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烏の符  作者: 沼波
千都世
6/26

微熱

じりじりしながら、匍匐前進の進み具合です。

朱尾と霧彦は、今現在普通烏よりちょっと長生きルートですが、朱尾の旦那さまは……。

朱はどうも、下のお堂には行きたくないようで、ぐだぐだと時間をつぶしています。

朝風呂、最高です。

病んだ身体の放つ甘い臭気は、喉の奥にまで染みていた。

崩れた肉に食い込んだ指は粘つき、怖気(おぞけ)に肌は泡立った。


(いとほ)しい。

おぞましい。


……手は、離さなかった。

離せなかった。



雨戸を開けると、生憎の雨模様だった。

(だる)いのは、そのせいか。それとも、明け方に見た夢のせいか。

脛までしかない浴衣から鈍色の単衣に着替えると、顔を洗ってから本殿の掃除に向かう。

今朝はまだ霧彦が来ていないが、雨のせいだろうか。

そういえば昨日はちゃんと朱尾の元に戻ったのだろうか。狐臭を問い詰められて、逆さ吊りにでもされていないといいけれど。

最近掃除に力を入れているため、拝殿の床は艶やかだ。軽く埃を払い、床を水拭きするだけでピカピカになる。

久々の雨に、杜の緑が深みを増した。

雨の中、どうやってかいくぐってきたのやら、坂下の寺から流れてくる線香の香りが鼻に付く。

絡みつくようなその香りが、あの狐の目を思わせた。

本殿は拝殿と一体になった小さめの社だが、古い割にまめに掃除がされているので、傷んだ雰囲気はない。

本殿から伸びる参道の東側に社務所が設けられており、 そこで朱は寝起きしている。

参道に面した西側に、広い縁側に囲まれた十六畳の和室が広がっているが、普段は人目もあるので雨戸は閉めたままだ。長テーブルや座布団が仕舞われた4畳の小部屋と唯一の洋間である応接室が並び、南向きに、玄関がある。そこから奥まったところに、住居スペースとして床の間のある六畳の客室と四畳の布団部屋のような和室が並び、その更に北側に台所と洗面所と風呂、水洗なのが奇跡とも言える和式のトイレが並んでいる。

境内の隅に、参拝者用のトイレが別にあるのだが、そちらは未だにおどろおどろしい汲み取り式なので、掃除以外では寄り付かない。

この社務所のいいところは、何と言っても風呂があることだ。しかも、旧時代の五右衛門風呂ときている。いつの間にか住むものが居なくなり、使わなくなってしまったので改装もされずに今に至るらしいので、使えるようにするのは大変だったのだが、烏にあるまじき長風呂の朱は、風呂場の普請には気を使った。

昨日の帰り際に湯船にしっかりと水を張って帰った霧彦は、本当に出来る烏だと思う。朱尾に会ったら、よく育てたと褒め称えなくてはなるまい。

昨夜は畳の上で寝てしまったので、体の芯が冷えている。

朱は、慣れた様子で風呂を焚く。ライター一つですぐに火がつくこのご時世、薪をくべて火をおこす労力など、かえって贅沢ではないかと思う。

いつの間にやら雨が止み、裏の山では烏たちが騒ぎ始めていた。

湯気の満ちた浴室はまだ肌寒く、熱い湯が染みた。「くうぅうっ」と、悶えながら湯に浸かっていると、格子の向こう、雲間を縫って日が差した。せっかくの雨なら、もう少し降ればいいのに。

借りたままの重箱を、千都世に返しに行かなければと思いながら、湯船の中で茹っていると、なんの前触れもなく、こつこつと裏の戸を叩く音がした。

「ひっ」と、思わずすくみあがる。

そういえば、のんきに風呂になど入っている場合ではなかったかもしれない。

「朱兄さま?」

見知った声に、ほっと息をつく。

若干、昨日の狐の一味ではと恐れたのだ。

「朱尾かい?」

幾分湯船の中で縮みあがりながら、珍しい人物がどうしたろうかと不思議に思う。

朱尾は霧彦の母親である。

慌てた様子の朱に気づいてか、笑みを含んだ声が格子窓の向こうで続いた。

「だいぶお寛ぎのところ申し訳ありません。霧彦のことでちょっと……」

もしや、逆さ吊りにでもしたのだろうか。唾を飲みこむと、意外にも大きな音がしてびっくりした。

「バカは風邪引かないって言いますけど、一丁前に風邪でも引いたみたいで。今日は一日寝かせておきます。」

やはり、熱でも出したらしい。

「ああ、やっぱり」

朱尾に話して聞かせようと、表から上がるように伝える。

急ぎ風呂から上がり、浴衣を羽織って玄関の鍵を開けに走った。洗い髪は仕方ないとして、しっかりと単衣を着込んで身支度を済ませる。

その間に、雨は土砂降りに変わっていた。

湯上りの熱で汗ばむので、襟元をくつろげながら顔を出した朱に、勝手知ったる顔で上がり込んでいた朱尾は、頬を赤くしてまくしたてる。

「朱兄さま、相変わらず目の毒です!」

朱尾は黒いスーツ姿の女子大生といった姿をしている。採れたてらしい大根葉や、最近品薄な干し柿を買い物かごいっぱいに持参していたが、就活中の女子大生のような格好で、何をしているのやら……。

「朱尾も、相変わらず愛くるしくて困る。」

嘘は言っていないのだが、何故かキッと睨まれてしまった。

髪型をショートボブにしており、くるくる動く表情と相まってよく似合っているのだが、霧彦と同じく状況にそぐわない姿なのが残念である。この親子は、本当によく似ている。並ぶと歳の近い姉弟にしか見えないのだが、本人たちは気にしていないようなので、そういうものなのだろうと思い黙っている。

