〝聖女様〟とは?
「そこらじゅうでこっそり噂されてる公然の秘密ってやつさ。――というわけでお願いだからレティ殿、『メッ!』はやめてくれないかな?」
「おや、『メッ!』は殿方の夢ではないのですか?」
「夢だとも。骨の砕ける心配さえなければね!」
セフェリノ様は近くにあった燭台を盾にして三歩後退されました。
おのれ、卑怯ですよ。骨はともかく備品を壊したら直せないではないですか。
「話を戻すけど――王様の乳兄弟なんて、やろうと思えばいくらでも甘い汁を吸える立場だ。けれどエルナン司祭様はそうしないから、王都の民に人気があるのさ。逆に大司教様とその一派の方々には目障り。この小教会で礼拝に参加した者は目をつけられて、今後とても暮らしにくくなるそうだよ」
「……セフェリノ殿、でしたか? 滅多なことを口にするのはおやめください。噂は噂であり、それらはすべて単なる憶測に過ぎません」
「はは、憶測ねえ。私の身の心配でしたら不要と申し上げときますよ。こう見えて逃げ足に自信はあるのでね」
悪びれなく、芝居がかった仕草で両腕を広げ、クルリとまわるセフェリノ様。
無駄に堂々とした態度は、さながら舞台上の俳優のようです。
エルナン様とセリオ様の苦そうなお顔から察するに、事実そういうことが現在進行形であるのでしょうね。
そして次にわたくしを見るのですね。
この変なやつ誰と訊きたいのですよね。ええわかります。
「セフェリノ様。このお二人はあなたのノリをご存知ないのですから、もう少し出し惜しみしてください」
「はぁい♪」
「よいお返事です。……エルナン様、セリオ様。この方はハッタリ上手ですが、先ほどの発言自体はハッタリではありません。カモと借金取りと花街の猟犬から長年逃げおおせている実績持ちの方ですので、傾きそうな船からは鼠よりも先に逃げます。ご安心ください」
「は、はぁ……」
「レティ殿の仰るとおり! それにね、エルナン司祭様? 彼女がなんにも気付かないほど無知で鈍い女性に見えるかい? イメルダ修道院からこの王都までの道のりで、彼女はこの国の実情ってやつをもう目にしてきているんだ。隠し立てなんてできやしないし、する意味もない」
ぐ、と詰まるエルナン様に、気づかわしげな眼差しを向けるセリオ様。
セフェリノ様の一見すれば爽やかな笑みは、先ほど真摯に祈りを捧げていた人物と同一とは思えない嘲笑を含んでいます。
「そう……ですね。きっとあなたはもう、何もかもご存知なのでしょうね。この国の実態を」
苦渋に満ちたエルナン様、すっかりこの職業ペテン師の小芝居に呑まれております。
買いかぶられても困るのですが……まぁ、こうなれば腹を割ったお話がしやすくなりますので、強く否定はしませんけれども。
「イメルダ修道院では、よく働き、よく鍛え、よく学ぶことが奨励されておりました。わたくしもこのフロレンシア王国に限らず、大陸史などを多少はおさめておりますので、道中の村々の様子で一目瞭然でしたよ。――この王国、傾いておりますね。それも随分と前から」
❖ ❖ ❖
フロレンシア王国には、周辺諸国と戦に明け暮れていた時代があった。
利害とプライドとさまざまな思惑が絡み、何がきっかけで拡大したかも今となっては判然としない戦乱期に、治癒能力を備えた【渡り人】の存在は、まさしく王国にとって【聖女】そのものだった。
聖職者は信仰によって治癒魔法を扱えるようになる。正確には、ある程度の魔力を有しており、位階を授かった者がその奇跡の行使を許されるようになるのだ。
神々との契約の一種であり、魔法の効果は本人の素養によるところが大きいものの、単純に魔力値の高い者だけが高位魔法を扱えるとは限らない。かつては魔力偏重主義に走りかけた時代もあったが、祈りの強さによって上位者に逆転できた者の例が増え、今ではそれほど重視されなくなっている。
ただし、魔力量の多い方が有利なのは確かだ。
【渡り人】のほとんどは桁違いの魔力を有しており、二百年前の聖女は、一般的なレベルの聖職者が日に最高五人治すところを、二十人以上は治してのけたと記録にある。
同程度の怪我でそのぐらい差があったというのだ。
敵国にとっては目障りな存在に違いない。
