前編
そいつは、エイプリル・フールの日に現れた。
だからきっと、あれは全部、嘘。
「な、なんだお前?」
枕元にぼうっと立って、自分を見下ろしている少女に向かって、京平は思いっきり叫んだ。
「誰、あんた?」
京平の問いかけには答えず、怪訝そうな顔で、少女は逆に尋ねてくる。
「だ、誰って、お前こそ誰だよっ!? ここは俺の部屋だぞ?
人の部屋に勝手に入り込んで寝込みを襲うとは!」
京平は布団を引き上げて身を隠しつつ、間近にある少女の顔に怒鳴りつける。
「人の部屋?」
そう呟いて、少女はきょろきょろと部屋を見渡した。そしてすぐに、「うげっ」と心底嫌そうに呟く。
「何、このきったない部屋」
「余計なお世話だっ!」
真っ赤になって京平は叫んだ。
確かに汚い。
服は脱ぎっぱなし、読んだ本は散らかしっぱなし。ゲームやDVDも、っと。
「やだ、エロ本がある」
「うわあっ! 勝手に見るんじゃない!」
ベッドから飛び起きて、京平はそこらに散らかっているいろんな物をかき集めた。
「だいたいお前なんなんだよっ!?」
人の部屋勝手に入りやがって、と少女を仰ぎ見て、やっと京平はおかしな事に気付いた。
目の前にいる少女を、京平は知らない。
着ている制服には、見覚えがある。京平が通う高校の近くにある、有名私立女子校のものだ。
でも、わかるのはそれだけ。
少女は部屋全体、それどころか京平までも汚いとでも言うような目つきで辺りを見渡している。
彼女はベッドの脇に立っていた。
枕元に。
まるで、そう、よく話しに聞く、死にゆく者が親しい人間に別れを告げにやって来たかのような、そんな風情だ。
足はある。
でも、彼女は宙に浮かんでいた。そして、彼女の姿は透けていた。
「お、お前、幽霊?」
「幽霊? 私が?」
少女はきょとんとして京平を見やり、それからおもむろに自分の手を覗き込んだ。
「うわっ、す、透けてるよ!」
「何で幽霊が俺の前に……」
「わ、私死んでる?」
「し、知るかっ!」
少女は京平の側に近づいて、彼の体を揺さぶろうとして失敗した。何しろ幽霊だ。体に触れられるはずもない。
「うわあっ、ち、近寄るな、幽霊女!」
「ひ、ひどい。幽霊女だなんて!」
「じゃあ、お前は誰だ!」
京平の問いかけに、少女は顔色を失った、様に見えた。幽霊だから、もともと顔色なんてなかったが。
「わかんないよお。私、誰?」
一気に泣き出しそうになった少女を前に、今度は京平は血の気を失う。
「俺に聞くなあ!」
「迷わず成仏してくれ。せめて俺の前から消えてくれ」
「ひどい」
「ひどいって言われてもなあ、俺はお前を知らん」
洋服に着替えて、朝食の食パンにかじりつきながら、京平は隣でぷかぷかと浮かぶ少女に投げやりに返した。
「私、死んじゃったのかなあ?」
「幽霊なんだからそうだろう」
「ほんと、冷たい」
そう言うと、少女は恨めしそうな視線を送る。
これはちょっと怖い。何しろ相手は幽霊だ。
「そ、そんなこと言われたってさ、知らないものは知らない」
「でもさあ、私、あんたの前に現れたわけじゃん。知らないって事はないでしょう?」
ぷかぷかと浮かんだ少女は、京平の横で腕を組み、あぐらをかいている。
これが女か? 女子高生(しかも有名女子校の!)か?
微かに京平はショックを受ける。
「じゃあ、俺に勝手に片思いして死んでった女子高生の誰かだろ」
うん、そう言うことならわからないでもないな、と京平は頷く。
「はあ? あんたばかあ?」
思いっきり嫌そうに、思いっきりバカにしたように少女が言う。
「あんなきったない部屋に住んでて、エロ本にやにや笑って見てるような暗い男、片思いだなんてありえないでしょう。この、私が? は、ばっかじゃないの?」
すっごく偉そうだ。なんだってここまで偉そうなんだ、この女。
京平は盛大に顔を顰めた。
「あ、そう。じゃあ全くわかんねえ。他当たってくれ、俺は知らん」
「うそっ! やだ! ごめんって、ねえ、拗ねないでよ。
こんな可愛い女の子が困ってるのよ、ちょっとは可哀想とか思わないわけ?
