5-6.トライアングル
嫌味のない軽やかな響きの声だった。爽やかな風のような耳触りの一方、耳の中に残って不思議と消えていかない声だ。
その声に違わず、そこに立つ男の見た目も爽やかなものだった。どこかのアイドルグループに属していると言われても驚かない整った顔立ちに、清潔感のある服装、髪の先から爪の先まで手入れが行き届いている様子を見れば、男女共に嫌な印象は懐かないだろう。
こちらを見つめる目には、発見に対する驚きと共に、どこか安堵した色も見て取れた。まっすぐにヒノエの方を向いていて、ヒノエの名前を口にしたことから、ヒノエの知り合いであることは間違いないだろう。
「ヒノエさん、だよね……?」
再度、質問を投げかける時には、明確に喜びの色が表情に見て取れた。少なくとも、ヒノエの怪人という素性を知っていて、声をかけてきたという雰囲気には見えない。
そうアズマヤは感じたが、ヒノエの様子はあまり芳しくなかった。登場した男の視線に、やや困ったような顔を浮かべ、どこか目を合わせづらそうに、頻りに顔を背けているように見える。
「は、い……お久しぶり……ですね……」
ようやく男の問いに答えたヒノエの言葉は、やや遠慮がちに発せられていた。どこか距離を感じる言い方だが、その部分を気にしていないのか、男はヒノエの返答にようやく膨らみかけていた喜びを、花のように開いていく。
「やっぱり、そうだ! どうしてたの? 最近、大学を休んでいたよね?」
ヒノエの返答を聞いた男が喜びと心配交じりの言葉を向けたことで、ヒノエの身に起きた諸々を把握することなく、ヒノエが急にいなくなったと心配していた知人の一人かと理解した。
そう言えばヒノエの通っている大学はこの近くにあると言っていた。同じ大学に通っている友人なのかもしれない。
もしくは、とアズマヤが想像する中で、ヒノエは戸惑った様子を隠すことなく、男の言葉に返答していた。
「えっと……いろいろ、ありまして……すみません……」
「いや、別に謝ることじゃないよ。ただ勝手に心配していただけで。元気なら、良かったんだ」
「は、い……そうですね……元気です……」
喜ぶ男とは対照的にヒノエの反応はやはり、どこか一歩引いたものに見えた。その場に居づらそうな雰囲気だけを漂わせて、男が接近すると少しだけ身体を後ろに下げている。
どうしたのだろうかとアズマヤが思っていると、そこでようやく、そこにいる男はアズマヤの存在に気づいたようだった。ヒノエから視線を男に戻したところで目が合って、じっとアズマヤの顔を見つめてくる。
「えっと……こんにちは……?」
それまでとは打って変わって、不意に感情が見えなくなった瞳に戸惑いながら、アズマヤが軽く頭を下げてみると、男はそこに言葉を返すことなく、ヒノエの方を向く。
「弟さん?」
そう聞いてから、ヒノエの返答を待つことなく、男はかぶりを振って、「いや、違う」と断定的に口にする。
「君に弟はいないよね? なら、誰? 親戚の子?」
男はやや早口になりながら、ヒノエに質問を投げかけていた。その声からは最初に感じた爽やかさが消え、どこかねっとりと鼓膜に張りつく感覚を覚えさせる。最初に感じた感覚から、不思議と耳に残ると思った感覚だけが残った声に、アズマヤは強い戸惑いを覚えた。
この人は何なのかと思っていたら、ヒノエが困ったようにアズマヤの方を向いて、迷ったように唇を動かしていた。
説明がしづらい。それは恐らく、アズマヤと目の前の男、両方に対する感想だろう。そう想像がつく表情に、アズマヤは自分から話すべきだと思った。
「初めまして、東野耀介です」
「アズマヤ……ヨースケ……? 聞いたことのない名だ」
「ま、まあ、そうでしょうね……えーと……」
「俺は立石颯だ。君はヒノエさんの何だ?」
自己紹介を簡潔に済ませて、最低限の礼儀は果たしたと言わんばかりに、タテイシが質問を投げかけてくる。その問いかけにアズマヤはどう答えようかと悩み、自分の立場を考えた。
「怪人となったヒノエさんを助けた者です」
最初にその言葉が頭に浮かんだが、流石にそれは言えないとアズマヤは即座に捨て去った。次に他の関係性を思い浮かべた時に、自然とアズマヤは今、ヒノエが自分の家にいる事実を思い出す。
「ヒノエさんを一時的に預かっている者です」
それも経緯を知らなければ意味の分からない説明なので、タテイシに対する自分の説明としては不十分だ。
「俺は……高校生です」
結果、アズマヤの中に浮かんだ回答はもっと無難で、そして、最もタテイシの求めている内容の伝わらないものだった。
それを聞いたタテイシは露骨に眉を顰めて、怪訝げにアズマヤを見てくる。何の説明にもなっていないことは言った自分でも分かる。
これだけの視線を向けてくるということはやはり、とアズマヤが思っていると、不意にヒノエがアズマヤの手を掴み、アズマヤとタテイシはほとんど同時に驚きの表情を浮かべていた。
「アズマヤさんは……! 私の友達です。あの、急いでいるので、今日は失礼します」
ヒノエはそう告げて、タテイシに頭を下げると、アズマヤの手を引いたまま、その場から離れるために歩き出そうとした。
その様子を見たタテイシが慌てて身を乗り出し、ヒノエの肩を掴もうとする。
「ちょっと待って!? どういうことか、ちゃんと説明を……!?」
そこでヒノエは伸ばされたタテイシの手から、反射的に避けるように身を逸らした。タテイシの手が虚空を掴み、タテイシの表情は愕然とした、寂しげなものに変化する。
事情を知っているアズマヤなら、ここで身体に触れられたら、怪人となった事実が露呈すると恐れての行動だと分かるが、それを知らないタテイシからしたら、ヒノエに避けられたと感じたことだろう。
ヒノエもそのことに気づいたのか、若干、申し訳なさそうな顔をしながらも、説明はできないと諦めるように頭を下げていた。
「すみません。また今度」
そう告げて、ヒノエは足早にその場を離れていく。アズマヤは手を引かれ、ヒノエと同じように歩き出しながら、大丈夫なのかとタテイシの方を振り返ると、そこでは呆然とした様子でヒノエの背中を見つめるタテイシの姿があった。
どういう関係か分からないが、気の毒だと思っていると、一瞬、タテイシと目が合う。そこでタテイシの表情が僅かに変化したように見え、アズマヤはその様子に妙な寒気を覚えるが、その変化を詳しく確認する前に、ヒノエはタテイシの前から去るように道を曲がってしまう。
「あっ、す、すみません……!?」
そこで不意に我に返ったように、ヒノエがアズマヤの手を放した。確かにヒノエに手を握られたことで、若干の冷たさは感じていたが、手袋を嵌めていることもあってか、痛みを覚えるほどではなかった。
「いえ、大丈夫ですけど、さっきの人はいいんですか? お友達とかでは?」
去り際に見た姿を思い返し、心配した様子で訊ねると、ヒノエは不意に目を逸らし、やや言いづらそうに口を開いた。
「えっと……さっきの人は友達というか……何というか……」
「えっ? 違うんですか?」
「その……れたんです……」
「はい?」
「一度、告白されたんです……」
「は、い……?」
やや俯きながらヒノエが口にした一言を聞いて、アズマヤの中を流れていた時間が止まり、周囲を漂っていた雑音が綺麗さっぱりと消えていた。