連理
ちょっと、話は逸れます…。
すみません。
四、五年前のお話です。
悴んだ手を、同じくらい冷たくなった小さな手が、包み込んだ。
春だというのに、山の空気は頑なで、冷たい。
自分の吐く白い息で、時たま妹の姿が霞んだ。
「兄さま、朱さまをどうか、よろしくお願いしますね」
母の事はいいのだろうか。
妹は、朱の事となると少々煩い。
物心ついて、羽もすっかり生え変わった頃、熊野で暮らす父の元に引き取られたため、朱と過ごしたのはほんの数ヶ月なのだ。それなのに、幼心の刷り込みか、朱、あけると、口を開けば朱のことばかり。
きっと朱は、妹の事など、もう忘れているのではないだろうか……。
近くにいる霧彦の事だって、甥か姪か何かだと認識していれば良い方で、きっと母のおまけか何かだと思っているに違いない。
最近どうにも、それが悔しくて仕方ないのだ。
しかし、そんな事はおくびにも出さず、霧彦は「任せておいて」と請け負った。
朱の近くに居ることすら叶わない妹に、言える愚痴ではなかったのだ。
「母さま、遅い」
「こっちに住んだらいいのに……」
「そんな事になったら、朱さまが痩せてしまうわ」
やはり、妹の頭の中は朱でいっぱいらしかった。
春先というのに、やけに冷える。
母が、父との名残を惜しんでいるであろう事は知れたが、寒いのは苦手だ。
「寒くない?」
霧彦は、旅用にと誂えてもらった、大きめのPコートの合わせを寛げた。
「まだ、もう少し、このままでいるわ」
幼い頃は良く、懐に烏姿の妹を忍ばせて、社を抜け出していた。
「うん」
元々白い妹の顔は、寒さでかさらに青ざめて見える。無理をしていないと良いけど。
母の朱尾は、朱のいる社の杜で生まれた烏である。産まれてすぐに頭角を現した母は、今では伝説の「若頭」として名を残しているが、その話は別の機会に……。
その少し前のこと。
朱が熊野を出て、東に下った際、父も一緒について行くと言って聞かなかったらしい。しかし父はその時すでに、番いの相手はは持たずとも、社に仕えていたため、お役目がそれを許さなかった。
しばらくは熊野でおとなしくしていた父も、ある日魔が差して、兄のいる社へ潜り込んだのだという。
そんなわけで、朱の元を訪れた父は、そのまま母の魔の手に落ちたわけだが……。
様々な紆余曲折を経て、または、母の一途とも言える手練手管によって、結ばれた両親は、未だ円満に遠距離結婚をたのしんでいる。離れている事には特に不便は感じていないようだった。
母は父以外、目に入らないという極端な烏であるし、 父もまた、熊野では知らぬ者のいない、金剛石並みと言われる堅物であるので、まず浮気の心配はない。
まあ、今風に言えば「バカップル」ということか。
とはいえ、たまには息子の顔も見たいと寂しがる父からの要請で、年に数度、父と妹のいる熊野へ顔を出す。
おかしな通い家族である。
そう言ったのは、確か朱だったが……言った後、そのおかしな状況の、発端であったのが自分だと気づいて、何やら一人煩悶していた。
朱がいなければ両親は出会わなかったのだし、 霧彦たちの生産……じゃなかった、出産?あ、産卵!に、一役買っているのだから、朱さまはもう少しうちの家族に胡座かいても良いのに、と霧彦は思う。
朱の弟である父を筆頭に、霧彦の家族は皆朱贔屓なのだ。
空は、何やら明るいような不思議な雲が山際にかかって、辺りは一段と冷え込んだ。
「また、しばらく会えなくなるね」
「うん」
普段おしゃべりな妹が、口少ないのは、寂しいためだと、霧彦は知っている。
二羽とも、まだ嘴の黄色いひよっこではあったけれど、人の姿になればすでに幼子とは呼べないほどに大きくなった。
兄妹揃えば一人前と思っている。
