4-19.オルトロス
部屋を埋めつくさんとする双頭に見下ろされ、ミトの身体は強張っていた。頭上から発せられる圧に押し潰され、ミトは指一本動かすことすら許されない緊張感に包まれる。
少しでも動けば殺される。咄嗟にそう思う中、ミトの隣でソラがゆっくりと動き出し、自身のフードに触れた。
「ソ、ソラ……?」
戸惑うようにミトが呟いた瞬間、ソラの頭からフードが離れ、そこから部屋の中に散らばるように電気が走った。双頭の巨犬にも電気は到達し、身を貫く痛みに僅かな鳴き声を上げている。
が、それはほんの一瞬の変化だった。電気を振り払うかのように二つの頭を大きく動かし、共に天井を見上げるかのように持ち上げられたかと思えば、そこで高らかに吠え始めた。地響きのようにミトの身体は震え、身体の中心から本能的な恐怖が湧き上がってくる。
「効、かない……」
ソラが愕然とするように呟いて、ミトの手を握ってきた。電気そのものに耐性があるのか、日中、バトルシップとタイタンから逃走する際に電気を放っていたことで、単純に威力が弱まって効かなかったのかは分からない。
ただどちらにしても、ソラの電気では目の前の双頭の巨犬を追い払うほどの結果は得られなかったようだ。寧ろ、挑発するように刺激してしまった可能性がある。
双頭の巨犬がミトとソラを見下ろした。心なしか、さっきよりも血走った目を向けられ、ミトはぎょっとする。少しでも動けば殺されると思ったさっきとは違い、今は今すぐにでも迫ってくる威圧感がある。
「ハル、ワンちゃん」
ソラが握ったミトの腕を持ち上げ、ミトはその腕に宿る三匹のペットのことを思い出した。犬のわん太郎とチャッピー、猫のブリジットがそこにはいる。奇しくも、目の前の双頭の巨犬と同じようなサイズの頭を持っている。
「お、お願い!?」
ソラに言われるまま、ミトは片腕を持ち上げて、目の前の双頭の巨犬に向けた。その腕が変化し、ゆっくりと膨らんでから、大砲でも撃ったかのように勢い良く、チャッピーの頭が飛び出す。
それが真正面から双頭の巨犬とぶつかった。一匹の頭と正面からぶつかり、お互いの頭の硬さを確認するように頭突きを繰り出していたが、それでどちらかが倒れることはなく、チャッピーと双頭の片割れは揃って、大きく頭を反らしていた。
そこに生じた隙を狙うように、チャッピーのぶつかっていない方の頭が、チャッピーの首筋に噛みついた。チャッピーの口から苦しそうな声が漏れ、噛んできた頭を噛み返そうとしていたが、その動きを見せている間に、頭突きを噛ました頭が回復し、チャッピーの首筋に反対側から噛んでいた。
双頭に挟まれるように首筋を噛まれ、チャッピーは声すら上げられずに藻掻いている。その藻掻きも少しずつ弱まり、もう少しで息の根が止まるというところで、ミトはチャッピーを元の腕に戻していた。
「だ、ダメだ……一匹ずつじゃ勝てない……」
とはいえ、二頭を両手から出したとしても、身体つきの双頭の巨犬に正面からぶつかって勝てるかと言われたら怪しい。チャッピーが攻撃され、動けなくなった今、残っているのがわん太郎とブリジットであることを考えたら、コンビネーションという部分でも不安しか残らない。
このままでは噛み殺されて終わる。そうミトが絶望しかけた時、双頭の巨犬に向かって光る何かが飛んでいった。それは片方の頭に当たって、そのまま部屋の中に落下する。
甲高い金属音が鳴って、ミトはそこに転がっているものがフォークであると気づいた。
どうしてフォークが、と疑問に思う中、再び視界を光る物が通過し、双頭の巨犬の頭にぶつかって、同じように落下していく。今度はナイフで、僅かに双頭の巨犬を傷つけたのか、落下したナイフには赤い跡が見える。
それらフォークやナイフがどこから飛んでいるのかと思ったミトが周囲に目を向けようとして、自身の手を握るソラがコップを握っていることに気づいた。
次の瞬間、そのコップを双頭の巨犬に投げつけている。
「ソ、ソラ……!? 何してるの……!?」
「攻撃。電気もワンちゃんも効かなかったから、他に効くものを探してる」
そう言って、今度はさっきまでパンケーキの乗っていた皿を手に取るソラを目にし、ミトは言葉が出なかった。勝手に諦めようとしていたが、ソラはそこに意味があるかも分からないのに、少しでも戦う道を選ぼうとしていた。
自分は何て臆病で愚かなのだと気づき、ミトはソラに倣うようにハチミツの入った瓶を手に取り、投げようとする。
そこで双頭の巨犬が大きく吠えた。その声に思わず身体が竦んだ瞬間、双頭の巨犬は同時に動き出し、ミトとソラを押し潰すように迫ってきた。