台所で、持参したものをあれやこれやと準備する朱尾を、袂に手を入れぼんやりと眺めていると、まじまじと朱を見上げた朱尾は憎まれ口をきく。

「朱兄さまのは、タチが悪いの一言に尽きます」

なぜ、悪態なのか。

「そんな湯上りの、そんなほかほか状態で、そんな風に人を垂らし込まないでください!間違いでもあったら、どうするんです……。私には、愛する夫の有りますのに!」

テンションが高いのはいつものことなのだが、久しぶりなので若干目眩がした。

ならばそんな、可愛らしい女子大生押しかけ女房のような格好で来ないでほしい。

「朱尾は、そんな目で私を見ていたのかい?」

意地悪く流し見てみる。

「見てないですってばっ!そういうあざといのも、たちが悪いですよ……」

こんなことを言いながら、離れて暮らす連れ合いに、朱尾がベタ惚れしているのを知っている。朱が朱尾たちに大事にされているのは、ひとえにその、「連れ合い」のおかげである。

持参したらしい惣菜をタッパーウェアから取り分けて、即席の朝の食卓が出来上がっていた。さすが、霧彦の母親と言うべきか。

朱尾は支度が整うと、しばらく「平常心、平常心」などと呟いていだが、手を合わせて朱が箸を取ると、その様子をうっとりと眺めた。

朱尾も調子が悪いのかもしれない。

「霧彦の具合はどうなんだい?」

「朱兄さま、心当たりでも?拾い食いとか!」

ハッとしたように聞く朱尾の言葉に、狐の差し入れかっ!と、思わず叫びそうになったが、辛うじて口をつぐんだ。

慌てて、霧彦の名誉のために否定する。

刻んだ油揚げの入った小松菜のおひたしに舌鼓を打ちつつ、昨日の永遠子とのくだりを話して聞かせた。十中八九知恵熱だろう。

狐関係の話は省いたのだが、どこまで隠しおおせられるか。

「あの子、もう少し落ち着くといいんですけど。そのお嬢さん、どこの子なのかしら」

「確か、金子のばあちゃんのうちの近くって言ってたよ。」

「ああ、きんぴらごぼうの……」

此処からは決して遠くない。一キロちょっとの距離だ。金子のばあさんとは、きんぴらゴボウの名手か何かなのだろうか。

「しっかりしたお嬢さんみたいだったけど、なんか折れちゃいそうな子でさ」

「棒切れみたいに痩せた子なんですか?私、女の子はふっくらしてる方がいいなぁ」

急に姑目線になる。

「そうじゃなくて、なんか思春期の難しいところに差し掛かった感じの、ナイーブなのに人当たりが良くて……放っておけないような、そん……」

「可愛いんですね!」

「……どこをどう省いたら、その結論に達するんだ?」

「そんなの決まってます。男二人がそんな子を前にして面倒臭がらないんですから、可愛いって事です」

説得力がありすぎる。

「確かに、可愛かったかな」

人の美醜にはあまり興味がないので、適当に答えておいた。

確かに綺麗な子だった。脚が。

「うちの子も面食いかぁ〜」

霧彦の心の内までは分からないし、話の方からも省いていたのだが、朱尾には隠せないらしい。なにやら納得している。クワバラクワバラ。

ニヤニヤと、昨日の朱のような笑いを口元に貼り付けていた朱尾が、急に真面目くさった顔をする。

「朱兄さま、わたくし、しばらく留守にさせていただきますね」

(らん)の所だろう?」

「なんで知ってるんですかぁ。あ、バカ息子か」

「朱尾、バカ息子は酷いだろう。霧彦は今時珍しく良く出来た子だよ」

よく、事件も起こすが。

しゅんとうなだれて見せたが、朱が霧彦を褒めたのには気づいたらしく、にへらっと笑う。

藍は、朱尾のこういうところが可愛くて仕方ないのだろう。言わずもがな、藍は朱尾の愛する夫の事である。

「よく気のつく、良い子だよ。藍にも見せてやりたいくらいさ」

「たまに手紙がきますが、あの(ひと)、口を開けば朱さまの事ばかりで。」

妻と子である朱尾たちを差し置いて、何を恥ずかしいことをしているのか。いたたまれない。

藍は、霧彦と同じくらいの歳の頃から、熊野で神使をしている。朱が窓際もしくはニートだとすれば、彼は本社勤務の超エリートみたいなものだ。

「藍さまは、お兄様のことがだーい好きなんですよ」

「奇特な弟だけどね、家族に恵まれて幸せ者だよね」

とはいえ、単身赴任地からはそうそう離れられず、家族が合うのは年に一度くらいなのだ。

「ゆっくりしておいでよ」

「……朱兄さま、寂しくないですか」

玄関先で見送ると、優しい朱尾は冗談めかしていう。

そうすれば、朱が笑って言えるのを知っているからだ。

「寂しいよ。霧彦に、早く治すようにと伝えておくれ」

「きっと、明日にはけろっとしてますよ。」

そんな気がする。

「朱尾はいつ出発するんだい?」

「明日の朝には。まあ、霧彦の具合を見てからにします」

「道中気をつけて」

寂しそうにならないように努めた。

「朱兄さま、藍さまに何か……」

見上げたその目が、不安そうに揺れた。

「藍が息災であれば、それでいいよ」

もう、ずっと、藍には会っていない。

朱は、動けない。

「藍をよろしく」

朱尾の頭をくしゃりと撫でる。


頬を染めて「それでは」と朱尾は出て行った。

先ほどまでの土砂降りが嘘のように、雲間に日が差していたが、朱尾が帰るとまたすぐに降り出した。

朱さん、次回はやっと腰を上げてくれるかな。

続きもどうぞ、お付き合いいただければ幸いです。

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