非正規ではあれ、朱の元で行儀見習い中の霧彦には、熊野の本社お仕えの烏とは少し違った視点もある。
その、熊野の中でも上層部である殿上烏の父のそばにいる妹は、霧彦の何倍も苦労しているはずだった。
そんな二羽だからこそ、それぞれの経験はきっと役に立つ。
もう少し……自分たちが大きくなれば、どこかのお社で、神使としてお仕えする事だって、きっと叶うのではないかと思うのだ。
「朱さまはね、お料理だけは、本当に苦手でいらっしゃるのでしょう?」
また、朱さま……。
じくりと、知らず霧彦の胸は痛んだ。
母や兄が話す朱の話を、妹は本当に幸せそうに聞くのだ。
「そこは、母ちゃんに任せてます」
流石にそれは、霧彦も自信がない。
「私も……私にだってお料理の一つ、出来ますのに」
みるみる沈む瞳の色から、目をそらす。
すっかり旅支度を終えた霧彦は、縋るような妹の様子に、一刻も早く、ここを出たいと思ってしまった。
早く、帰りたいと。
朱の待つ、あの社の杜に。
その事が余計に、胸を締め付ける。
熊野を離れられない父。その、父の側を離れられない妹を残して、今日、母とともにまた旅立つのだ。
「父ちゃんの事、頼むね」
霧彦より、少しだけ大人びて見える……辛うじて、霧彦より少し低い位置にある妹の頭を、ぽんぽんとたたく。
「はい」
空から、濡れた雨のような春の雪が、名残を惜しむ妹の涙のように降り出した。
「霙、お前が泣くと、折角の旅立ちが台無しになるよ」
苦笑して、頬の涙を掬い取ってやる。
「母さまがご準備できれば、じきに止みます」
妹の言う事はもっともなのだけれど、霧彦は何も、この雪が止めばいいと思った訳ではないのだ。
妹が泣く、その事実を、理由を、無くしてやりたいと思ったのだ。
それは、叶わない事だけれど。
母によく似た顔の、その瞳はまだ乾かない。
「兄さま」
改まる声音に、霧彦の身は竦んだ。
「兄さまは、母さまのような丈夫な連理をお探しなさいませね」
「霙……」
連理とは、神使となる者の片われであり、番いの相手にも使う。死してなお番う連理の枝に住まう……という思いを込めて、烏たちは好んで片われのことをそう呼ぶのだ。
霙は、卵を並べて孵った、たった一羽の妹なので、霧彦にとっては、霙こそが連理であった。
しかしながら、唯一の……と、そう言う事は許されなかった。
連理は、恋し番い会う相手の場合もあれば、兄妹、姉弟でなる場合もある。
その一番が、仕える神を決め、連理を誓う。
霧彦が妹を連理とする事を許さなかったのは、両親と、当の霙だった。
「兄さま、聞いてます?」
ずっと、同じ意味ならば「比翼」とでも呼べば良いのにと思っていたのだが、その思いは改めた。
片われをなくし、片翼をなくし、飛べなくなるなんて、そんな絶望は出来るなら味わいたくない。
烏たちがあえて避けたのにも、同意できる。
そう思ったのは、ひとえに、朱の事を知ってしまったからだ。
文字通り、朱は比翼を失い、飛ぶことも、烏の姿を纏うことすら出来なくなったのだ。
熊野では、朱と茜に起こった悲劇を、多少の正誤はあれど、知らぬ烏はいない。
朱さまは、「流された」のだと、母から聞いた。
母はそれ以上口にしなかった。
だから、霧彦は聞かずにいる。
聞かなくていいと、思ったから。
それから、もう一つ。
霙の事……。
お読みいただきありがとうございます。
このところお話が前後してしまってますが、そんなつもりはなく、そうなってしまっているので余計にタチが悪い…という。
霧彦はこの後、周りに興味のない朱の視界に、何とか収まる事に成功します。
彼のやんちゃには、それなりの理由が…あったのか?
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




