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烏の符  作者: 沼波
千都世
7/26

壹師

霧彦がいないと、案外何もできない朱さん。

ちゃんとお重を返しに行きます。


空梅雨より、ざーっと降ってもらいたいなと思いつつ。


人気のない本堂軒下の縁台に上がらせてもらい、雨を眺めていた。

「東に来ると、雑木林が(おお)なるね」

茶受けに出された饅頭は、山芋の香りがしてとても美味しい。中のこし餡は、皮の甘さを損なわないギリギリの甘さに仕上げてある。

緊張感もなく、頬を落とす勢いで舌鼓を打つ(あける)を前に、白い狐が呟いた。

心許なくというか渋々、坂を下りてきた朱を見つけたのが、境内で掃き掃除をしていた、尼さん姿の壹師(いちし)命婦(みょうぶ)であった。

昔馴染みの為か、今は元の狐姿に戻って、くつろいだ顔をしている。

「暗ぁて、鬱陶(うっと)しおもてたけど、まあ、こんな雨の日もええもんやね」

田舎の寺であるので、本堂と庫裏と、いくつかのお堂が藪に囲まれただけの寂しい境内である。

西側に、社へ続く坂道があるが、寺からの行き道は生い茂った姫女菀(ヒメジョオン)が塞いでいる。その向こうには朱が降りて来たばかりの暗い森が、襲いかかるかのような様相で迫っていて、不気味ですらあるのだが、命婦様は気にいったらしい。

京都の街中で暮らしていた命婦には、関東の里山の風景は新鮮なのだろう。京は、自然が多く美しいが、長い年月をかけて人が作って来た美しさだ。目の前に広がる野放図な雑木林は無いに等しい。

返事がないのにしびれを切らしてか、饅頭を頬張る朱に、呆れたように問いかける。

「なあ、朱さん、聞いてはる?」

「壹師の命婦様の薯蕷(じょうよ)饅頭が、美味しくて……」

壹師の命婦は、千都世の姉のような、母のような(ひと)であるが、血縁はないらしい。

昔、千都世と出会った頃に引き合わされたのを覚えているが、その時と何一つ変わらない姿なので、あれから随分と時が経った事を忘れてしまいそうになる。

狐が喋っているのも、喋る烏の朱としては特に驚くことではないのだけれど、命婦のその作り物めいた白い色にはいつも圧倒される。

皮膚の色が黒く、毛の薄い鼻先や手足、耳の先などの末端部分は黒色がほんのり透けている。血の気のない蒼ざめたような色合いに見える為か、白が一層際立つのだ。

「わての事、その名前で呼ぶもんも少なくなったな」

そない、改まらんでよろし。そう言って、命婦は笑ったようだった。狐なのでわからない。

寺と尼さん姿で「命婦」というのもおかしなものだが、伏見の稲荷大社で神使をしていた頃の名残である。

今はもう、昔の彼女を知る人しか呼ぶものもないが、朱には今の彼女の名を呼ぶのは躊躇われた。

「まったく。千都世が留守や言うたら、そんなホッとした顔して。あの子が可愛そなるわ」

別に狙って来たわけではないが、会わずに済めばこれ幸いと思いはしたので、ばつが悪い。

千都世は命婦のお使いで、王子の方へ出ているらしい。

ふんわりとした真っ白な尾を、ゆるりと体に巻き直し、金の瞳を朱に向ける。

「まだ、会いたないんか?」

細まった瞳孔が、朱は苦手だ。というより、命婦のことが苦手なのかもしれない。見透かされている。

「千都世は……千都世には……」

いたたまれなくなって残った饅頭を口に入れた朱をあきれたように見て、小さくため息をついた。

「そないにええ男さんのかっこうして、中身はなーんも変わってへん」

「昔っから壹師さま、恐いんですもの」

「いくらなんでも食うたりしまへんえ。」

ジロリと舐めるように朱に視線を這わせた。

思わず朱はすくみ上った。朱だって、ただの烏である。

千都世(あのこ)も、わての尻尾引っ張り回してた頃からたいして変わらんし、そんな育つほど時間も経ってないんか知らんけど。」

昔、弘法大師として有名な空海さんの事を近所のおじさんみたいに話していたのは命婦である。そんな(ひと)にとっては、朱たちが生まれたのなんてつい最近の事だろう。

伏見を出た理由は、どうやら千都世の兄にあるらしいのだが、いつの間にか命婦はお目付役のように千都世とともにいる。

そして今は何故か、東国の辺鄙な田舎町の寺にいる。

「千都世のお供なのでしょうが、壹師様は何故にこちらへ?」

命婦は白砂利の向こうに見える、銅板の屋根が眩しい小ぶりなお堂へ、目をやった。

「こちらの住職さんが奇特な方でな」

ちろりと命婦は舌を出した。獲物を前にした蛇のような顔になっている。狐だけれど。

「境内の隅に可愛らしいお堂を増やしましたやろ?あっこに、うちの姐さんを勧請しはってな。それのお供に。」

可愛らしいとは、小さいと言う事だろう。いや、狭いか。

「姐さん」というのは、貴狐天王(きこてんのう)……荼枳尼天(ダキニテン)の事だが、あの方がこの可愛らしいお堂にいらっしゃるのも、なんだか想像できない。

「白玖様は?」

「あのひとは、豊川で足止めや。その代わりや言うて、姐さんが千都世を呼びつけはってん。」

「……」余計なことを、とは言っていないが顔に書かれているのかもしれない。

白玖とは命婦の連れ合いで、千都世の年の離れた兄である。

一度だけ、その姿を目にしたことがあるが、手足と顔が黒く、背は波打つ白銀で、ふんわりとフサフサなしっぽを三本お持ちの、たいそう優美なお姿をしていた。

命婦が稲荷の神使というお役目さえ放り出して、白玖を追ったというのは余程のことである。命婦も女であるから……その白玖の美しさに人生を狂わされた一人なのだろう。男女の事であるから、これ以上の詮索は野暮というものだが、白玖の姿にはそんな危うさがあった。