当時の大司教が神殿での保護を強く主張したが、神殿と教会の建物は繋がっており、教会は一般の信徒の訪れを広く受け入れている。そんな環境で、いくら神兵の守りがあろうと、信徒に紛れ込んだ他国の暗殺者に対して万全とは言い難かった。
聖アルシオン教としても、自分達の抱える神兵は王国兵や暗殺者などより強いと訴えるわけにはいかず、何より聖女自身が王宮での暮らしを希望していた。
ゆえに聖女は王宮深く、厳重な警備の中、大切に守られることになった。
当時の王太子は、心優しく魅力的な聖女に夢中だったという。
聖女が一般兵の怪我を癒やすことはほとんどなかった。
彼女が癒やしたのは上級騎士以上、王国軍にとって重要な地位にある者に限定されていた。
まれに治癒院を慰問することもあったが、怪我人は五体満足の軽症者のみで、目を覆うような有様の重傷者は彼女の前には出されなかった。それは当時の王太子や取り巻き達が、骨折程度の軽い怪我人でも目に涙を浮かべる心優しい聖女に、もっと凄惨な光景などを見せつけたくなかったかららしい。
命をかけて平民を治すより、国を導く立場の者を優先するのは当然だろう。
戦況を左右し得る上級騎士以上を治すのも当然だ。
致命傷を負った一人を治すのに時間と全力をかけるぐらいなら、そこそこの怪我人を素早く何人も治す方がいい。
当時の王太子や聖女が、広い視野で先を見据えてそう判断したかは不明だ。
彼女は愛され守られて、綺麗なものだけを見て、時おり地位の高い誰かの治癒を行いつつ、幸せな生涯を送った。
その頃から、聖女に対する民の反応は冷ややかだった。
普通の貴族のお姫様と聖女、どう違うというのか?
とどめを刺したのは、次にやってきた聖女。
終戦後の疲弊から抜け出せていない民と土地を目にして、彼女は言った。
『大好きなお花で国中をぱあっと明るくして、皆を元気づけてあげたいな』
❖ ❖ ❖
「どんな気持ちだったのでしょうね。残り少ないまともに使える畑を潰され、『花を育てよ』と命じられた当時の人々は」
その時もやはり、国を動かせるぐらい上位の王族が聖女に夢中になっていた。
だから国をあげての栽培が始まった。
民は飢えた。
実の成らない鮮やかに咲き誇る花々をいくら眺めても、腹は満たせない。
今日のパンが、せめて腹の虫をなだめる程度には欲しいのに。
「観光立国だの、香油に蜂蜜にお化粧品づくりだの、語れば語るほど『私はこの国の民の生活をなんにも知りません』と喧伝しているに等しいのだと、ユイカ様はまるでおわかりでない。何年後になるかも不明な〝いつか〟の夢ではなく、今この瞬間の現実をどうにかする方法を、あの方は何ひとつ知り得てはいないのです」
わたくしが王都に着くまでに通りかかった村々では、お食事を出す店などありませんでした。
道中、どこを歩いても見事な花畑に囲まれていましたが、人々はみな痩せて飢えていました。
こっそり、家の陰や丘の裏側など、道からは見えない場所に小さな畑を作り、食べられる作物を育てていたのです。
芋が多かったような印象でした。季節になれば可愛らしい花が咲く種類で、万一見咎められても言い訳がききそうだからでしょう。
家畜は滅多に見かけませんでした。家畜が花を踏み荒らすのを目にしたどこぞの役人が激怒し、花畑の近くでの飼育が禁じられたそうです。無茶苦茶ですね。
二百年前から続く、慢性的な食糧不足。
戦によって働き手が減り、手入れの行き届かない畑が増えた。
戦が終わって真っ先にすべきことは、弱った国の立て直しに力をそそぐこと――すなわち、国を支える民の生活の改善、向上です。
ところが、当時の王族はそれを怠った。
『お花で王国を盛り立てていければいいなって。精油とか香油とか、お化粧品とか、お花の種類によってはジャムとか、蜂蜜だって作れますし。そういうのを特産品にして、それから、王国中にたくさんお花畑があるっていうから、外国の人がたくさん観光にきてくれるように、観光立国を目指すのもいいんじゃないかなって』
ユイカ様。
あなたがいかにこの国の実情に無知であり、豊かな王都以外をご存知ないのか、その台詞だけで充分に伝わりましたとも。
先代、先々代の聖女様も、お会いしたことはありませんが、ひょっとしたら物の見方や考え方、好みなどがあなたとよく似た方だったのではないでしょうか?
