ひだだだだ
私がひだだだだを初めて見かけたのは、三ヶ月前のことだった。
それは「迷宮」と呼ばれる程に広い最寄り駅の片隅、暗がりの壁に四つん這いで張り付いていた。
壁にいたのもそうだが、黒ずんだ肌(と言っても日焼けしたような茶色ではなく、ブルーチーズに生えている藍色のような肌)を持つ全裸の骨と皮ばかりの男性のような見てくれだったので、何となくクモみたいだなあと思った。
何かもごもごと呟いていたのだが、近くに寄れるほど好奇心は強くなかったし、他の誰もが素通りしていったので私も深くは考えなかった。
家に帰って、お父さんに「駅に妙な生き物がいた」と語ると「ああ、そりゃあきっと、ひだだだだだな」と即答された。「妙な生き物」と言っただけでまだ何の特徴も挙げていなかったのだが、その滑稽さと不気味さが混ざった名前がしっくりときた。「そいつってやばいの?」と言うと、お父さんは「触らないに越したことはない」と曖昧な言い回しをした。
それからというもの、毎日のようにひだだだだを見かけるようになった。見つかるときは常に一匹だけだが、見てくれは微妙に違うが、全裸の痩せた男性であることは共通していた。ある日、三時間彼らの動きを延々と観察したことがあったが、やることとしては壁を這い回って何かを呟くだけだ。面白みは全くなかった。
友達を駅に連れてきて、観察スポットで一緒にひだだだだウォッチングをしようとしたこともある。彼女は初めて見た姿に心底びっくり(加えて嫌悪)したらしく、手を取って「さっさと出よう」なんて情けない声をあげていた。「今帰っちゃったら、もう今日やることが何もない」と説得しても聞く耳を持たず、挙げ句の果てに私を置いて逃げてしまった。
数年間の付き合いも呆気ないものだなあと余韻に浸っていると、見知らぬおじさんがガハハと笑いながら「あのお嬢ちゃんは初めてか?」とたずねてきた。「多分」とだけ返すと「俺も最初見たときは三日三晩震えが止まらなかったなあ……」と長い自分語りに突入してしまった。普段であれば断っておしまいなのだが、如何せん今日はやることがなくなってしまったので、時間の許す限り聞いていた。ひだだだだも聞いていたと思う。
帰ってきたらお父さんを黒ずませたような見た目をしている生き物が、居間の壁に四つん這いで張り付いていた。何かもごもご言っていた気がする。しばらくするとお父さんが帰ってきて、それを見た後に「うちじゃ飼えないぞ」なんて言葉を言う。「てっきりお父さんかと思った」と冗談を言うと「これからお前の弁当は作ってやらない」と不機嫌になってしまった。食事は私が作っていたから別に困らなかったが。
それからは無視していた日々が続いただけなのだが、お父さん似のひだだだだが子供を産んでしまったようで、今朝になって全裸の黒ずんだ大小さまざまなお父さん似の男性をちらほらと見かけるようになった。それぞれがぶつぶつと何か呟いている。こうなると本当にクモみたいだ。お父さんは「駅に帰してやらないとなあ」と新聞を読みながら呟く。拾ったイヌじゃないんだから、そう簡単に引き剥がせるものだろうか。
でもよく考えてみると、ここは公衆の場である駅ではなく自宅なのだから、ここでならひだだだだに色々やっても良い気がしてきた。全裸の男性のように見えているが、その全身をくまなく確認したことはないわけだし。せっかく何匹もいるなら、多少実験してみてもいいかもしれない。
お父さんは「触らない方が良いぞ」と釘を刺してきたのだが「お父さんだって昔は虫とかにそういうことしてたんでしょ?」と返すと、矢継ぎ早に会社に向かってしまった。今日は土曜日なので、学校は休みだ。一人で幾らでもひだだだだを研究することが出来る。今の時代、情報はいくらでも手に入るものだが、実際に試してみる以上に実になる情報もない……
駅で観察したときも思ったことだが、本当に貧相な中年男性だなあと思う。下腹部だけがぷっくりと膨れているのを除けば、骨と皮しかない。毛がまばらに生えている。乳首もペニスもだらんと垂れている。表情はぼんやりしているというか、何考えてるのか分からない。目の焦点も合っていない。口だけがもごもごと動いている。不気味だ。友達が逃げるのも分かる。私が逃げないのはきっと加齢臭がしないからだ。ひだだだだには現実味がない。その証拠に家中にいる多くの彼らは物音ひとつ立てることはない。
