が湧いてきていた。
「どうして?」
思わずそう聞いてしまってから、きょとんとした様子のヒノエを見つめて、アズマヤは何か間違えたと思い、必死にかぶりを振る。
「い、いや、純粋に疑問に思っただけで、別に深い意味は何も……!?」
「いえ、別に何かを思ったとか、そういうわけでは……」
アズマヤの意味の分からない言い訳にヒノエも戸惑った様子を見せながら、自分の中の気持ちを確かめるようにやや俯いていた。
「以前から、お見かけしたことはあったのですが、それだけのことで特に会話があったとか、そういうことではなかったんです。あったとしても、世間話にも満たない簡単なものだけというか。そうだったので急に好意を伝えられても、それをどう思ったらいいのか私には分からなくて」
戸惑いの表情を浮かべるヒノエに、アズマヤは口にしてしまった疑問の答えとして十分に納得していた。
接点と言える接点がない相手から、急に告白されたとしても、その気持ちを素直に喜んで受け入れるには幾分ものハードルが存在するだろう。それは当然のことで、ヒノエが断ったことにも納得できた。
と同時に、アズマヤは不思議なほどに落ちついた気持ちを得られて、自身の気持ちに疑問を懐いていた。置き忘れた物を思い出し、取りに戻ってみたら、そこにそのまま置かれていたことに対する安堵感のような気持ちに包まれ、アズマヤは自分自身で何に安堵しているのだろうかと不思議に思う。
「その後、すぐにこんな状況になってしまったので、さっきもどう話したらいいのか分からなくて」
「それでちょっと困った感じだったんですね」
「えっ? 困っているように見えましたか?」
「隠しているつもりだったんですか?」
割と表情にしっかりと出ていたが、意図的ではなかったのかと不思議に思っていると、同じようにヒノエも驚いた様子でアズマヤの顔をじっと見てきた。頭から袋を被って、物陰に隠れていると思っているようなものだ。全身の大半は出ていることに気づいてない様子に、アズマヤは思わず笑みを零す。
「ヒノエさんって、可愛いですね」
「はぁい!?」
湧いてきた気持ちを口にしながら、アズマヤはやはりヒノエを一人で行かせるわけにはいかないと思い始めていた。この様子を見ていたら、ヒノエを一人にさせることに不安が湧いてくることも当然だ。
「き、きき、急に何を!?」
何故か慌てふためくヒノエを見つめながら、アズマヤはさっきのヒノエの言葉を何とか撤回させようと言葉を考えていた。考え直すように言っても、ここまでの付き合いで分かっているヒノエの性格を考えれば、素直に聞いてくれるとは当然思えない。
ここでアズマヤと別れて、どこに向かおうとしているのか分からないが、ヒノエの自宅には帰れないはずだ。流石に逃げたヒノエが帰る可能性を超人が考えていないとは思えない。
そうなるとヒノエは他に当てがあるのだろうかと考え、アズマヤはふと自身がヒノエについて何も知らないことに気づいた。
さっきのタテイシのこともそうだが、ヒノエが怪人になる前のことをアズマヤはあまり知らない。母親のことは最初から聞いていたが、その母親のことも直接的に病院に向かう時まで、あまり深くは知らなかった。
そして、今となっては本当の意味で知ることができなくなったと言えるだろう。ヒノエと接しているだけでは見えてこない一面が完全に隠されたかもしれない。
そもそも、そういう部分を何も知らないで、アズマヤはどうしてヒノエに行ってはいけないと言えるのだろうか、と疑問に思う。
ヒノエを止めたいのなら、少しだけでもいいから、ヒノエの知らない部分を知るところから始めるべきだ。まだヒノエがここにいる内に、何とか掴み切らないといけない。
そう思ったアズマヤが視線をヒノエから周囲へと移動させていた。そこに広がる光景を目にして、アズマヤはそこが自分の知らない一部であることを思い出す。
「ヒノエさんはこの近くの大学に通っているんですよね?」
「えっ? え、ええ、はい。そうですけど、アズマヤさん?」
「せっかくなので、ヒノエさんがここでどのように暮らしていたか聞いてもいいですか?」
「どうして、ですか?」
ヒノエからのまっすぐな問いを受けて、アズマヤは言葉を探す。流石にここでヒノエを引き止める言葉は言えない。
とはいえ、嘘もつきたくない。そんな気持ちが湧いてきて、自然と一つの言葉が口から紡がれていた。
「何も知らないのは嫌だと思ったからです。少しでもいいから、知りたいと思ったんです」
その言葉を聞いたヒノエがどう思ったのかは分からない。その言葉をどのように受け取ったのかも分からない。
だが、ヒノエはそれ以上の疑問を口にすることなく、アズマヤと同じように周囲の景色を見つめてから、近くの道路を指差した。
「その道を向こうにまっすぐ行くと大学があるんです。普段は向こうにある駅から、ずっとその道を通って大学に通ってました」
そう言いながら、歩き出したヒノエを追いかけて、アズマヤは指差された道へと歩み出る。大学があるという方向に歩いていけば、すぐのところで丁字路にぶつかって、そこの横断歩道で立ち止まる。
「大学はその奥の坂道を上った先です」
まっすぐ奥に伸びていく坂道を指差し、ヒノエがそう言った。目の前の信号を見つめて、その色が赤から青に変わる瞬間を待つ。
「いつも、ここを渡って……」
そこまで口にして、不意にヒノエの言葉が止まる。その唐突な静寂にアズマヤは疑問を懐き、ヒノエの方を見ると、ヒノエはまっすぐに横断歩道を見つめたまま、何かに驚くように目を見開いていた。
「どうしました?」
「こ、こ、かも……?」
「ここ?」
「はい……ここかもしれません……」
「何のことですか?」
急に何かを言い出したヒノエにアズマヤが戸惑っていると、ヒノエはじっと横断歩道を見つめたまま、自分の頭を抱えるように押さえて、震える声を零す。
「怪人になる前……事故に遭ったのは、ここかもしれません……」
「えっ?」
その言葉にアズマヤは驚きながら、ヒノエが見つめる横断歩道を同じように見つめていた。