「危ない!」
その動きに反応したソラがミトの身体を引っ張り、ミトはほとんど引き摺られるように、部屋の中を移動する。
その二人の上を飛び越えるように双頭の巨犬が前足を下ろした。ミトとソラがさっきまでいた場所に前足が伸しかかり、そこに落ちていたパンケーキが紙のように薄くなるほど潰されている。
「あ、ぶな……!?」
死ぬところだった。そう思ったミトの隣で、ソラが前方を指差した。
「開いた。今なら行ける」
「えっ……?」
そう言われ、目をソラの指差す方に向けた瞬間、ソラが勢い良く走り出し、ミトは転がるようについていくことになった。ソラはさっきまで双頭の巨犬が塞いでいた入口を飛び出し、巨大なリーゼントの脇を沿うように廊下を駆け始める。
「おい!? 逃がしてるじゃねぇーか!?」
その姿を発見したらしいバトルシップの叫ぶ声が聞こえてくる。
ソラに手を引かれるまま、ミトが背後に目を向けてみると、さっきまでいた部屋の入口を壊しながら、双頭の巨犬が廊下に飛び出してきていた。
「ソ、ソラ!? 来るよ!?」
ミトがそう言った直後、双頭の巨犬が廊下を走り出し、比べ物にならないほどの歩幅で一気に二人との距離を詰めてくる。
「は、速い!?」
ミトを引くソラも、それについていこうとするミトも、懸命に走ってはいたが、その頑張りも双頭の巨犬の大きさの前では意味がなかった。開いていた距離はあっという間に詰められ、次にミトが振り返った時には飛び込まれる距離にいた。
「ソ、ソラ!? 飛び込んで……!?」
双頭の巨犬が踏み込む動きを目にし、ミトがこちらに飛び込んでくるとソラに伝えようとした、その時だった。
「ハル、ごめん……」
ソラが小さくそう呟いたかと思えば、握っていたミトの手を大きく振って、ソラがミトの身体を投げ出した。
「えっ……?」
不意な動きに対応する暇なく、投げ出されたミトは近くにあった扉にぶつかって、そのまま部屋の中に倒れ込んでいく。
「ソ、ソラ!?」
自身を逃がした。ミトがそう分かり、慌てて身を起こそうとした時には遅く、廊下ではソラに覆い被さるように双頭の巨犬が飛び込んでいた。
「ソ、ラ……? ソラァ!?」
ミトは叫び声を上げながら、廊下に飛び出そうとする。ソラの無事を祈りながら、助け出す方法よりも先にソラを助けないといけないという気持ちに駆られていた。
その動きを封じるように、部屋の入口に双頭の巨犬が立った。身を起こそうとしたミトを見下ろしたまま、ゆっくりと入口を壊しながら、双頭の巨犬が部屋の中に踏み込んでくる。
動いたら、殺される。そう感じるほどの殺気に押し潰されながら、ミトは僅かに後退った。
瞬間、双頭の巨犬が大きくミトに踏み込んできた。ミトは咄嗟に後ろへ下がったが、その速度には間に合わず、僅かに触れた前足に吹き飛ばされるように部屋の奥へと飛んでいく。
やがて、吹き飛んだ先に広がっていたお湯の中に倒れ込み、ミトは驚きながら慌てて身を起こした。
そこで気づいたが、ミトを逃がすためにソラが投げ飛ばした先は浴室のようだった。それも広さからして個人用ではなく、大浴場だろう。
そのことに驚いている間に、双頭の巨犬は体勢を立て直し、さっきまでミトのいた脱衣所と思しき場所から、浴室の方に足を踏み入れてくる。
ミトは湯船から出ようと足を上げ、湯船の縁に手を伸ばしたところで、さっき拾ったハチミツ入りの瓶をまだ握っていたことに気づく。いらない物を持ってきてしまったと嘆く中、ミトが瓶を捨てるよりも先に、双頭の巨犬がミトに飛びかかってきて、ミトは慌てて縁を掴んだ。
そのまま引っ張るように身体を動かした瞬間、双頭の巨犬が浴室の壁に勢い良くぶつかって、タイル張りの壁が崩れていく。
ミトは急いで浴室から出ようとするが、お湯を吸ってしまった服が重たく、脱衣所に向かうことすら手間取ってしまった。
何とか脱衣所に到達した時には、双頭の巨犬も破壊した壁から身を起こし、こちらに目を向けている。同じようにお湯を被って、動きが少しでも遅くなってくれればいいが、それはあまり期待できないだろう。
ソラの安否を確認するため、何とか大浴場から出ようとするミトに目を向け、双頭の巨犬が脱衣所に飛び込むように動き出そうとする。その動きを察し、ミトは軽く振り返りながら、何とか大浴場の外に飛び出そうとした。
その瞬間のことだった。
「まだ人が眠っているでしょうが!?」
不意にそのように叫び声を上げながら、壊れた浴室の壁から勢い良く熊が飛び出し、ミトに飛びかかろうとしていた双頭の巨犬に向かって、ラリアットを噛ましていた。