仮想空間からの脱出
「俺たちは、ここから抜け出す。ここは間違ってる。こんなところにいちゃいけないんだ」
ユズキは驚きで硬直し、声すら出なかった。
そんな彼女に構わずにシンゴは続ける。
「お前は道を誤っただけで、こんな悪意を受けるべきじゃない。俺が助け出してやる、絶対に。世の中に蔓延る悪を撲滅しようとしたが、それは間違っていた。なら世の中の悪からそれに尊厳を奪われる者の全てを遠ざけるのが俺の役目だ。そうだろう? だからついてきてくれ。なあ」
「な、何を……」やっと掠れた声が出た。。「何を、言っているの?」
「だから、俺について来てくれっていうことだよ。俺と一緒に……このバーチャル学園から逃げ出さないかって、そういうわけさ」
――?
数秒の間、彼の言葉の意味がわからなかった。
しかしそれを理解し、そしてユズキは困惑する。
そんなことができるとでも思っているのだろうか? ここから出る、つまりそれは脱獄と同義語だ。
それに彼はユズキを憎んでいたはずで、現に殺されそうになったのだから当然だろう。連れ出す? 助ける? 何を言っているやらさっぱりだ。
疑念、疑問、混乱。
そんな感情を抱いているのにも関わらず、ユズキはなぜか、シンゴに抱きついてしまっていた。
お互いアバターなので温もりなんて伝わってこない。けれどユズキはどうしてもそうしたくなったのだ。
「行こう、俺と」
まるでそれは、ラブコメのワンシーンのように思えた。
シンゴはもう少しで、年に一度の『ログアウト可能日』を迎えようとしているのだという。
その日だけは現実世界に戻り、家族などに会うことが許される。そして翌日になればまたバーチャルな世界に押し込められるのだ。
シンゴはその一日限りのチャンスを狙っていた。
彼はユズキに、計画の概要を話した。とても危険で大きなリスクを伴う、ある意味賭けだ。
ユズキはどうしてシンゴがここまでしてくれるのかわからなかった。
けれど従うしかなかったし、彼の言うことを聞きたかった。
「ただしこれには条件がある。二度と、人を歪んだ形で愛さないこと」
「――――」
「愛する人を殺める。その愛の形は、歪んでいて醜い。ただただ悲しいだけだ」
ユズキは何か反論しようとしたが、遅い。
自分が今まで見てみぬふりをしようとしていた間違いを正されていく。
「だってそうだろう? そんなんじゃ、誰もお前を愛さない。愛せない。当然だな、愛したらお前に殺されるんだから。……お前は俺に好いてほしいだろ? 好きな人に好きって言ってほしいよな。だからもう、殺すな」
……ユズキは小さく、本当に小さく首を縦に振った。
そうして計画の約束はなされ、数日後、決行の日を迎えた。
「いいわね、あんたは。出られて羨ましいわ」
スズカがシンゴにいやらしい目を向けてきた。
彼女は元々嫉妬深い性格である。現実世界では金でなんとかできた事柄の多くが、この世界では思い通りに動かないのだから苛立っているのだろう。
でもシンゴはそんなこと知ったこっちゃない。この世界からおさらばする彼にとって、彼女のことなどどうでもよかった。
「ああ。楽しんでくるさ」
「勝手にすれば? その間、アタシが何をしようとあんたに文句は言わせないわよ」
一体何をしでかす気なのか。
まあ、あまりこの空間では悪事は働けないので、恐らく取り巻きを奪うくらいなものだろう。でも正直取り巻きなんて意識すらしていない存在だったので、シンゴは笑顔で言った。
「ああ。何をしてもいい。俺にはもう、関係ないしな」
その後彼は、運営人に言って、一度、VRゲーム世界『バーチャル学園』からログアウトした。
体が寝かせてあるのは、国の機関だ。
冬眠状態から起こされて最初に感じたのは、体の気だるさ。ああ、数ヶ月ぶりの現実世界の空気はなんて重たいんだろうと思う。
「これから一日の間、自由行動を認める。好きなように行動しろ」
運営にそう言われ、腕輪を渡された。
これは監視用の道具であり、嵌めてさえいればどこにも逃げられない。少しでも変な行動を取ろうとすれば、この腕輪が爆発するようにできてあるのだ。
まるで漫画の世界みたいだが、これが今の最新技術の結晶である。
冬眠部屋から出たシンゴは、とある場所へ足を向けた。
シンゴの自宅ではないし、かつての友達の家でもない。そんなところへ行ったって何にもなりはしないのだから。
目指すは、彼女が眠る場所。この施設内にどこかにあるはずだ。
「ええと……Y305号……305、305……」
探し回る。
いつ腕輪が爆発したっておかしくないが、そこは天に任せるしかなかった。
でもそう簡単に砕け散ってやるわけにはいかないなと彼は思う。約束は果たさねば。
そうして――見つけた。
管理番号Y305、その少女の部屋を。
ドアをノックするも、誰も返答はなかった。
そりゃそうか。常日頃から監視がいるはずはない。特別、ログアウトが許可された時だけ、監視の中で冬眠から覚めるだけなのだから。
シンゴは安心して、ドアの中へ足を踏み入れた。
……その途端、白いクリスタル状の冬眠機が目に飛び込んできた。
それは先ほどまで自分が眠っていたものと同一だと少年は理解する。そしてクリスタルの中には、一人の少女が凍りついていた。
「――」
アバターで見るよりかは容姿に劣るが、それでも可愛らしい少女だった。
彼女の素顔を見て、どこか頬が緩むのを感じた。なんだ。どこにでもいる、ごくごく普通の女の子じゃないか。
そっとクリスタルの正面まで近づく。
本当に破壊していいのだろうか?という疑問は、すぐに胸の中で消え失せる。
……彼女を仮想の檻から脱出させるのが自分の役割であり、今しなければならないことなのだ。
直後、シンゴは思い切り、己の拳をクリスタルに叩きつけた。