歴史や一般常識を担当されている先生が、あなたにお教えする範囲に〝配慮〟を加えられたのは、派閥の諍いに巻き込まれたくなかった以上に、あなたと前の聖女様の間に、近いにおいを感じ取られたからだったのかも。
外国から裕福な方々を呼び込み、外貨を落としてもらうとしましょう。
そうやって稼いだお金を、どう運用すればいいとお考えでしたか?
食糧不足については、他国からの輸入で解決できるとお答えになりそうですね。観光国にして稼ぐプランを立てられるくらいですから、すなわち他国の方々はそれほどに裕福でお金払いもいい前提なのでしょう。
ですが、疲弊しているのは周辺諸国も同じなのですよ。
激減していた人口が戻り、荒れ果てた土地を耕し、なんとか自分や家族が生きてゆくのに充分な食べ物は確保できるようになった。
そんな国々に、他国の胃袋まで満たせるほど食糧が余っていると思われますか?
一つや二つではありません、万単位の胃袋をです。
そんな大量輸入を持ちかければ、間違いなく足もとを見られますね。かつての敵国相手に容赦なくふっかけてくるのがたやすく想像できます。
そもそも、腐らず運べる食べ物なんて限られますし、輸入コストがかかるので、国内で生産するより遥かに高くつくのです。
治水や街道整備などにお金を回せばいいとお考えになるかもしれません。
なるほど、それも大切ですね。
公共事業に携わる民をどう食べさせるかが問題ですが。
金銭で報酬を与えたところで、その報酬で買える食べ物がないのですよ。
王都は豊かです。
けれどそこに住める者は、国全体からみてごくわずかです。
そして民は、生まれ育った土地から別の土地へ、領主の許可なく移住できません。生活苦で領民が逃げ出すのを防ぐ、どの国でもそういう目的で定められた法律があります。
そもそも、生きるのに精一杯で学ぶ機会などない彼らは、どこの土地へ逃げれば生活が楽になるかなんて知りようがありません。どんなに苦しくとも、そこに留まる以外の道を選べないのです。
第一に――
「経済的な問題ならば、ユイカ様がふんわりした夢のような未来設計を立てられるまでもなく、陛下やリオン殿下がとっくの昔に取りかかり済みでしょう」
「……何故、そのようなことまでご存知なのですか?」
「イメルダ修道院にはさまざまなお客様がお見えになりますから。中には世界をまたにかけて商売をされている方もおりまして、その方が各国で買い付ける品々のお話を聞いたことがあるのです。あとは、この国で過ごす間に少しずつ見えてきました。エルナン様のお言葉もですね」
「私の?」
「刺繍の技術が素晴らしいと。陛下やリオン殿下のお召し物も見事でしたよ。刺繍も、使われている糸も、生地も実に素晴らしい。王家の色をふんだんに使い、職人の技術も合わさって、宝石のひと粒すら使われていないにもかかわらず、立派で気品に溢れる最高のお衣装でした。――まさかあれらが、裕福な商人がちょっと奮発すれば仕立てられる程度のお値段なんて、目をこらして見てもなかなか気付けないでしょう」
「――――」
養蚕。綿花の栽培。製糸、紡績、織物業。
お花畑の裏で陛下が力を入れ始め、リオン殿下も加わり、フロレンシア立て直しの国策として進められているのがそれ。
絹糸は高価ですが、品質の違いによって光沢やお値段の幅があります。陛下や殿下のお衣装や身の回りには、比較的安価な糸を使用したと思しきお品もありました。
職人が質の違いを利用した陰影を作品にとりこみ、誰が目にしても紛うことなき一級品に仕上げられており、初めて目にした時は本当に感嘆させられたものです。
もちろん金貨が何枚も飛ぶであろう高級品ですよ?
