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5-3.後悔の濁流

 アズマヤの家に泊まることが決まったヒノエには、使われていなかった客室が宛がわれた。今のヒノエの様子を見ていたら、一人にすることは不安でしかないが、流石にアズマヤと同じ部屋にヒノエを置くわけにもいかない。

 アズマヤはヒノエを客室に案内し、そこを自由に使っていいことを説明してから、ヒノエの様子に目を向ける。


 ヒノエの目は未だ現実に向けられていないように見えた。悲しみを抱えたというよりも、本当の意味で悲しいと感じる手前に立っている。ここから母親の死を実感すればするほど、ヒノエの心の奥からは悲しみが湧き出てきて、今以上にヒノエを苦しめるだろう。


 それが分かっているから、ここでヒノエを一人にしてもいいのかと悩んでしまうが、ヒノエ自身で向き合うことを決めないと、これは仕方のないことだ。アズマヤが何かを言って、ヒノエの気持ちを導けるわけではない。それができたとして、それでいいというわけでもない。


「何かあったら、声をかけてくださいね。俺は隣にいますから」


 そう言って部屋を出てから、アズマヤの足は自室に向かおうとして、そこでピタリと止まった。何となく、ここから離れてはいけない気がして、アズマヤは客室の前に座り込んでいた。


 アズマヤとヒノエの身に降りかかった災難は、災難という言葉で片づけられるものではなかった。とてもじゃないが信じられない話を突きつけられ、それ以上に辛い現実を身体に教え込まれた。

 一瞬でも違えれば、気が狂いそうな時間もあって、ヒノエも耐え難い恐怖の中に置かれたはずだ。それでも、自我を保ち続けられた理由の中に、ヒノエは母親のことが含まれていただろう。


 それが亡くなってしまった今、ヒノエを繋ぎ止めていた糸は切れ、今のヒノエは気持ちを含めた自分自身の全てがどこに向かえばいいのか、分からなくなっているのかもしれない。

 それを拒絶するように思考を閉ざした。自分自身を守るために、そうせざるを得なかった。屋敷で受けた恐怖以上にヒノエを苦しめている事実がアズマヤの心も締めつけてくる。


 ヒノエなら、いつか立ち直れる。次に進むだけの気持ちを作れる日が来る。そうは思うのだが、その時がいつなのか、その時までヒノエは今のままなのか考え、アズマヤは少し寂しい気持ちになる。その理由は分からないが、その理由を深く考えてしまうと、いらないことをしてしまいそうだと思い、アズマヤはそのまま廊下で突っ伏すように顔を伏せた。


 そこから、アズマヤの記憶は飛ぶ。溜まりに溜まった疲労と、久し振りに家に帰ってこられた安堵感もあって、アズマヤの身体を猛烈な睡魔が支配したようだ。いつの間にか、意識を失っていたことに気づいて、アズマヤは慌てて顔を上げた。どれくらい眠っていたのだろうかと考えながら、アズマヤは反射的に場所を確認するように、周囲へと目を向ける。


 そこで客室から、ゆっくりとヒノエが出てくるところを目撃した。思わぬ光景に目を疑いながら、アズマヤは慌てて立ち上がろうとする。


「ヒノエさん……!? どうしました……!?」


 そう聞くとヒノエがゆっくりとアズマヤの方を向いて、じんわりと染み出すように悲しみを表情に見せた。震える唇や湧き出るように涙が零れる様子を目にして、アズマヤはヒノエがようやく悲しみと向き合えたことを察する。


「アズマヤ……さん……母が……お母さんが……いなくなっちゃいました……」


 そう呟くと共にダムが決壊するように泣き崩れたヒノエを前にして、アズマヤはどこか安堵しながらも、胸の奥が締めつけられる気持ちになり、ゆっくりとヒノエの身体を抱き締める。氷を抱いているのかと思うほどの冷たさが触れて、それが今のヒノエの悲しみをそのままに表現しているようだ。


