4-25.凶暴の化身
リーゼントの中から現れた巨人は、虚ろな目をしていた。バイキングのような鎧を身にまとい、背中にはサーフボードのような大剣を携えている。脱衣所を見下ろしながらも、その目にはミト達の姿が映っていないように思われた。
しかし、その直後、巨人の目は唐突に血走ったものへと変化した。
「うぐがぁあああ!?」
獰猛な獣のような唸り声を上げたかと思えば、ドラム缶のように太い腕を大きく振り回してくる。
そのまま、巨人の腕が眼下に立つミトとソラに振り下ろされようとした。
「こっちに……!?」
ミトが慌てて駆け出そうとした直前、振り下ろされた腕を受け止めるように、熊がミト達と巨人の間に割って入った。掲げた両腕で振り下ろされた腕を受け止めて、熊がミトを余裕のない目で見てくる。
「ここは俺が止める! 新人はソラを連れて逃げろ!」
そう言いながら、熊が両腕を持ち上げて、振り下ろされた腕を大きく跳ね返した。巨人の体勢が崩れ、その隙を狙って、ミトはソラと共に大浴場から抜け出そうとする。
しかし、巨人は崩れかけた体勢を無理矢理に維持し、ミトの進もうとする先に腕を振り下ろしてきた。ミトの眼前に腕が落ちて、生まれた衝撃にミトの身体は大きく背後に押される。必然的にミトが支えていたソラも一緒に倒れ込み、苦しそうな声を漏らしている。
「こいつ……!?」
熊が巨人を押さえ込もうと飛びかかった。無理な体勢から戻っていた巨人はそれを受け止めて、反対に押し返そうとしている。
「何て、力だ……!?」
「流石の怪人熊も、凶暴の化身の前には、ただの熊ってか。遠慮するな」
大浴場を覗き込むように眺め、バトルシップがそこで暴れる、凶暴の化身と称した巨人に命令する。その命令を聞いた凶暴の化身が背中に手を伸ばし、そこに背負っていた剣を握った。
そして、そこから引き抜く勢いのまま、目の前の熊に向かって、凶暴の化身が剣を振り下ろす。熊は咄嗟に爪を立て、落下する剣を受け止めようとしたが、その重さは簡単に止められるものではなかったようだ。
熊の体勢は大きく崩れ、剣の落ちるまま、前屈みになって倒れ込んでいた。
「この化け物が……!?」
振り下ろされた剣ごと叩きつけられるように床へとついた両腕を持ち上げようとしながら、熊は悔しそうに凶暴の化身を見上げている。
「ハ、ハル……コマちゃんを助けないと……」
ソラは苦しそうに息をしながらそう言うが、ミトが手も足も出なかった双頭の巨犬を完膚なきまで叩きのめした熊だ。その熊が真っ向から立ち向かって押されている相手に、ミトができることは何一つとしてない。
「そんな心配をするな。俺はただの熊じゃない。冬眠明けで完全に冴えているグレートな熊だ。こんな物で倒されるものか!?」
床に両手を伏したまま、熊は無理矢理に身体を起こし、凶暴の化身の足に爪を立てた。凶暴の化身の膝に爪は突き刺さり、振るわれるままに肉を引き裂いて、そこから真っ青な血を吹き出させている。
「何だ、おい? 見た目に反して、本当に化け物だったのか!?」
そう叫びながら、熊は凶暴の化身が怯んだ隙に、攻撃を叩き込もうと飛びかかった。それに気づいた凶暴の化身が身体を振るい、攻撃とは言えない不格好な形で腕を振るう。それを熊は受け止めて、隙だらけの身体を狙って踏み込もうとした。
だが、そこで熊の動きが停止する。
凶暴の化身の振るった腕はただ振り回すようなものだった。身体を大きく捻って、その遠心力で叩きつけてくるような一撃だ。
殴るわけでもない。ただ垂らした腕が振るわれただけ。それを熊は受け止め、更に奥へと踏み込むつもりだった。
そのはずが、そのただ振るっただけの腕は熊の動きを完全に止めるほどの重さを持って、熊の身体を襲っていた。軽く受け止めようと両腕を上げた体勢のまま、熊はそこから前に進むことも、後ろに下がることもできなくなる。
