月影
更新遅くなりましたが、どなたか読んでくださったら嬉しいなぁ…とぼやきながら。
朱尾が留守で霧彦も病欠なので、朱は不貞寝でもしているのでしょう。
前回より、舞台は坂下のお堂です。
夜半に雨が上がり、珍しく月が雲間に覗いた。
千都世は、淡白い月の光を睨みあげた。
街灯の光の届かない暗い藪の輪郭を月明かりが縁取り、境内の玉砂利は白く雪のよう。
「沙珠〜帰ったで!」
傘を持って出たはずの千都世は、なぜか濡れて帰ってきた。
玄関の敷石の上には水滴による黒い染みが出来ており、全身濡れそぼっている。
沙珠と呼ばれた壹師の命婦は、乾いた手ぬぐいを放ってやった。
「食べよったか?」
「包み開けたら、いきなし笑いよって、馬糞や言うてたわ」
「失礼なやっちゃな」
「ま、美味そうに食うてたで」
千都世が使いで訪ねた王子の狐は、命婦の古い知り合いである。
「大好き」なはずのお萩を、お重に詰めて千都世に持たせたが、気に入ってくれた様だ。
「そういや、今日はどうしたん?珍しいな」
奇妙なものでも見る様に、千都世を見上げた命婦は、へぇ、と感心した様に眺め回す。
仕立てたばかりの香色の小紋で出かけたはずだったが、ジーンズとTシャツに着替えている。壹師にしてみれば、男の履くようなズボンと、二の腕まで晒した綿の下着を着ているという認識だが、まあ、時代が違うこともわかっている。ただ、あまり好きではないのだ。
着るものに合わせたのか、珍しく髪色を変えていないのも見慣れない。普段は自分の薄い色の髪が嫌だと言って黒く染めているのに、濡れて額に張り付いた短めの髪は、今日に限ってそのままである。
若いもんの行く衣料量販店の袋を抱えていたが、普段から着物以外着ることのない千都世の乱心かと心配になる。
「ああ、雨がひどいし帰りに着替えたんよ。雨具は好かんし、泥飛ばしたらあかんと思って。」
「で、そないな格好してるんか。珍しこともあるもんや」
どこで何をしていたのやら。
「……洋服着てるんがそないにおかしいか?」
「いんや。」
壹師……というか沙珠は、にやりと口角を上げてから目をそらした。
「あ、そぉや。あんたの留守中に、朱さん来てくれはったで」
濡れた上着を引き剥がしている、千都世の手が止まった。
「……なんか言うてた?」
「お稲荷さん美味しかったて」
「……そんだけ?」
「あんたに、ありがとうて」
「で。」
「……散々、わての作った饅頭食うて帰ったで。」
「あほか。相変わらず、甘いもんにすぐ釣られる」
忌々しげに呟くと、一つくしゃみをして身震いする。
「冷えるしな、ちゃんと風呂入りや。風邪引くで」
化け狐が風邪なんぞひくかいなとは思ったが、この身体は意外に脆い。
「沙珠、今日も姐さんとこで寝るんか?」
「そぉや。年寄りは夜が早いよってな、先に休ましてもらうえ」
沙珠は、素直に風呂に入る千都世を見届けると、ふわっと狐に戻り砂利の向こうへ消えた。
堂内の荼枳尼天の、本人とは似ても似つかない小太りで素朴な木彫りの像の足元で、沙珠は丸まって眠る。「可愛い」お堂を一番気に入っているのは、沙珠かもしれない。
寺の裏手にある庫裏は、住職が住まいを別にしていることもあり普段は使われておらず、それをいいことに「身寄りのない尼とその娘」と言う設定で一人寡の住職を丸め込んで、寺に入り込んだ。
坊主といえど、千都世達にとってはちょろいものだ。
そんな訳で、二人は誰に憚らず寺に住み着いているのだが、我らが主の為に「可愛らしい」とはいえお堂を用意して勧請しはるくらいの物好きである。住職は一筋縄ではいかない御人であった。色ボケじじいと千都世は影で呼んでいるが、決して大げさではない。沙珠も千都世もだいぶ口説かれている。ストライクゾーンが広すぎるのも問題だ。生臭坊主と罵る沙珠の言い分ももっともだが、そういう時勢ではないのだったと、身の危険を感じる毎日である。
一人になると、静けさが耳に痛い。浴槽には、洗って束にしたヨモギがいつものように入れられている。
別に、狐鍋にするわけではない。
千都世の母が昔、幼い千都世の髪を洗うのに、ヨモギの煎じ湯で洗ってくれていたのだが、それを知った沙珠がいつの頃からか用意してくれるようになった。
そういえば、朱はこの香りで千都世を思い出したようだった。
「呑気な顔して……緊張感のない顔しよって」
久方ぶりに顔を合わせた朱の呆けたような顔を思い出し、浴槽の中で膝を抱える。
