4-15.進撃と浸水
警報の存在は知っていた。屋敷内で緊急事態が発生した際、屋敷にいる全員にそれを伝えるための手段、と。
しかし、ヤクノはそれを実際に聞いたことがなかった。知っていたとはいえ、それを思い出したのは、ほんの少し前、実際に鳴り始めた時のことだ。それまで忘れていたくらいに、警報の存在は希薄だった。
それが今はけたたましく鳴り響いている。それほどの事態が起きたということだが、一体何があったのかと思いながら、ヤクノは屋敷の中を移動していた。
実際に何が起きているのかは判然としないが、ただ廊下を歩いているだけでも、遠方から何か物の壊れる音が聞こえてくる。それもそれなりの大きさであることを考えたら、ただコップを割ったというものではないだろう。
まさか、とヤクノの頭の中では悪い予感も膨らみ始めていた。
警報を聞いた直後から、ヤクノの中で気にかかっているのはカザリの存在だ。カザリがこの屋敷に来た夜に、この事態が起きたとなれば、そこに関連性がないとは思えない。
やはり、カザリを連れてきたのは判断ミスだったか、と今更ながらに後悔するが、起きてしまった事態を巻き戻すことはできない。
今は一刻も早く現状を把握し、起きてしまった何かに対応するべきだと考え、ヤクノは物の壊れる音のする方に走っていた。
その途中、不意にヤクノの視界を塞ぐように、ヤクノから見て右手の壁が破裂した。爆弾でも仕掛けられていたのかと思う勢いと音で壁は粉砕され、破片がヤクノのいる場所にも飛び散ってくる。
ヤクノはそれらから身を守るように両腕を上げ、破壊された壁に目を向けた。そこには人が優に通れるほどの穴が開き、その穴を塞ぐように何かが詰まっていた。
その何かが何であるかを見定めようとした瞬間、ヤクノはそこにある物の形に気づき、連想ゲームのように一人の人物の顔が浮かび上がってくる。
(こいつは……)
自然と身構え、昼間の無茶が回復しているか確認するように、拳を何度も握る中、開いた穴に詰まっていた物がゆっくりと下がり、その後から一人の人物が顔を出した。壁から破壊した先にあった廊下を見回し、そこに立っていたヤクノに気づいたのか、こちらを向いたところで動きが止まる。
「君は……!?」
そう呟いた表情がゆっくりと歪み、隠し切れない怒りを覗かせていた。
「ここで逢えるとは……!?」
そう呟きながら、ゆっくりと左手で自身の右腕を撫でている。右腕には全体を覆うように包帯が巻かれている。
「この手の借りを返そうか……」
そう呟いたタイタンに身構えながら、ヤクノは自身の悪い予感が的中してしまったと、警報の理由を理解していた。
◇ ◆ ◇ ◆
夕食を終え、爆睡中だった。そこに急に鳴り響く警報の音が飛び込み、ババはベッドの上で跳ね起きた。聞いたことのない音の出現に、何が起きたのかとババは盛大に狼狽える。
「どないした!?」
何があったのかと確認するために部屋から飛び出し、ババは廊下を見回してみるが、それだけでは何があったのか分からない。
警報の意味も含めて、誰かに逢って聞いてみないことには始まらないと思い、ババは廊下を駆け始めた。
できればヒナコ。それ以外でもいいが、できればヒナコ。と、ババは心の中で何度も呟きながら、廊下を駆けていく。
しかし、音の激しさに反して、探しているような人は見当たらず、ババの心は次第に寂しさと心細さで一杯になっていた。
もうヒナコとは言わないから、せめて一人くらい誰かいないのかと、ババが次第に思い始めた頃、不意に廊下の壁の一部が崩れていることに気づく。走るババの前方に位置する壁だ。
「何や、あれ……?」
そう思いながら、その壁の手前で立ち止まると、壁の一部が崩れているのではなく、ゆっくりと溶けていることに気づいた。アイスが溶けるように、壁の一部が溶けて、液体のように垂れてきている。
「えっ? ホンマに何これ?」
そう思わず呟いた直後、その壁が一気に崩れ、廊下に向かって流れてきた。壁が液体のように変化し、迫る波のようになったことで、ババはその中に飲み込まれる。
(あかん……!? 死ぬ……!?)