本当に現実の存在であるかを知るには、彼らに触れてみるしかないか。襲われる可能性もあるのだが、どうにも好奇心が上回りそうだ。レインコートに身を包み、ゴーグルとマスクとゴム手袋を装備。直接触らないように箒でつついてみることにする。彼らは四つん這いのまま緩慢な動きを繰り返しているので、やること自体は簡単だ。
箒の先端がもう数センチで彼に触れるというときに、着信が入った。
電話主は友達からだった。ひだだだだを見て以来ギクシャクしていたのだが、まさか向こう側から連絡してくるとは思わなかった。「もしもし」と陽気な挨拶をする私を遮って、一方的に言葉を捲し立ててくる。
「すぐにこっち来てお願いこっち来て駅にいるんだけど四つん這いの裸の黒いおじさんに囲まれてるあれもこれも全部あんたのせい助けて何か言ってるけど聞き取れない来る来る来る来る誰か誰か誰でもいいからあんた聞いてるでしょ何なんで無視するの誰も見世物じゃないのにおいおっさん何観察してんだふざけんなああああああ触ん」
その後ぷっつりと彼女の声が途絶えた。電話は切れていないが、声は聞こえない。不思議なことに駅の雑踏はそのまま残っている。彼女の跡だけがくっきりと消えてしまったようだった。
「だから触るもんじゃないんだよ、あれは」と夕ご飯を食べながらお父さんは呆れていた。
電話が終わったときには、すっかり触る気が失せてしまい、私は一日中ぼんやりとしていた。いっそのこと、全裸になって彼らと友好を深めてもよかったくらいだ。私の肌はお母さんに似て色白だから、白と黒で良い対比になったかもしれない。ちなみにお母さんは昔より白くなって壺の中におさまっている。
「今日は帰しそびれたから、次の月曜日にやるわ」とレンタルしたDVDみたいな扱いのお父さん似のひだだだだを脇目にお父さんはテレビを見る。私は別にどうだってよかったのだが、日曜日は友達のことを心配しにきた体で最寄り駅に向かうことに決めた。
寝室で私は考える。
あの電話で友達は「囲まれてる」と言っていた。妙な話だ。彼らは常に壁に張り付いているのだから。あの広大な駅の四方に囲まれるというのはおかしな表現だ。これが例えばほら、今の私のような、一人部屋の中であれば話は別なのだが……
と思って周囲を見渡すが、全裸の黒い大小さまざまなお父さんはいない。年頃の一人娘の部屋に入らないのは、お父さんなりの配慮だからなのかもしれない。
目を閉じて夢を見る。お母さんが今よりも肌色だったときのこと。お父さんとの仲は良かった。私はその中にいた。ひだだだだも見えなかった。お母さんが白くなったのは何が理由だったか。肌色が赤くなったり黄色くなったり青くなったり、信号機みたいな変化を経て、そしてひだだだだのようになり、何よりもスリムに白くなった。
お父さんはその中で特に何の大きな動きを見せることはなく、私もお父さんに似た反応だった気がする。
駅に向かう途中のお寺で坊さんに声をかけられた。
知らないおじさんにすら返事をする私だったので、坊さんにも返事をした。
「あなたは今、とても大変なことになっていませんか」なんて穏やかではない様子で話すものだから、試しに「ひだだだだ」と呟いてみると、仰々しく頭に手を当てて「やはり……」と何やら言いたげだ。
話をすると、駅というものは様々な人々の思念が行き交う場所らしく、そこには勿論怨念の類いも溜まっているらしい。ひだだだだとはそれの一種とのことだ。
友達が集団で襲われたことを話すと、もはや一日過ぎているのだから、どうしようもないらしい。一挙一動が大袈裟であるが、そこらへんの線引きはドライである。
彼女はどうなったのだろうか、心配だ。心配だということにしよう。
駅につくと、なんだか奇妙な状態になっていた。
日曜日だというのに驚くほどに空いている。いや、それは正確ではないか。混んではいるが、それは地面ではなく、壁だということだ。壁に四つん這いの人がごった返しているのだ。
男の人も女の人もお年寄りもお子様も、みんなが皆、赤ん坊みたいになっていて、一様に黒ずんでいる。一瞬、私の立っている場所が壁だと見間違えるほどだ。
「どえらい日に来たもんだな、お嬢ちゃん」と見知らぬおじさんがガハハと笑いながら来る。「これは一体」とだけ返すと「俺も最初見たときは三日三晩震えが止まらなかったなあ……」と長い自分語りに突入してしまった。
何千何万ものぶつぶつという声がいつもの雑踏の代わりになって、私とおじさんを包む。この中に友達もいるのだろうか。
着信が入った。
電話主は友達からだった。まさか向こう側から連絡してくるとは思わなかった。「もしもし」と陽気な挨拶をする私を遮って、一方的に言葉を捲し立ててくる。いや、捲し立ててといっても、何を言っているのかわからない。ぶつぶつと何かを言っている。