朱が千都世の元から姿を消して、約半世紀が過ぎていた。化け物の名にふさわしく、幾世紀もの時を過ごしてきた沙珠などにしてみれば、たったの五十年ばかりと言うかもしれないが、長いものは長い。
当たり前だが、朱は何一つ変わらない姿をしていた。それでいて、見たことのないような表情をしていたのが無性に腹立たしいのだ。
目尻を赤く染めて、何か痛みを堪えるように顰めた眉。
朱の哀しむ顔しか思い出せなくなって久しい千都世には、何もなかったように笑う朱は別人のように思えた。
「顔も見たないて、言われた方がなんぼかましや……」
けれど、そう言われたらそう言われたで、自分が凹むのも目に見えている。
ずっと、長い間一緒にいたのに、離れ離れになった。
ある事件をきっかけに。
格子の嵌った浴室の窓から、月は見えない。見えないが、ふと視線を感じて窓外に目をやると、格子の間に白い綿毛が絡んでいるのに気がついた。
それは見る間に色を濃くしてゆき、はっきりとした輪郭を取り始める。
その時初めて、それが透けていたのだと気付いた。
「わわわわわっ!急に見ないでくださいましっ!実体化するっ!格子、めり込むっ!」
その毛玉が、意外に低めのいい声で呻いた。
ぬいぐるみのようなふっくらとしたフォルムの白い塊が、今まさに……僅か三寸(約九センチ)ほどの格子の隙間に挟み込まれて、だらしなく垂れ下がった。
それの言い分で言えば、ほぼ実体化している。
身体の一番細い腰の部分でかろうじて挟まっているようだが、助けない限りはこのまま干された状態で一夜を過ごすことになりそうだ。
よく見ずとも、それがあの動物であることはすぐにわかった。力なく伸びた手足は厚みのある白い毛に覆われていて、なんだか不器用そうに空を掻いている。特徴的な長い耳は、血が上ったのか赤く色づき、真っ赤な虹彩の嵌った大きな瞳は、今にもこぼれ落ちそうに潤んでいる。
それだけ見ていると可愛いが、中身が先ほどの低い声の何かだと知っている千都世としては、かなり複雑である。
「それは、助けがいるってことかいな?」
「もちろんです」
聞いたのがいっそ馬鹿らしい。兎的に清々しいドヤ顔で返され、千都世は思わず毛玉に湯を飛ばした。
「なんか、腹立つわ……。もちろんですて、人にものを頼むのに、その言い草」
「いえいえ。自分不器用ですし」
確かに、説得力がある。
こうして風呂場の格子に、ベランダに干された枕よろしくぶら下がった白い塊は、一見するとちょっと太り気味のただの兎であるが、その正体は月夜見尊や大国主命の神使を務める神兎の一匹であろう。
暫くはだらりと垂れ下がったまま、湯船に揺蕩う千都世の白い肌をうっとりと眺めていたが、自分を的にして水鉄砲で延々と狙い撃ってくる千都世の無言の圧力に負け、鼻を鳴らして惨めに訴えた。
「あの……助けてはいただけますまいか」
「初めからそう言えや。兎饅頭。」
機嫌の悪い千都世は、とことんガラが悪い。
湯船から立ち上がり、兎の首筋を引っ張り上げ、格子の外に押し出した。
初めは、露わになった千都世の身体に視線を這わせて目をパチパチさせていたのだが、押し出されているのが不本意だったらしく、兎は手足をばたつかせる。
「狐の君、中中なか!入れてくださいってば」
「黙りゃ、エロうさぎ」
無情にも、格子外にぼとりと落とされた白兎は、漏れる湯けむりを恨めしく見上げて哀れに泣き口説く。
「主人のお使いで参っただけなのです。決して、狐の君の裸が見たかったわけでは……」
見たかったかどうかはともかく、しっかり見ている。まあ、千都世はそれを気にするような感性も持ち合わせていないのだが、それとこれは別である。
「そもそも客が風呂場の格子に引っかかるもんか?玄関口から出直しぃ」
窓も閉めた。
風呂から上がり、そんな兎のこともすっかり忘れていた頃、庫裡の戸を控えめに叩く音がした。寝たふりでも決め込んで無視してしまおうかと思ったが、だんだんと戸を叩く音が狂気じみてくる。こんこんと同じリズムで途切れることなく、ただただひつこい。
あの、エロ呆け兎に違いない。
「気色悪いわっ」
堪らず、浴衣の上にどてらを羽織り、鍵のかかっていた玄関の戸を少し開けた。
蹴り出してやろうと思っていたのだが、結局それはなされなかった。
戸の隙間、その向こうに、月明かりに照らされた烟るような美しい顔があった。
なんか、有名な人?が出てきてしまって、一人でびびっています。
まあ、どちらかの方です。
次回、お客様のご紹介をさせていただきます。