4-28.犀川姫乃
「うがぁああああ!?」
瞬間的に膨らむ激痛が右腕全体を覆って、ヒメノは堪え切れない声を上げていた。肉も骨も筋肉も神経も血管も、何一つとして関係なく、全てが捻れた腕からは圧倒的な痛みだけが伝わってくる。それ以外の感覚は一瞬で消え去った。
「ヒメ……ノ……様……!?」
立ち去りかけたサラさんがヒメノの絶叫を聞いて足を止めた。こちらを心配そうな表情で振り返り、そこで捻転するヒメノの右腕を目撃し、絶句している。
「……から……」
ヒメノは耐え難い激痛に襲われながら、何とか表情を取り繕おうとする。それがどれだけ不可能と分かっていても、今はそうするしかない。そう思いながら、ヒメノは小さく口角を上げてみるが、残念なことに笑みにはならない。
「…えから……サラさ……は……って……」
腕から伝わる痛みが息すら制限をかけて、言葉は途切れ途切れにしか発せなかった。ヒメノは何としてでもサラさんを逃がそうと伝えるが、サラさんは足を止めたまま、すぐには動き出してくれない。
「……丈夫やから……サラさんは……はよ行って……!?」
無理矢理に痛みを噛み殺し、ヒメノは腹に力を込めて、できる限りの声を発した。それでも、声はいつもと同じか、それより小さいくらいしか出なかったが、さっきの言葉よりはサラさんに届いたようだ。
ようやくサラさんが戸惑いながら、その場を立ち去るような動きを見せるが、それはカザリの力の影響か、ヒメノを置いていくことへの躊躇いか、緩慢なもので中々に立ち去ろうとはしない。
その動きを歯痒く思いながら、ヒメノは右腕に目を向けて、ズタボロになった様子を確認する。
ヒメノの怪人としての力は口から治癒効果のある唾液を分泌することだ。それを利用すれば、対象者が死亡していない限り、ある程度の傷や病気は治せる。毒に対しての耐性を生むことも可能だ。
だが、その力にも明確な弱点が一つ存在する。
それは、ヒメノ本人には一切の効果を発揮しない、というものだ。
つまり、ヒメノがどれだけ唾を溜めて飲み込もうとも、捻れた右腕が元のように回転することはない。ズタボロになったまま、誰かの手で反対側に捻ってもらうしかないが、それで回復するものではない。
右腕で膨らむ痛みが絶望を連れてくる。ヒメノの右腕は戻ってこない。それは現時点で、決定的な事実だ。
それでも、サラさんを殺害されないためには、ここでヒメノがツイステッドを食い止めるしかない。そのためにヒメノは身体を大きく振り払い、背後にいるツイステッドを追い払った。身体を動かしただけで右腕が痛みを生み出し、ヒメノは気絶しそうなほどの激痛に襲われるが、奥歯を噛み締めて、何とか意識だけは飛ばさないように努める。
「ににに、逃げないで……」
ツイステッドがヒメノの動きから距離を取り、サラさんを指差しながら、そう言ってくる。その声に気を引かれることなく、サラさんは振り返って立ち去ろうとし、その姿を確認したヒメノが安堵する。
取り敢えず、サラさんだけは逃がせる。そう確信したヒメノがツイステッドと向き直った。
そこでツイステッドが慌てたように口を開いた。
「ににに、逃げるなら、ここ殺しちゃうよ……?」
「……んなこと……せるわけが……ろうが……」
ツイステッドの呟きにヒメノは辛うじて声を発し、反論する。意地でも、ここは通さない。サラさんの後は追わせない。
そう考えるヒメノの前で、ツイステッドは小さくかぶりを振る。
「ちち違う……」
「……にが……がうねん……?」
「たた対象……そそそ、そっちじゃない……」
そう呟いて、ツイステッドが指を向けた先には、逃げようとするサラさんがいる。
「……ういう……味や……?」
ヒメノが疑問に思いながら、ツイステッドに聞こうとした直後、ツイステッドが地面を這うように動き出し、ヒメノの近くに迫ってきた。
咄嗟にヒメノは左足を振り上げて、接近するツイステッドを追い払おうとする。
だが、その手前でツイステッドはブレーキをかけたように停止し、宙を切るヒメノの左足に手を伸ばしてきた。
(あかん……!?)
そう思った時にはヒメノの左足にツイステッドの手が触れ、ヒメノの左足は一瞬で捻れていた。再び瞬間的に痛みが膨らんで、ヒメノの全身を駆け巡る。意識すら奪おうとする痛みに、ヒメノは絶叫し、その場に崩れ落ちた。
「あがぁああああああああ!?」
その声が再びサラさんの動きを止めてしまう。心配そうに振り返り、そこで左足が前後反対になるほどに捻って、その場に崩れ落ちるヒメノの姿を発見し、言葉を失っている。
だが、その姿にもうヒメノは気づけなかった。右腕に続いて左足からも痛みが生まれ、意識はサラさんどころか、ツイステッドに向ける余裕すらなくなっていた。
辛うじて、意識は保っているが、それも限界に近い。いつ気絶してもおかしくない激痛に晒され、ヒメノは必死に耐えようと歯を食い縛る。
そこにツイステッドの両手が伸びて、優しくヒメノの頭を包み込んだ。
その時、ヒメノの頭の中に一つの光景が思い浮かぶ。ヒメノとヒナコ、そして、二人の両親が一緒に車に乗っている光景だ。
家族旅行に向かっている最中だった。ヒメノは運転する父親や助手席に座る母親と談笑し、ヒナコはスマホを弄りながらも、時折、ヒメノ達の会話に入ってきた。
ヒメノにとって温かい記憶であると同時に、これが家族としての最期の思い出だった。
直後、ヒメノ達の乗る車は対向車線を走っていた車と正面から衝突する。後から知ったことだが、居眠り運転が原因だったそうだ。
その後の車内の記憶はほとんどない。ヒメノは呆然とする意識の中で、自分と同じように傷ついたヒナコや両親の姿を見たような記憶が微かにある程度だ。
その事故から、ヒメノとヒナコは救出され、後に怪人となる改造手術を受けることになる。これによって二人は助かるのだが、残念なことに助からなかった人物も中にはいた。
それが二人の母親だった。
事故の際、対向車線から車が来たことで、運転席は潰れ、二人の父親は即死だったが、母親は辛うじて息があった。二人と同様に救出され、改造手術を受けることになったのだが、母親の手術は失敗に終わった。
このことをヒメノとヒナコは後に知り、それが超人ではなく、怪人として生きる理由となったのだが、ツイステッドの両手がヒメノの頭を包み込んだ際、ヒメノが強く思い出したのは、それら怪人となる記憶の手前、事故に遭った車の中での微かな記憶の一部だった。
ヒメノ自身、長らく忘れていた記憶だったが、ツイステッドの両手に包まれ、これから起きることを実感した瞬間、その記憶が呼び起こされ、ヒメノは車中で意識を失ったヒナコ達を目撃した時に懐いた気持ちを思い出した。
(死にたくない……)
気づけば、ヒメノの目からは涙が溢れ、目の前の景色の全てがぼやけていた。正面にあったツイステッドの顔すらぼやけて、ヒメノはそこにヒナコの影を見てしまう。
「……姉貴……」
ヒメノがそう呟いた直後、ヒメノの首が捻れて千切れ、頭がぼとりと地面に落ちた。