音量を上げてもぶつぶつがうるさくなるだけで全然要領を得ない。私が「用件があるならこっちに来てほしい、東口にいるから」と言うと、ぷっつりと彼女の声だけが途絶えた。電話は切れていないが、声は聞こえない。雑踏のようなその他のぶつぶつはそのまま残っている。
こうぎっしりと居られると、彼らはクモではなくアリかアブラムシのように見えてくる。まあ、それで何かが変わるわけでもない。壁の模様にしては汚らしいと思うくらいだ。おじさんはまだ自分語りを続けている。前に聞いたのと同じ内容もあれば、少しだけ刷新されたものもある。
おじさんの勤めていた会社の社長をはじめとした重役一同がある日突然失踪し、混乱の中で万年平社員であったおじさんが一時は役に立ったのだが、優秀で野心がある若い社員「加藤」に追い抜かれてしまった……というところまでは前と同じ。今回はその続きがあった。
「……加藤が突然怯え始めたんだよ。地面に足がついている気がしないやら、意識ははっきりしているのに、全然実感が湧かないやら。今までこんなことなかったのにって飽きるほど聞かされたなあ。てっきり仕事の疲れとか、プレッシャーじゃねえかって思ってたんだけどなあ。驚いた驚いた、地面に足がつかないからって、何も壁に張り付くことはないだろうに……」
今となっては十分に現実味のある怪談話を聞きながら、友達が全裸になったような姿をした黒ずんだ何かが壁に張り付いていて、こちらをじっと見つめているのを見ていた。
「これから多分、お母さんのいるところに行くことになるんだけど、何か伝言とかある?」と私はお父さんに電話をかけていた。少しだけ沈黙が流れた後、「もうちょっとだけ待てる?」と随分な軽口を叩かれた。それが伝言であったとしても不思議ではないが、ここは私の身を案じたと言うことにしておこう。そんなこと考えているうちに、頭も身体もふわふわしてくる。ふわふわなんて言葉だから聞こえが良いが、つまるところがトリップとかトランス状態である。このままでは自ずと服でも脱ぎ出しそうである。おじさんはまだ自分語りを続けている。そうか、既にトリップしていたか。
「加藤って人は結局どうなったの」と聞いてみると、おじさんは「ひだだだだ」とだけ答えて、そのまま自分の世界に戻ってしまった。そういや、坊さんが怨念とか何とか言ってたな。普通の学生だった友達には関係なさそうだし、今や子供までその餌食だが、どういうことなのだろう。コインロッカーベイビーとか?
次第にぶつぶつ声が大きくなってくる。身体がふらつき、立つことが難しくなってくる。どうしようもなくなってくる。どうしようもなくなったら、どうしようもない。それで終わりだ。「俺はよお、そんな光景を見ちまったもんだから、三日三晩震えが止まらなかったなあ……」だめだ、もう限界。
夢の中で肌色のお母さんと会った。幸運なことと不運なことがひとつずつあった。幸運なことはお母さんは四つん這いでもなく、黒ずんでもなく、全裸でもなかったこと。不運なことは私は四つん這いで、黒ずんでいて、全裸だったことだ。そして、そのまま談笑をした。死んでいるのかもしれないが、死ぬほど恥ずかしかった。未来のこと、お父さんのこと、学校のこと、友達のこと、信号機のこと、色々話した。お母さんは全部の話について、真面目に聞いてくれたし答えてもくれた。私は思いのほか、自分の感情が制御できないのだと知った。今の姿こそが本当の私なのだろうなと思った。別れ際に名残惜しさを振り切って「もうちょっとだけ待てる?」とお父さんの伝言を伝えた。
目覚めると私は壁ではなく、地面の上にいた。目の前にはお母さんの代わりにお父さんがいた。
「餓鬼って妖怪がいるんだがな。そいつは栄養失調の症状を起こしたかのように、手足は痩せ細り、下腹部だけがぷっくりと膨れ上がっているんだそうだ」
そんな話をお父さんは家への帰り道にしていた。ぼんやりとした意識の中で、一歩一歩の足取りだけが確かに伝わってくる。こんなときおんぶくらいしても良いと思うのだが、年頃の一人娘に対するお父さんなりの配慮なのかもしれない。
月曜日になったら、この現象は解消しているのだろうか。それとも相変わらず、不気味な生物ひだだだだを見かけることになるのだろうか。
まあどちらにせよ、時間は変わらず流れていくのだし、そのときはそのときの生活をするだけの話なのだ。
ブロック塀の上を歩きながら、そう思った。