助けてあげようとか思わないわけ、この冷血漢!」
「それが頼んでる態度か、お前。
第一、普通自分で可愛いなんて言うかあ?」
「え? 私、可愛いんじゃないの?
だってさ、こんな若くして幽霊になる女の子なんて、薄幸の美少女と相場が決まってるじゃん」
「どこの少女漫画だよ、それ」
まじまじと少女を見返しながら、呆れたように京平は呟いた。彼女は、真剣に自分を可愛いと思いこんでいるようだ。
少女の幽霊は、確かに「可愛い」部類には入るだろう。
大きめの、くるくる表情の変わる瞳が、何よりも印象的だ。口さえ開かなければ、きっと京平だって素直に可愛いと思ったかも知れない。
「私が可愛く見えないなら、あんたの目が腐ってるのよ!」
「いいよ、腐ってて」
疲れたように京平は返す。
こんな女に付き合ってられるか、という心境だった。
「いいからさっさと消えてくれよ」
「幽霊でいるって事は、つまり何か心残りがあるわけよね?」
「だろうね」
「やっぱりこれはさ、病弱で入院中のヒロインが、病室の前を通る素敵な男子高生に恋をして、想いを告げられないでいた、ってのがパターンよね?」
「だからどこの少女漫画だってえの」
京平の言葉に全く耳を傾けようとはせず、少女は熱を持った目で話を続ける。
「ヒロインは決意をするのよ。成功確率の低い手術を受けて、健康になって彼に告白しようって。でも、その想いは果たされず、手術は失敗に終わる。
ただ、告白したいって言う想いだけ残して。
そう、そして今、私はここにいるのよ」
「はいはい、それで?」
「病院へ行くのよ!」
「は?」
突然京平を振り返り、びしっと言い切る幽霊に、彼は間抜けな声を返す。
「そういう入院患者がいなかったか、探すの!」
「だ、誰が?」
「あんたに決まってんじゃない! 私は幽霊なんだから!」
「な、何で俺が~!?」
「だからさ、ここは、お前は俺に片思いしてて、俺に告白したかった。
それが心残りだった、って事で手を打ってさ、成仏しない?」
「い・やっ!」
京平の提案を、少女ははっきりきっぱりはねつける。
4月になったというのに、今日は風が冷たく寒い。
せっかくの休日を、こんなわけの分からない幽霊のためにつぶされた俺は、なんてついていないんだろう。
京平はげんなりとした様子で、ジャケットの襟を引き上げた。手袋をしてくるべきだったと、冷たい手をこすり合わせる。
今日は友人と出かける予定だった。仕方ないので、出がけに電話して今日の予定をキャンセルした。
楽しみにしていたのに、幽霊とデートになるとは、本当についていない。
「私が好きだった人は、あんたとは比べものにならないくらい格好良くて、優しくて、素敵な人に違いないんだから!」
「で、どこの病院探すわけ?」
京平は彼女の台詞を聞き流して、話を進める。
「どこ?」
「名前は? 年は? どこに住んでたんだ? 何か少しは思い出せないのか?」
「な、名前?」
少女は難しい顔で、うんうんとうなる。
「そうだよ、名前。名前もわかんないで、どうやって探せってんだ?
第一、お前が死んだ病院がわかったって、お前の片思いの相手なんて、お前が思い出さなきゃどうにもなんねえだろう?
つうかさあ、お前がそんな可愛いタイプか? 絶対違うね。
男の前で平気であぐらかく奴だぞ、お前は?
ありえないだろう? どうせ交通事故にでも遭って突然死んで、死んだことにも気付かなかったって落ちじゃねえの?」
まくし立てると、初めは殊勝な様子で聞いていた幽霊は、最後には俯いてしまう。
言い過ぎたか、と京平が少女の顔を覗き込もうとした時、彼女は勢いよく顔を上げて、きっと彼を睨み付けた。
「うるさい、うるさい、うるさーいっ! 私は死んじゃったのよ! 可哀想じゃない。ちょっとは同情してくれたって良いでしょう!
私は、私には、片想いの相手がいたの! それは絶対! だって私は、告白しようとして、あの日公園に! って、え? 公園?」
「つまりお前は、入院してた悲劇のヒロイン、ってわけじゃないって事だな」
「えっと、あれ?」
「その勢いでさあ、もっと何か思い出してよ?」
京平は期待の眼差しを少女に向ける。
少女はしばらくうんうんとうなる。
「わ、私、……誰?」
そう簡単にはいかないらしい。