寝床
朱の輪郭は曖昧で、隠し事もたくさんしています。誠実でありたいと思えば思うほど、嘘は多くなるのではないか、と。
そんな烏です。
洗い場で、千都世から預かっている重箱と湯呑みを片付けていると、永遠子を送って行った霧彦が帰ってきた。
朱がニヤニヤしているので、霧彦は頬を膨らませた。
「朱先輩は、時々母上に似ておられます」
褒め言葉と受け取っておこう。
「君は、帰らなくていいの?」
「……足の震えがおさまったら帰りますよ!」
「君が正直すぎて、私は今胸が痛いよ」
「心にもない事をっ。お陰様で、オレは今夜は眠れません」
「楽しくて何よりだね」
初めて純粋に人と話したからなのか、もっと別の心持ちのためなのか、まだ霧彦には分からないはずだ。分からなくてもいいし、分かってもいい。
朱はそれを生暖かく見守りたい。
今夜、知恵熱でも出さないと良いのだけど。
「そろそろ、帰りなさいね」
じき、日も暮れる。お母様が心配するよ、と続ける。
「母上に、寝床が狭いって怒られました。」
「ええっ。」
「社務所、お一人で淋しくないですか?」
「オレ、泊まりましょうか?」と、冗談でもない口調の霧彦に、狭くなるからやめて欲しいと真顔で答える。
「そんなに嵩張りますか」と、本気で凹んでいる。
「息子なら、邪魔なくらいでちょうど良いんだよ」
フォロー出来たのかは自信がない。
「でも、最近帰ってないから大丈夫です。」
何が大丈夫なのかわからない。確かに、親にべったりという歳でもないが、霧彦の家族は特殊である。
もともと烏は親元を離れると若烏だけで群れを作って行動する。霧彦は確か五歳にはなるはずで、随分前に親離れもして、若衆頭として群れの中で暮らしているはずだ。けれど、あの母親が息子をそうそう簡単に手放すとは思えない。
そう言えば、最近朝から境内をうろついているのは、帰っていないからなのだろうか。
「朱尾は元気にしている?」
朱尾とは、霧彦の母親である。
霧彦が受け継いでいる変化の力の高さは、彼の両親それぞれから受け継いだものだ。朱尾も長年若衆として、朱の元にいたが、十年ほど前に、那智からやってきた瑠璃色の羽根を持った美しいカラスに恋をして、子を設けた。それが霧彦である。朱尾も美しい烏なので、霧彦が健やかなのも頷けるが、美しさに関してはまだ何ともという塩梅。
「近々、父に会いにいくそうです」
という事は、紀伊の方まで出かけるつもりなのだろうか。確か、彼の父は熊野に戻っている。
朱が、少し寂しそうな顔をしたのを、霧彦は気付いたのかもしれない。
「土産話を、嫌という程聞かされますよ」
「霧彦は、朱尾の話になると急に大人びる」笑っていうと、生意気げに口を尖らせた。
「母は、子供のような烏ですから」
霧彦によく似ていると思う。
畏まっていたのが急に恥ずかしくなったのか、そうそう……と朱に詰め寄る、
「今日の話、母ちゃんにしたら羽根を毟られます。まだ、ちょっと狐くさいし」そう言ってクンクンと学ランの裾や朱の着物の袂を嗅いでいる。無作法だからやめなさいとたしなめたが、今は臭いの方が大事らしい。
「そんなに臭うもの?」
「気づかないのは朱先輩くらいですよ」
「……そんな事はないと思うけどなぁ」
霧彦の弟妹達が、まだ物言わぬ卵だった頃、ずる賢い狐にいくつか攫われてしまったのだ。それを朱尾は恨んでいる。世の狐という狐を恨んでいるといっても過言ではない。
「お狐様の稲荷寿司をいただいたなんて言ったら、逆さにされて糞まで口から吐かせられますよ」
それはそれで見て見たい気もする。
朱尾は、かなり過激な烏である。きっと似たようなことはするだろう。
然し乍らその息子が、何故にここまで緊張感がないのかと言われれば、不思議で仕方ない。大らかなお父上の影響だろうか。
夕日に照らされた霧彦の頬は、大人びて見えた。
「朱先輩は暫くこちらにいらっしゃいますよね?」
急な問いかけに、朱は言葉を詰まらせた。
「納涼祭までは人も来ないだろうし、まあ、顔を出すのはたまーに本殿の掃除に来る若い宮司さんくらいでしょうが。」
数年前に代替わりして、この神社を管理している宮司は、いくつかの神社を掛け持ちしているらしく月に数度しか顔を出さない。朱の存在を認識してからは、さらに来る頻度が落ちた気もする。怖がらせたのか何なのか。まあ、それはいいとして……。
「どこかに行かれたりしませんよね」
朱が居られる場所は、限られている。
諸事情あって社務所を仮住まいにしている身であるが、それもいつまで許されるのか。
主の許す限り、だ。
朱の無言に、霧彦は小さな声で呟いた。
「オレの事も頼ってください。」
生意気だとは言わなかった。霧彦はやはり朱尾の子だ、そして……。
「ありがとう。」
まだ十分に手の届く頭を、撫でくりまわしたくなる。けれどそれは我慢した。
背を向けた朱に、「お暇します」と声をかけ、羽音とともに気配が消えた。
熾火のように山の稜線に燻る夕日も、じきに消える。
重箱の中の残してあった稲荷寿司を小皿に盛り、明日返す重箱は洗って洗いかごへ入れた。
雨戸を閉め、戸締りを確認すると、部屋のすべての灯を落とした。
朱は、急に広くなった部屋の、真っ暗な天井を仰いだ。
いつも通りの闇、古い畳の匂い、乾いた漆喰の手触り。それから、古い洗い場のタイルの冷たさ。
目を閉じると、闇の中にまだらな靄がうねり、蠢く。
目を開いた時には、全て終わっていた。
着物の裾を踏みそうになって、暗闇で裾をからげた。単衣も急に、水を吸った様に重く感じたが、男物の単衣が身体のサイズに合わないためだ。ゆるりと広がった衿ぐりから、蒼白い乳房が今にもこぼれ落ちそうに覗いていた。腰にかろうじて引っかかっていた角帯を一度ほどき、単衣を端折って衣紋を抜き、着付け直す。
肩に落ちた長い髪を、一つに結わえると、ひと心地つく。
夕食はまだの様だった。
見慣れた台所の洗いかごには見慣れぬ重箱があり、机の上には小皿に乗った狐色の稲荷寿司が一つ、載っていた。
赤い唇がほころんだ。
「朱が食べたらよかったのに」
正直に言って、霧彦が居ないと何も進みません。
次回、霧彦の友達百人できるかな。です。お楽しみに。
というのは冗談ですが。
次回もお付き合いいただければ幸いです。