咄嗟に身を捻り、必死に廊下へ手を伸ばしながら、ババは何とか水のようになった壁の流れの中で身を起こし、水面から顔を出していた。
見れば、こちらに流れ込んできた壁の一部は完全に消え、廊下の先に水溜まりのように溜まっている。
「一体、これは何なん……?」
戸惑うように呟くババの前で、消えた壁の一部から、ゆっくりと一人の女性が姿を見せた。ボディコンスーツを身にまとった壮齢の女性で、廊下にゆっくりと出て、足元に溜まる壁の水を左右に払いながら、ゆっくりとババのいる方を見てくる。
「ん? あれ? 貴方は誰?」
「い、いや、それはこっちの台詞やけど……?」
「うーん……何かで見た顔……」
そう呟き、顎に指を当てながら、ゆっくりと首を傾げて、考え込む素振りを見せるが、それは一瞬で終わり、ゆっくりとその場に屈んだ。
「まあ、ここにいるなら、捕まえていいか」
「いや、あんたは何を言って……」
ババが誰なのかを聞こうとする前で、女性は屈んだ足元に手を伸ばし、廊下に触れた。
瞬間、その手を中心に廊下が、さっきの壁のように変化し、ババは液体となり始めた廊下にゆっくりと飲み込まれ始める。
「な、何やこれ!?」
戸惑いながらも、ババは慌てて身を動かし、女性から離れるように動くと、まだ固い廊下の上に何とか辿りつく。
「あー、惜しい」
残念そうに呟いて、ゆっくりと立ち上がる女性を見ながら、ババは理解できない状況の中、一つだけ理解できたことを発見していた。
「あんた、その格好でしゃがむな!? 目のやり場に困るやろうが!?」
ババの指摘を受けた女性がゆっくりと目線を自身の胸元に下げ、正面で狼狽えるババとじっくり見比べ始めた。
「変態」
「ちゃうし!?」
それは貴女の方ではないか、とババは反射的に言いかけたが、流石にこれはセクハラかと思い、既のところで言葉を飲み込んだ。
◇ ◆ ◇ ◆
けたたましく鳴り響く警報が、カザリにも始まったことを教えてくれた。ヘアピンに仕込まれた発信機を起動し、カザリはその足で屋敷の外に向かっていた。
このまま屋敷の中に残っていたら自分も巻き込まれるかもしれない。その前に屋敷の外に移動し、どこかで超人と逢って、約束を果たしたことを告げようとカザリは考えていた。
苦渋の決断だった。それでも、カザリは言われたことをやった。これで約束通りにカザリは解放してくれるはずだ。怪人として超人に追われることも、超人に捕まって思い出したくないことをされることもなくなる。
自由になれるはずだ。そのように思いながら、カザリは屋敷の外まで移動する。
しかし、屋敷の外では超人の姿を探したくても、どこに超人がいるのか分からなかった。
屋敷の中なら確実にいることは分かっている。現在もどこかで、怪人組合の怪人達と対面していることだろう。
だが、そこにカザリが向かってしまうと、カザリは予期せぬ被害を受けるかもしれない。自身の行動がばれていないとは思うが、怪人の方から裏切り者として攻撃を受ける可能性もある。
そうならないためにも、何とか外で見つけないといけないとは思うのだが、カザリに超人を探すだけのスキルはない。
どうしようかと悩み、カザリは屋敷の外で足を止めた。
そこに光が伸びてきた。何かと驚きながら、カザリは光の出所に目を向ける。誰かが懐中電灯を持って、こちらに近づいているようだ。
そう思った直後、その光の出所から声が聞こえてきた。
「カザリさん? ご無事ですか?」
その声はどこかで聞いた覚えのあるもので、誰の声だったかと思い出しながら、カザリは光の向こうに目を向けた。
そこで僅かに服装が見え、カザリは誰の声だったかを思い出す。
「お怪我はありませんか?」
そう聞いてきたのは、屋敷のメイドであるサラさんだった。