「そんな訳で、しばらくはお隣さんや。よろしゅうに」

「此方こそ……」

「干し柿いただいたん、羊羹にでもしよかな。また、千都世にでも持って行かせますわ」

喉がなるのをなんとか堪えた。

朱は甘党である。しかし、狐は困る。

「いえいえ、お構いなく。稲荷寿司も大変美味しくいただきました。千都世にもどうぞよろしくお伝えください。」

板に水を流すようにつらつらと言葉を続け、澄んだお茶を喉に流し込むと、朱はいそいそと帰り支度を始める。

雨で湿った階段を下り、履きつぶして歯のなくなった焼き桐の下駄をつっかけたところで、音もなく、朱の傘の柄に手を延ばした者がいた。

尼削ぎに、袈裟を着た三十代後半あたり……にしては綺麗な女。

尼僧姿の壹師の命婦が、(きざはし)に立てかけた蝙蝠傘の柄を握りしめていた。

「朱さん。これな、うちの姐さんの仕組んだ罠や」

笑わない金の目が、すっと細まった。

つるりとした白磁のような肌に、細く引かれた眉と女雛のような整った双眸は、人型になってもやはり生気がない。

「ここに帰ってきたのやって、千都世からしたら不本意や。わてかて、なんでわざわざ今になって、て思うわ。あの子の傷口開いたところで、派手に血ぃが出るわけでもなし、そない楽しないやろ」

血のあたりの同意はしかねるが、言いたい事の本質は間違ってはいない。

「でもな、姐さんはもう、両の手血ぃで染めるより楽しい事を知ってはる。千都世もそれには気づいてるやろ」

千都世なら、素直に踊って見せるかもしれない。

「焼けたトタンの上でも転げまわったら良いんですか?」

「あほいいなや。猫やないんやから」

言いたいことなど、初めから分かっている。

「澄ました顔してんと、溺れて見せや、言うことや。」

「ご期待に添えるか……。」

体良く笑ったつもりだった。壹師様も冗談が過ぎる、と。

「姐さんは、千都世が欲しいんよ。若こうて力のある子ぉが。でもな、あの子は半分の血のせいで中途半端や。獣としては血への渇望がどうにも足りひん。」

笑えない話を、始めているらしかった。

「でもな、あんた()への執着だけで、千都世は何にも()(まさ)る。「性欲」言うたら、お行儀のええあんたらは嫌がるやろけどな、慾望に身を焦がす言うんも、必要なこっちゃ」

一歩、命婦は近づき、朱の手を取った。

冷たい、乾いた手だった。

「人がわてらに勝てること言うたら、そんくらいなもんやろ」

そう言う慾望(もん)に身をまかせるようになったら、あの子はもっと(まばゆ)うなる。そう言って、朱を見上げた。

「巻き込まないでください。それに、私では色々と無理がある」

そらした目を、絡みとるように命婦の声が追ってきた。

「自分独りで決めた事やろ。」

「もう、独りです。誰に断ることがあります」

「千都世を許せやなんて、そないに都合のええ事はよう言わん。せやけど……」

「許すも何も、千都世も私と同じなのは分かってるんです。無くしたものの大きさを、比べたところで何になります。でも私には、なくしたことを認めるのはまだ……」

壹師の瞳に、始めて感情の様なものが浮かんだ。

「そんな格好で長いことおるからや……。」

朱の姿を、痛ましげに見上げた。

「仕方がないでしょう」

思わず、強い聲が出た。

「あの子も、朱さんも、よう似てはるけど、千都世は案外、気性が激しいよってな、大概のことは口から出してしまうやろ」

嫌味ったらしくて、口が悪い。

それなのに、すぐに謝れる素直さまで持ち合わせている。

悲しくても、苦しくても、楽しくても、まるで朱の言葉を代弁したかの様に口にして、泣いて、笑う。


「私には、もうずっと……眩しかった」


思わず口から出た言葉だった。壹師はニヤリと笑うように口を引いた。

「わてらにしたら、眩しいのはあんたさんらの方や」

けれど、いつも燃えるような目をしているのは、千都世の方だ。

「千都世が泣くのも、謝るのも、何も言わなくなるのも、私は見たくないんです。」

言い置いて、命婦から傘を受け取る。

「それは、眩しいやのうて……」

傘を開き、境内の砂利に踏み出した。

ぱらぱらと言う雨音が、朱を包んだ。

小さく、命婦が続けた。

(いと)おしい、や。」

その声は、朱には聞こえなかった。

昔の話、謎が多いままですが、少しづつ話し下手な朱さんか、嫌味が多そうな千都世さんに語らせて行きたいと思います。


千都世さんがお使いに行った王子の狐さんは、昔から人を騙すのが得意で…でもちょっと痛い目にも会っていて。

色々話が残っています。


引き続き、物語にお付き合いいただけたら幸いです。

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