そうしたら、途端にバランスを崩して吹き飛ばされる。それほどに凶暴の化身の一撃は重かった。
「何だ、この攻撃は……!?」
「そいつは純粋な身体能力の高い化け物だ。お前がどれだけグレートか知らないが、ただの熊の身体で相手できるわけがないだろうが!」
バトルシップの叫び声に呼応し、凶暴の化身が崩れかけた体勢を整え、再び剣を握る。熊は打ちつけられた腕による衝撃から、まだ完全に立ち直っていない。
次の一撃を受け止めることは不可能だ。それは熊本人だけではなく、それを眺めていたミトとソラにも分かった。
「ダメだ……!? このままだと……!?」
ミトが焦る中、咄嗟にソラが手を伸ばし、熊の身体を指差した。
「ハル……コマちゃんにアタック……」
そう言って、ソラが腕を突き出す動きを見せて、ミトはソラが何を考えたのか察する。
ミトは咄嗟に空の手を持ち上げて、熊の身体を狙うように伸ばしていた。その前では熊の身体を同じように狙って、凶暴の化身が剣を振り下ろそうとしている。
それが熊を襲う直前、ミトは伸ばした腕からわん太郎を飛び出させて、熊の身体にぶつけていた。熊の身体が衝撃で吹き飛び、凶暴の化身の振り下ろした剣が空を切る。
「痛ぁっ!?」
急な衝撃に熊は声を上げ、目を白黒させていたが、わん太郎の頭突きは凶暴の化身の一太刀と比べたら、あまりに優しいものだった。
助けられたとミトが思い、静かに喜ぶ中、ゆっくりと剣を振り下ろした凶暴の化身の血走った目がミトに向く。
「あっ……」
しまった、と思った時には遅く、凶暴の化身は一歩、脱衣所に踏み込んでから、ミトのいる場所に腕を振り下ろしてきた。
ミトは咄嗟にソラを庇いながら身を伏せて、凶暴の化身の腕が落ちた衝撃を受ける。直撃していないが、大きく床が剥がれ、ミトとソラの身体は奥へと押しやられるように転がった。
脱衣所の壁に身体を打ちつけ、全身に痛みを覚えながらも、何でもないように耐えて、ミトはソラに目を向ける。
「だ、いじょうぶ……?」
「へ、いき……」
口ではそう言っているが、その前に双頭の巨犬から受けた怪我もあって、ソラの呼吸は苦しそうなものに変化していた。早く治療ができる人のところに連れていかなければいけないが、そのためには凶暴の化身を越えなければいけない。
ミト達よりも遥かに強い熊が一方的にやられている状況だ。わん太郎の頭突きから身を起こし、今にも立ち上がろうとしている熊が復帰しても、凶暴の化身を越えられるかは限らない。
仮に越えられたとして、その奥にはバトルシップも控えている。バトルシップが目の前を通ろうとするミト達を見送るとは到底思えない。
この状況から抜け出すことは不可能だ。そう頭が理解してしまい、ミトは静かな絶望を味わい始めていた。
どうすればいいのかと悩み、自然と手に力が入って、拳を強く握ってしまう。それで何かができるわけでもないのに、ミトの身体は勝手に固まっていく。
そこで些細な違和感にミトは気づいて、思わず自身の手を見ていた。
気づけば、ミトはさっきまで握っていたハチミツ入りの瓶をどこかに落としていた。どのタイミングで落としたのかも分からないが、そもそも、今の今まで握っている理由のなかったものだ。ただ捨てるタイミングがなく、力の入るままに握っていただけのものだ。
気にするまでもないと思ってから、ミトは熊の方に目を向ける。この状況を妥協できるとしたら、熊の力を借りるしかないが、そのまま借りても何もできない。
何か手段を考えなければいけない、と思おうとしたところで、ミトの目が熊の足元に向く。見れば、熊も立ち上がろうとした姿勢のまま、自身の足元に目を向けて固まっている。
そこに転がる物体が存在し、熊はゆっくりとそれを拾い上げていた。
それはミトの落としたハチミツ入りの瓶だった。