ですが、わたくしの知る一般的な高位貴族のお衣装と比較すれば、びっくりするほどお安いはずです。
けれど、まったくそうは見えない。
「この国は糸や生地がいいと、商人の皆様からは耳にしておりましたが、実際に目にしてなるほどと感心いたしました。刺繍についてあまり広まっていないのは、まだ他国に宣伝する段階ではないと判断されているからでしょう。王家の方々が、見た目の印象より遥かに安価な衣装を身につけているなんて、広まるとまずい事情があるのかもしれません。……実は王族よりも大司教様のほうが贅沢にお暮らしだなんて、そんな懐事情の逆転現象、おおっぴらにされたくはないでしょうしね」
もしお花畑をすべて穀物畑に変えてしまったら、あの大司教様は聖女様に思うところでもあるのかと騒ぎ出しそうです。
そして、ユイカ様が気に入らないのなら我々神殿の者にお任せいただきたいとか言い出すんじゃないでしょうか。
ユイカ様も、大好きなお花畑をどんどん減らされてしまったら、ご自分の夢を否定されているように感じて、〝優しいお爺様〟の口車にひょいと流されてしまいかねません。
そのまま黄金と宝石でゴテゴテに飾られた神輿にひょいと乗せられるのですね。
そういう展開を危ぶみ、陛下達は徐々に、少しずつ進めていったのでしょう。
彼らの代で訪れる【渡り人】が、どのような性格の女性なのかわからないのもあったから。
結果、ユイカ様がいらしたのですから、用心して正解だったわけですね。
密かに花以外の農作物を増やしつつ、おそらく目立たない程度に食糧の輸入も行って、なんとか民を食べさせているのが現状。
民が苦労して育ててくれた花々は、美しく豊かなフロレンシア王国の演出に役立ってはおりますので、表向きの大部分は残しておく方針なのでしょう。
幸いにしてこの国は水資源が豊かです。なので食糧不足も、本来ならここまで引きずるはずではなかった。
すべては先代聖女様と、彼女の望みをホイホイ聞いた当時の王族の愚かさのツケ。
俗世の権と財に耽溺している大司教様ご一派の罪も大きい。
エルナン様が諦念の漂う笑みを浮かべ、小さな声で補足されました。
「……染色業も、ですよ。花々を使い、糸や生地を美しい色に染めるのです」
「ああ、確かに。糸や生地の色の豊富さも有名ですね」
「それから、良質の蜂蜜が採れ、咲き終わりには土に巻き込むと良い肥料になる種類の花もあり、養蜂業にも着手しているそうです。何年か前に公爵領の端に小さな村を作り、そろそろ製品化できそうな頃合いなのだとか」
「公爵領、ですか」
「アマリア様のお父君です。アマリア様はご存知ありません。あの方は甘いものを好みますが、土いじりの話題には一切興味を持たれませんので」
「あら、まあ……」
つまり公爵様は、秘密裏にそんな事業を任されるほど、陛下の信頼を勝ち得ている方なのでしょう。
となると、アマリア様……。
「王子様の婚約者のご令嬢って、せっかくのアドバンテージをご自分で捨ててらっしゃるってこと?」
「セフェリノ様? 何故あなたがそれをご存知なのです?」
「や、だって有名な話だよ? 王子様の婚約者のご令嬢が、聖女様をいじめぬいてるって」
「そういう噂が広まっているのですか?」
「うん。表通りで堂々と口にする奴はいないけど、ちょっと酒が入ればその話題さ。王様は先代に反発してまともな方になったし、王子様もそんなお父上を尊敬してお育ちになったらしいから、今の王家の方々を悪く言う連中はいない。でもって、聖女ユイカ様は控え目で性格がいいって噂がある。それに今のところ、彼女の言動が民に実害を与えたことはない。あの王子様が気にかけてあげているぐらいだから、今回の聖女様は昔のとは違うんじゃない? っていうのが大多数の意見だそうだよ」
「そんな意見なのですか」
「うん。逆にアマリア様の評判はよくないね。高慢ちきで攻撃的で、王子様の制止にすら聞く耳持たないって噂」
おおっと、事実ですから庇いようがありませんよ!
うーん。やはり今から挽回は難しそうですねえ。
というか、ほぼ不可能でしょうコレは。
陛下や殿下が軌道修正を試みてもどうにもならなかった感がありますし。多分お父君もですね。
…………。
一度、アマリア様ときちんと話してみましょうか?
近衛騎士様から陛下にお伝えいただいて、その機会を設けられないかお尋ねしましょう。
それからユイカ様には、きっちりがっつり現実をご理解いただかねば。
――ところが。
わたくしの予定は大幅に狂うことになりました。
その夜、小教会に、いわゆる〝招かれざる客〟がやってきたのです。