 アズマヤはヒノエが落ちつくように優しく声をかけながら、ヒノエを客室の中に連れていく。そこに座らせて、アズマヤはただヒノエが落ちつくまで、隣で待つことにした。

 やがて、ヒノエはぽつりと零すように言葉を落とし始める。


「私が辛い時……悲しい時……寂しい時……どんな時でも、母は気づいて、私の近くにいてくれました……いつでも、私は母がいたからこそ、今日まで生きてこれた……それは間違いないことなんです……」


 ゆっくりと俯いたまま、これまでの時間を思い返すように呟くヒノエの姿に、アズマヤはただ黙って頷くことが精一杯だった。今のアズマヤには、やはり、ヒノエにかけられる言葉が思いつかない。何かあるとも思えない。


「それなのに……私は……」


 そう口にした途端、再びヒノエの両目から溢れんばかりの涙が吹き出し、ヒノエは両手で顔を覆っていた。


「母の最期に……一緒にいて、あげられなかった……母を一人で逝かせてしまった……それが本当に……本当に……悲しくて……悔しいんです……」


 ヒノエの零した本音を聞いて、アズマヤはずっとヒノエが落ち込んだまま、ひたすらに自分の殻の中に籠っていた理由をようやく理解した。


 母の死を信じたくなかった。それは単純に別れを受け入れられないからではない。母を見送れなかった自分自身に対する落胆の気持ちも相俟って、ヒノエはそのことを全て受け入れるまでに時間を要してしまったのだろう。


 そうしないと、ヒノエは悲しみと同じくらいの怒りに塗れて、アズマヤのことすら真面に見てくれなかったかもしれない。それが分かっているからこそ、ヒノエは自分自身と周りを守るための選択を選んだ。


「どうしたら……どう謝ればいいんだろう……? 私は……お母さんに何を言えば……」


 心の内側を抉るように居座り続ける後悔を抱え、ヒノエは何度も答えの出ない自問自答を繰り返していた。そこにアズマヤが解答をあげたい気持ちはあるが、今のアズマヤにヒノエの気持ちを納得させられるだけの方法が思いつくようには思えない。


 今のヒノエを納得させられるとしたら、それは亡くなった母親だけだが、それはもうこの世にいない以上、ヒノエはただ自分が納得できる瞬間を待つしかない。

 それが来るのかどうかも分からないが、ヒノエはそれ以外の方法では、きっと納得しないだろうとアズマヤは思った。


「お母さん……また逢いたかったよ……」


 そう呟いたヒノエの小さな背中を見守り、アズマヤは何とかして、ヒノエを亡くなった母親に逢わせてあげたい気持ちになった。せめて、一瞬だけでもいいから、どこかで逢える機会があればいいのに、とアズマヤが思ったところで、まだ聞き切れていなかった話があることをアズマヤは思い出す。


「そうだ……お葬式……」

「えっ……?」


 アズマヤの呟きを聞いて、ヒノエが思わず顔を上げていた。その表情は泣き濡れたまま、アズマヤの言葉に僅かな驚きを見せている。


「お葬式……?」

「そう。クスノキさんから、ヒノエさんのお母様がどうなったのか、まだ詳しく聞けていません。お葬式はどうするのかとか、そういう話もあって当然だと思うんですが、どうなったんでしょう?」

「そういえば……」


 ヒノエはそう言ってから、何かを思い出したように立ち上がって、ふらふらとした足取りで部屋から出ていこうとする。


「ヒノエさん? どうしました?」

「私以外に連絡が行くとしたら、限られているはずですから……母がどうなったのか、聞いてみようと思います……あの……電話をお借りしてもいいですか……?」


 ヒノエにそう聞かれ、アズマヤは頷いて、ヒノエを固定電話の前まで案内する。そこでヒノエはどこかに連絡を取り始めて、ヒノエの母のことを聞いていた。


 それによって、ヒノエの母である檜枝凍花の葬儀は既に執り行われたこと、遺体は火葬された後、お墓に入れられたことをヒノエは知るのだった。

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